ハベトロット+ぐだ子
僕の指は、たぶん、この世界で一番よく動く指のひとつだと思う。
自慢じゃない。事実だ。針を持って、糸を通して、布の目を数えて、縫う。それだけを、気が遠くなるほど長い時間くり返してきた。僕がどれだけの服を仕立ててきたか、もう自分でも数えられない。
ドレスも、外套も、寝間着も、旅装も、それから……誰にも渡せないまま燃えてしまった一着も。
ノウム・カルデアという場所は、僕の工房から見るとずいぶん不思議な城だ。石も土もレンガもなくて、代わりに冷たい白い壁が続いている。窓の外にはもっと何もない。空も、地平線も、影さえもない。世界が丸ごと下書きの段階で放り出されたみたいに、ただ、白い。
花も咲かなければ、羊もいない。糸を紡ぐ材料をどこから調達すればいいのか、最初は途方に暮れたくらいだ。
初めてあの窓の前に立ったとき、僕は正直、あまり長く見ていられなかった。あれは『静かな景色』じゃない。何かが在ったはずの場所から、在ったという事実ごと消されている。妖精の目には、そういうものがよく見えてしまうんだ。
でも、ここには人がいる。人と、人でないものが、同じ廊下を歩いている。だから僕は、ここでも仕立て屋をやっている。
服っていうのはね、身体を守るためだけのものじゃない。寒さをしのぐだけなら、毛布を巻いていればいい。そうじゃなくて……服っていうのは、その人が『その人でいる』ための輪郭なんだ。今日はこの色が着たい、この裾の揺れ方が好き、この襟は肌に触るから嫌い。そういう、ちいさな我儘の集まりが、その人の形になる。
僕はそう信じて針を持ってきた。ずっと。
だから、あの子のことを考えると、僕はどうしても手が止まってしまうんだ。
その日、マスターは工房の扉を三回叩いてから顔を出した。律儀な子だ。妖精相手にそんな礼儀を守らなくたっていいのに、彼女はいつもそうする。
「ハベトロット、いる? 採寸してもらいに来たんだけど」
「いるに決まってるだろ。僕がここ以外のどこにいるっていうのさ」
言いながら、僕はメジャーを手に取って……そこで、彼女の左腕に気づいた。
肘の少し上まで、包帯が巻かれていた。真新しい白が、袖口からのぞいている。
「……それ」
「ああ、これ? 平気平気、かすっただけだから」
彼女は笑って、包帯の上を軽く叩いてみせた。まるで、机の埃でも払うみたいに。
「ちゃんと診てもらったよ。深くはないから、次のレイシフトも問題ないって。よかったー、私が居ないと出撃自体が出来ないからね」
『よかった』
その言葉が、僕の耳の奥に、小さな棘みたいに引っかかった。僕は針を布に刺したまま、しばらく動けなかった。
……ねえ、マスター。
僕はさ、聞きたかったんだよ。「傷、残るかな」っていうセリフを。「夏に半袖着られなくなったら嫌だな」とか「あーあ、せっかく綺麗な腕だったのに」とか。そういう、どうしようもなく他愛のない、けれど君くらいの女の子なら当たり前に口にするはずの、そういう文句を。
でも君は言わない。
君が真っ先に確かめたのは、その傷が次の戦いの邪魔になるかどうかだった。それを聞いて、心の底から安心した顔をしたんだ。自分の身体を、道具の点検みたいに。刃こぼれしていないか確かめる剣士みたいに。
誰も君にそうしろとは言っていない。少なくとも、僕は言ってない。
君は、自分でそうなったんだ。
だってそうしなければ、この不思議な城の明日を迎えられなかったから。君はそれをずっと、たった一人分の背中で引き受けてきた。人類最後のマスター。そんな肩書きを、誰が好き好んで背負うっていうんだ。
「ハベトロット? どうかした?」
「……なんでもないよ。ほら、上も下も脱いで。下着だけになってくれる?」
僕の言葉に彼女は素直に頷いて、上着を脱ぎ、シャツのボタンを外していった。ためらいは、全くなかった。手当てのために身体を見せることに慣れきってしまった人間の手つきだった。それも、あまり嬉しくない気づきだった。
下着は、飾りのないものだった。
伸縮のいい生地で、縫い目は肌に当たらないように処理してあって、走っても跳ねても崩れない。締めつけない、擦れない、一日中つけていても痛くならない。仕立て屋の目から見れば、よくできた実用品だ。誰が作ったにせよ、いい仕事をしている。
