推しの1人、バーヴァン・シー短編。ハロウィンイベ大活躍で歓喜。
ぐだ男×トリ子になります。恋人設定。
コフィンの蓋が開いた瞬間から、アイツはもう笑っていた。
「ただいま!みんな、おつかれさま!」
レイシフトルームに、アイツの明るい声が響く。それを合図にしたように職員たちがわっと集まってきて、口々に労いの言葉をかけ始めた。
特異点の修復完了。存在証明、問題なし。帰還者、全員無事。
モニターに並ぶ緑色の文字を誰かが読み上げると、あちこちから小さな拍手が起きた。
極めて小規模な特異点とはいえ、戦闘は何度かあった。無傷での修復完了は、この上ない成果である。
……記録の上では。
私はコフィンの縁に腰かけたまま、その光景を眺める。何となく、ヒールの踵で床をコツンと蹴った。
真っ先にアイツの背中へ飛びついたのは、アストルフォだった。いつもの調子で何やら騒いで、アイツが笑いながらそれを受け止める。その横ではエミヤが腕を組み、食堂に何か用意しておこう、と相変わらずの『らしさ』発揮していた。巴御前は少し離れたところで弓を下ろし、穏やかにその様子を見守っている。
今回のレイシフトに同行したのは、その3騎と私。
普段から特別つるんでいるわけでもない。生まれた国も時代もバラバラ。共通点といえば全員がアイツのサーヴァントであることくらい。レイシフト適性が高い順に集められたに過ぎない。
管制室から降りてきたマシュが「先輩、報告書は明日で大丈夫だそうです」と声をかけ、アイツが「ほんと?助かる!」とまた笑う。
アストルフォの冗談に笑って。エミヤの小言に笑って。巴御前の労いに笑って。
いつもの光景。いつもの、ムカつくくらいに、いつも通りの光景。
……その中で、私だけがほんの少し、眉を顰めた。誰にも気づかれない程度に。
(……チッ)
心の中で、舌打ちを一つ。
別に、アストルフォがアイツの背中にへばりついているのが気に食わないわけじゃない。……いや、ちょっとは気に食わないけど。それは今、どうでもいい。
私が見ていたのは、アイツの笑い方だった。
笑うタイミングが、いつもよりほんの半拍だけ早い。誰かが冗談を言い終わる前に、もう笑っている。まるで『笑う』という行為を先に決めてから、周りの会話に合わせているみたいに。
それから、左手。
笑いながら、喋りながら、アイツは時折、右手の指で左の手首をさすっていた。袖口の少し上。何もない場所を。
何度も。何度も。
「バーヴァン・シー」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。アイツがこっちを見ていた。いつもの顔で。
「おつかれさま。今回もありがとう」
「……別に。雑魚マスターのお守りなんて慣れてるし」
「あはは、手厳しいなあ」
そう笑って、アイツは皆に囲まれたままレイシフトルームを出て行った。最後まで、笑顔を崩さないまま。
人のはけた部屋で、私はしばらくコフィンの縁に座ったまま、自分の足元を見つめていた。
赤いヒール。泥ひとつ付いていない、いつもの靴。
あの村のぬかるんだ道も、この靴で歩いた。汚れたってすぐに落とせる。私はサーヴァントだから。
でも、アイツは違う。アイツは、人間だ。
人間の中に入り込んだ泥は、そう簡単には落ちない。
……だからこそ、確信した。
日付の変わったカルデアの廊下は、昼間の騒がしさが嘘みたいに静まり返っていた。
ヒールの音を殺して歩く。別に、忍んでいるわけじゃない。夜中にカツカツ鳴らすのはダサいってだけ。
目的の部屋の前で、足を止める。扉の横のパネルに指を滑らせると、ロックはあっさりと開いた。
「……あれ、バーヴァン・シー?」
部屋の中は、明るかった。
アイツは、机の前の椅子に座っていた。礼装の上着を脱いだだけの格好。ベッドのシーツには、皺ひとつない。
帰還してから、もう何時間も経っている。なのに、一度も横になっていないということだ。
机の上には、報告書用の端末が開きっぱなしになっていた。画面は真っ白。一行たりとも書かれていない。その横に、水の入ったコップが一つ。口をつけた跡すらない。
コイツは何時間も、ここでこうして座っていたんだ。何もしないで。
……何も、書けないで。
「いらっしゃい。どうしたの?」
笑顔だった。昼間と、寸分違わない笑顔。
戸口で腕を組み、その顔をじっと見る。
こういう顔は、今までに何度か見たことがある。自分がどんなにボロボロでも、周りに心配をかけないように貼り付ける笑顔。形は完璧。角度も完璧。完璧すぎて、中身が何も入っていない。
私は、この顔が大っ嫌いだ。
妖精國にいた頃、私も似たような仮面を付けていたから分かる。笑っていれば、誰も奥まで覗き込もうとはしない。キャハハと笑っていれば、誰も『痛くないの』なんて聞いてこない。
「別に。暇だっただけ」
「そっか。……うわ、もうこんな時間か。全然気づかなかった」
「何時間座ってたんだよ」
「え?いや、報告書まとめてたら、つい」
真っ白な画面を背にして、よく言う。
「あ、座る?散らかってるけど」
「散らかってんのはいつもだろ」
部屋に入る。アイツの座る椅子の向かい、机を挟んだもう一つの椅子。そこが、私の場所だ。
でも、座る前に、壁際の棚へと向かった。
棚の2段目、その奥。支給品の缶コーヒーと、クッキーの袋。その向こうに、赤い缶が一つ。
以前私が持ってきた紅茶だ。お母様が気に入っている銘柄を、私も何となく飲むようになった。
缶の隣には、カップが2つ並んでいる。白色と赤色。その両方を手に取る。
「あ、それなら俺が淹れるよ。お湯沸かすから……」
「座ってろっつったろ」
振り返らずに言うと、立ち上がりかけていた気配が、大人しく椅子に戻った。
電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。ポットに茶葉を量り入れる。1人分と、もう1人分。
お湯が沸くまでの間に、砂糖壺の蓋を開けておく。
私のには1つ。アイツのには2つ。いちいち聞かなくても、知っている。
最初にこの缶を持ってきた夜のことを、ふと思い出した。
缶のラベルを見たアイツが「これ、高いやつじゃない?」と目を丸くして、私は「あんな泥水みたいなコーヒーが飲めないだけ」と言い返した。あの時の紅茶は、ちょっと蒸らしすぎて渋かったっけ。
今はもう、失敗しない。何回淹れたかなんて、数えるのもとっくにやめた。
閑話休題。お湯を注ぐと、部屋に甘い香りが広がった。蒸らしの間、ポットに手を添えて待つ。
「……いい匂い」
ぽつりと、彼が呟いた。
いつもの調子を作ろうとして、少しだけ作り損ねたような声だった。
私は聞こえないふりをして、カップに紅茶を注いだ。
白いカップを彼の前に置いて、赤いカップを手に向かいへと座る。
「ありがとう。……うん、おいしい」
一口飲んで、アイツは笑った。それから、よく喋った。話題は、数時間前までいた特異点の話。
「巴さんの弓、見た?最後の群れ、一射でまとめて射抜いててさ。村の人たち、しばらく口開けたまま固まってた」
「見てねーよ。私も戦ってたし」
「あ、そっか。……エミヤなんか、宿屋の厨房借りて村じゅうの人にシチュー作っちゃってさ。おかみさんに、弟子にしてくれって泣きつかれてた」
「何しに行ったんだよあの弓兵」
「あはは。アストルフォはアストルフォで、ヒポグリフに村長さん乗せて空飛んで、腰抜かさせてたし」
「ロクな奴いねーな」
村の人たちが、別れ際にどれだけ感謝してくれたか。村長さんがくれた干し肉が、どれだけ固かったか。修復の直前、村の広場から見えた星空が、どれだけ綺麗だったか。
楽しそうに。笑いながら。
「バーヴァン・シーも、あの村の靴屋さん覗いてたよね。何か良いのあった?」
「……別に。ダサいのしかなかった」
「そっか。今度、また皆でどこか行けたらいいな」
今度。皆で。
明るい声だった。明るすぎて、紙みたいに薄っぺらい声。