レースの一片もない。色は、洗濯を何度繰り返しても草臥れて見えない、灰みたいな色。
……ここでも、か。
誰の目にも触れない場所ですら、君は「かわいい」で選ばないんだね。静かにため息をつきながら、僕は彼女の身体に目をやる。
傷があることは、知っている。
言っておくけど、今さら驚いたりはしないよ。君の採寸をするのはこれが初めてじゃないんだ。仕立て屋っていうのはね、寸法と一緒に傷の位置も覚えるものなんだ。塞がった傷痕の上は皮膚が硬くて、縫い目が当たると擦れて痛む。
だから僕の頭の中には、君の身体の地図がある。ここは縫い目を逃がす、ここは裏地を1枚足す。そういう地図が。右の肩甲骨の、引き攣れて盛り上がった大きなもの。脇腹を細長く走る白い線。膝の上に点々と散った小さな跡。
……うん、知ってる。これらは僕の地図に描いてある。でも。
左の二の腕の内側、この浅い線は。
腰骨の上の、この新しい引き攣れは。
鎖骨の下に増えた、この小さな点は。
……前に測ったときには、なかった。
僕は指を止めて、数えた。3つ。たった数週間で、新たに3つ。
地図が、更新される。仕立て屋として、僕はそれを書き換えなきゃいけない。ここにも縫い目を逃がそう、この生地はもう肌に当たるかもしれない。手はちゃんと動く。ちゃんと動くんだけど、頭の隅がずっと冷たいままだった。
次に君を測るときには、きっとまた増えているんだろう。その次も、その次も。そして君は、そんなこと一言も報告しない。「増えたよ」なんて言わない。かすっただけ、平気平気、大したことない。君の中ではもう、増えていくことの方が当たり前になってしまっている。
この傷は、彼女が歩んできた軌跡だ。
一つひとつに、きっと名前がついている。守れた誰か、守れなかった誰か、燃えた街、沈んでいった国。彼女はそのぜんぶを覚えていて、その上でなお、前に進むことを選んできた。
だからこの傷痕は、恥でも失敗でもない。誇っていいものだ。少なくとも、僕がそれを「痛々しい」なんて言葉で片づけていいものじゃない。
増えたということは、それだけ遠くまで歩いたということだ。立ち止まらなかったということだ。本当なら、僕はそれを讃えるべきなんだと思う。彼女が選んだ道を、彼女が積み上げてきたものを、否定する真似なんてできないのは分かっている。
分かっているんだよ、本当に。
だからこの感情は、僕の我儘だ。
英雄である前に、君は一人の女の子なんだと。地図に描き足す線が増えていくより、着たい服の数が増えていってほしいんだと。そんな身勝手な願いを、この期に及んで捨てられずにいる、僕の……。
「ハベトロット?」
「ああ、悪い悪い。すぐ終わるよ。ほら、腕上げて。まっすぐ」
不思議そうにこちらを気にかける声に我に返る。僕はメジャーを彼女の胴に回した。素直に上げられた両腕。その掌が、ちょうど目の高さに来ていた。細かい傷が何本も走っていて、皮は少し硬くなっていて、指先には手綱か何かで擦れた跡がある。
この手に、いつか、指輪でも花でも、ペンでも、包丁でもいい、そういうものが握られる日が来るだろうか。
僕は数字を読み上げながら、そんなことを考えていた。
もうひとつ、思い出す。
新しい普段着を仕立てようって話になったとき、僕は生地の見本を工房いっぱいに広げてみせた。妖精の目にも眩しいくらい、とっておきを並べたんだ。
深い森みたいな緑。夜明け前の空色。摘みたての苺の赤。糸を織り込んだら光を含んで揺れる、あの上等なやつ。
「うわぁ……すごい。全部きれい」
彼女は本当に嬉しそうに、ひとつひとつを指先でなぞっていった。目が輝いていた。あれは間違いなく、17歳の女の子の目だった。
それでね、彼女は最後にこう言ったんだ。
「じゃあ……この、紺色のやつでお願いします」
僕は聞き返した。どうして、って。
「だって、汚れが目立たないから。生地も丈夫そうだし」
それから彼女は、少しだけ照れくさそうに付け足した。
「私、けっこう転ぶし、すぐ泥だらけにしちゃうから。もったいないでしょ、きれいなの汚しちゃったら」
……もったいない、か。
言っておくけど、僕は紺色を悪く言うつもりはない。いい色だ。落ち着くし、彼女の髪の色にも合う。仕立て屋として、その選択に文句なんてない。
でも僕は見てたんだよ、マスター。