私は紅茶を飲みながら、適当に相槌を打って聞いていた。
喋れば喋るほど、アイツの言葉は軽くなっていく。軽くて、明るくて、どこにも重さがない。重いものを全部どこか奥の方に押し込んで、その上に明るい言葉だけを積み上げているみたいに。
そして、その話の中に。
一度も出てこない、出来事があった。
「……でさ、最後の方は本当にギリギリだったけど、みんなのおかげで村はちゃんと守れたし」
「なあ、マスター」
遮る。アイツが口を閉じた。
「いつまでそれやんの」
「それって?」
「その顔」
アイツは、きょとんとした顔をした。本当に、上手いもんだと思う。
「えっと。俺、変な顔してた?」
「……リゼットのこと」
その名前を出した瞬間。
部屋の空気が、止まった。
アイツの笑顔が、ほんの一瞬だけ、ピシリと固まる。ガラスに細いひびが入るみたいに。すぐに元に戻ったけれど、私は見逃さなかった。
カルデアに戻ってから、誰も口にしなかった名前。
アストルフォも、エミヤも、巴御前も。管制室のモニター越しに全部見ていたはずの連中も。皆知っていて、皆黙っていた。
アイツが、笑っていたから。
笑っているアイツに、わざわざ水を差すような奴はいない。
……だから、私が差してやる。
リゼット。あの村にいた、6つか7つくらいのガキ。
泥だらけの足で駆け寄ってきて、私の靴を見るなり「おねえちゃんの靴、きれい!」と目を輝かせた女の子。それからはずっと、アイツの後ろをくっついて回っていた。お兄ちゃん、お兄ちゃん、って。
井戸の縁で、内緒話みたいに聞かれたこともある。
「おねえちゃんは、お兄ちゃんのこと好き?」
「は?ありえねーし。あんな雑魚」
「じゃあ、わたしがお兄ちゃんとけっこんするね!」
ガキ相手に、一瞬本気でムカついた。
3日目の朝には、アイツの左手首に、草の茎で編んだ腕輪を巻いていた。お兄ちゃんが怪我しませんように、って。アイツは掲げるように見せてきて、似合う?と笑っていた。
……解決間近の日。魔獣の群れが、村を襲った。
教会に逃げ込んだ村人たちを守るため、村の外れで敵本隊を迎え撃った。激戦の末全滅させたけど、その瞬間村の方から轟音が鳴り響いた。
はぐれた魔獣が逆方向から村へ入り、教会の壁へ突っ込んでいたのだ。
その壁の内側に、運悪くあの子がいて。
崩れた壁の前で、アイツはあの子を抱いて座り込んだ。
ほんの数秒だけ、動かなくて。それから静かにあの子を横たえて、立ち上がって。いつもの声で、私たちに次の指示を出した。
一度も、声は震えなかった。
カルデアに戻ったら、腕輪は消えていた。レイシフトルームでアイツが何度もさすっていた、何もない場所。
でも、アイツの腕は、あの子の重さを覚えている。
マスターは、静かにカップを置いた。
「うん。……残念だった。本当に」
俯いたまま、呟くように言葉を紡ぐ。
「……村の人たちはほぼ全員助けられたし、特異点も修復できた。それだけに悔しいよ。リゼットのことは、俺がもう少し早く気づいてれば……」
「最後、なんて言ったの」
「え?」
「あの子。最後に、アンタに、なんて言ったの」
アイツの口が、少しだけ開いた。
言葉は、出てこなかった。
1秒、2秒、3秒……。
喉が、小さく動く。何かを飲み込もうとして、うまく飲み込めなかったみたいに。机の上の左手が、ぎゅっと握られた。何もない手首が、微かに震えていた。
「……『お兄ちゃん、けが、ない?』って」
掠れた声。
「自分の方が、ずっと……」
そこで、止まった。止まって、アイツは。
笑った。
「……ごめん。何でもない」
笑ったんだ、アイツは。
目の縁を真っ赤にして。声を詰まらせて。それでも口の端を、無理やり持ち上げて。
「大丈夫だから、本当に。ほら、せっかく淹れてくれたのに、紅茶冷めちゃうよ。バーヴァン・シーも疲れてるだろうし、今日はもう……」
大丈夫。その一言で、何かが切れる音がした。
我慢の、限界だった。
ガタンッ!
椅子が、派手な音を立てた。
気づいた時には、立ち上がっていた。机を回り込み、アイツの前に立つ。アイツが顔を上げる。何か言いかける。聞かなかった。
両腕でアイツの頭を抱え込み、そのまま胸に引き寄せた。
強引に。力任せに。逃がさないように。突然のことに反応できなかったのだろう。座ったままのアイツの顔は、すっぽりと私の胸に収まった。
冷たかった。
部屋はちゃんと暖かいのに、アイツの首筋も、耳も、ひやりとしていた。何時間もここで、一人で固まっていたせいだ。それなのに、心臓だけは。私の腕に伝わるくらい速く、痛いくらいに脈打っていた。
「ば、バーヴァン・シー!?」
「ふざけんなよ強がりやがって!!」
叫んでいた。夜中だとか、隣の部屋だとか、そんなの知ったこっちゃない。
「……恋人の前でくらい、弱音吐けよ!!」
腕の中で、アイツが息を呑むのが分かった。
身を引こうとする気配。させない。頭を抱える腕に、もっと力を込める。アイツの髪に、額を押し付ける。
叫んだせいで、喉がひりひりする。心臓がうるさい。落ち着け、と自分に言い聞かせて、アイツの髪に指を差し込んだ。柔らかい髪を、ゆっくりと梳く。
「少しくらい、頼ってよ。立香」
声が、自分でも驚くくらい小さくなった。
今日初めて、その名前を呼んだ。
腕の中の身体が、ビクリと震える。長い、長い沈黙。
最初に聞こえたのは、息を吸う音だった。引き攣ったような、途切れ途切れの。
次に、胸元がじわりと温かく濡れた。アイツの手が、宙で迷っていた。私の背中に回しかけて、止まる。
(この期に及んで、まだ遠慮してやがる)
その手首を掴んで、無理やり私の背中へ回させた。
「掴まってろ。今くらいは」
ぶっきらぼうに、優しく囁く。
その一言で、堰が切れた。
……ギュっ
アイツの腕が、しがみつくように私を締め付けた。
「助け、られなかった」
くぐもった声だった。
「俺、あの子の手、握ってたのに。ちっちゃくて。まだ、あったかくて。……最後まで、俺の心配、してて」
「うん」
背中を、トン、トンと叩く。
「腕輪、なくなってて。帰ってきたら、なくなってて。……あの子がいたって証拠、もう、どこにもなくて」
片手を下ろして、アイツの左手を掴む。何もない手首を、指でぐるりと包み込んだ。丁度、腕輪が巻かれていた場所を。
「ここにあったんだろ。知ってる」
握る手に、力を込める。
「私も見た。あのヘンテコな腕輪。ちゃんと覚えてる。……証拠なら、ここにいる」
アイツの喉から、声にならない音が漏れた。
「リゼット、歌、教えてくれたんだ。村の、麦の歌。……俺、音痴だって、笑われて」
「知ってる。聞こえてた。マジで下手だった」
「……うん」
泣きながら、アイツが少しだけ笑った。今度は、ちゃんと中身の入った笑い方だった。
それがかえって堪えたのか、肩がまた大きく震えた。
「忘れたくない。……忘れたくないのに、みんなの前で泣いたら、だめだと思って。俺が泣いたら、みんなが……」
「うるさい」
言葉ごと、胸に押し付けて塞いだ。
「今は、みんななんていねーよ。私しかいない。……だから、泣け」
その瞬間。アイツの中で、何かが決壊した。
声を上げて、泣いた。子供みたいに。しゃくり上げて、何度も、何度も。
世界を救った男が。人類最後のマスターが。私の胸に顔を押し付けて、ぐしゃぐしゃになって泣いていた。
カルデアに、雨は降らない。
なのに、今夜のこの部屋だけは、生憎の土砂降りだった。
コイツは、今まで救い続けてきた。
特異点を。異聞帯の果てを。数えきれないくらいの人を、街を、世界を。
でも、丸ごと全部なんて無理だ。どれだけ手を伸ばしたって、指の隙間から零れ落ちるものはある。取りこぼしてしまったものは、ある。
普通なら、ある程度は慣れていくものだ。仕方なかったって、全部は無理だって、どこかで線を引いて、割り切って。そうやって前に進んでいく。