君が最初に触れたのは、その紺じゃなかった。君の指は、あの淡い桜色の、裾がふわりと広がる生地の上で、たっぷり3秒は止まっていた。ほんの少しだけ、頬が緩んでいた。
そして君は、何も言わずにその手を引っ込めたんだ。似合わないと思ったからじゃない。欲しくないからでもない。
……そんな服を着ていく場所が、自分の人生にはもうない。
君のそんな心の声が、聞こえた気がしたんだ。
あの日、棚の隅にあったリボンを見つけたときも同じだった。君はそれを手に取って、ちょっと自分の髪に当ててみて、鏡の方をちらっと見て……それから、丁寧に元の場所に戻した。
「戦闘中に引っかかったら危ないもんね」
そう言って、笑ったんだ。
誰に言い訳する必要もないのに、君は僕に言い訳した。まるで、そんなものを可愛いと思った自分を、恥じてでもいるみたいに。
ねえ、それは違うよ。それは、恥じるようなことじゃないんだ。隠すような事じゃないんだ。
妖精っていうのは、我儘な生き物だ。
僕たちは気に入らなければ働かないし、気に入れば頼まれなくても縫う。誰かのためなんて綺麗な理由じゃなく、ただ『そうしたいから』で動く。だから人間には嫌われる。当然だと思う。
でもね、僕はその我儘こそが、生きているってことなんじゃないかと思っている。
これが好き。あれは嫌い。今日はこの色の気分。あの子のあの髪飾りが羨ましい。甘いものが食べたい。眠い。誰かに褒められたい。
……そういう、小さな感情の粒みたいなものが、心の中でちいさく光り続けていること。
それが、その人がその人であるってことの、いちばん確かな証拠なんだ。
マスター。君はきっと、これからも戦い続けるんだろう。君は逃げないし、投げ出さない。それを僕は知っているし、心から尊敬している。
だけど、僕が本当に願っているのはね。君が世界を救うことじゃない。君が、生地の色を選ぶときに『汚れないか』じゃなくて『かわいいか』で選べる日が来ることだ。
傷を見て、次の出撃じゃなくて夏の半袖のことを心配できるようになることだ。リボンを手に取って、なんの理由もつけずに、そのまま髪に結んで、鏡の前でくるっと回れることだ。
そんなの、世界を救うことに比べたら、あまりに小さくて、どうでもいい願いだと笑われるかもしれない。
でも僕は仕立て屋だ。人がその人でいるための輪郭を縫うのが仕事だ。だったら、君の輪郭がすり減っていくのを黙って見ているわけにはいかないだろう。
君は人類最後のマスターで在り続けている。それでいい。それは君が選んだものだ。だけど頼むから、その内側にいる女の子まで、置いてきぼりにしないでくれ。
だから僕は、こっそりやることにした。
最高の生地で仕立てた、丈夫で、動きやすくて、君の望みどおりの服。その裏地の……ちょうど左の腰のあたり、外からは絶対に見えない場所に。
僕は小さなリボンを縫い付けた。
あの日、君が棚に戻した、淡い色のやつだ。ちゃんと同じ色の糸を選んだ。戦っている最中に引っかからないよう、極力平たく、けれど、ほどけたりしないように。
誰も気づかない。君だって、しばらくは気づかないだろう。
それでいい。
いつか、君がこの服を脱ぐとき。あるいは、洗おうとしてひっくり返したとき。ふとそれを見つけて、「なにこれ」って、少しだけ笑ってくれたらいい。
そしてもし……もしもいつか、戦いが終わって、引っかかるものを気にしなくてよくなる日が来たら。
そのときは、言ってくれ。新しく仕立てた桜色の服をプレゼントするから。糸を解いて君の髪に合う長さに切って、いちばん似合う結び方で結んであげるから。
それまでは、ここに隠しておく。君の内側に。誰にも見えないところで、君がまだちゃんと女の子であることの、証拠みたいにして。
……どうか、その日まで。
僕は最後の一針を留めて、糸を歯で切った。
工房の外では、また出撃を告げる放送が流れている。あの子の足音が、廊下を駆けていくのが聞こえた。相変わらず速い。転ばないといいけど。
僕は畳んだ服にそっと手を乗せて、目を閉じた。妖精の祈りなんて、たいして効き目はない。願いを叶えるのは、いつだって僕らじゃなくて、歩いていく本人の足だ。
それでも僕は祈るよ。どうか、あの子が、あの子のままで帰ってきますように。
……どうか、この糸を解く日が、ちゃんと来ますように。
カルデアの大夢火は最推しのメルトに捧げました。
彼女との旅はまだまだ続きます。