人間も、妖精も、サーヴァントも、皆そうしている。そうしないと、潰れてしまうから。
でも、コイツは。
それが、出来ない。
呆れるくらいに全力で、毎回毎回、馬鹿みたいに本気で全部を救おうとして。それで結局、救えたものより、救えなかったものの方ばっかり見てしまう。
百人助けても、零れた一人の方を、ずっと見ている。
(……ほんと、雑魚。救いようのない、お人好しの雑魚)
だから、今だけは。
今だけは、全部吐き出させてやる。救えなかったものの分まで、ここで泣けばいい。誰にも見せなかった分まで、全部、私が受け止めてやる。
泣きじゃくる背中を、一定のリズムで叩く。トン、トン、トンと。昔、お母様がしてくれたみたいに。
涙でぐしゃぐしゃの顔を、袖で拭ってやる。拭いたそばから、また濡れる。何度でも拭く。服が汚れようが、化粧が崩れようが、知ったことか。
「……ここにいる。どこにも行かねーから」
つむじに、そっと口付けをする。
机の上で、2つのカップの紅茶が、ゆっくりと冷めていった。
どれくらい、時間が経ったのだろうか。
泣き声が次第に小さくなって。しゃくり上げる間隔が長くなって。やがて、規則正しい寝息へと変わっていった。
泣き疲れて、眠ってしまったらしい。私に、しがみついたまま。
「……まったく」
小さく呟いて、その身体を抱え上げる。サーヴァントの腕力なら、人間1人くらいどうってことない。
そっとベッドに横たえようとしたけど、服をがっちり掴まれたままだった。引き剥がそうとすると、更に額を押し付けてくる。
……仕方ない。
アイツを抱えたまま、私もベッドに潜り込んだ。狭いシングルベッドの上で、さっきまでと同じように、アイツの頭を胸に抱き寄せる。
仕方なく、だ。服が伸びるのが嫌なだけ。
胸元に収まった寝顔は、ひどいものだった。目の周りは腫れているし、睫毛は濡れているし、頬には涙の跡がくっきりと残っている。昼間、皆の前で笑っていた顔とは、似ても似つかない。
でも。こっちの方が、ずっといい。
無理な笑顔よりは、素の泣き顔の方が、ずっと。
前髪を、指でそっと退ける。
(……なあ、立香)
口には出さずに、呼んでみる。普段は、滅多に呼んでやらない名前。
お前はさ、誰にでも優しいじゃん。マシュにも、職員にも、今日一緒に行った連中にも、カルデアの誰にでも。だから皆、お前のことが好きだし、お前の笑顔が見たいって思ってる。お前もそれが分かってるから、笑うんだろ。皆のために。
でもさ。
そうやって全部に笑ってたら、お前の泣く場所、どこにもなくなっちゃうじゃん。
私、知ってんだよ。昔の私が、そうだったから。
妖精國でキャハハって笑って、ひどいことして、誰にも本当の顔を見せないで。そうしていれば、誰にも傷つけられないと思ってた。……結局、最後には全部ダメになったけど。
だから、お前の笑い方が大っ嫌いなんだ。あの頃の私と同じ、中身が空っぽの笑い方。
見てらんないんだよ。
私という女は、ひとりぼっちの男を誘って、踊らせて、最後に血を吸って殺す。バーヴァン・シーってのは、そういう妖精。男を破滅させるための妖精。
その私が、泣き疲れた男を胸に抱いて、同じベッドで寝かしつけてる。変だって?笑いたきゃ笑え。
(……リゼット)
あの子、最後までコイツの心配してた。自分が死にかけてるのに、「けが、ない?」って。
本当に、コイツにそっくり。
だからコイツは、あの子のことが忘れられないんだ。自分と同じ顔で、人の心配ばっかりしてた子のことが。
『おねえちゃんは、お兄ちゃんのこと好き?』
井戸の縁で聞かれたことを、今さら思い出す。
ありえねーし、って答えた。あんな雑魚、って。
……嘘だよ。
好きだよ。大好きだよ、心の底から。悪いかよ。
コイツのへらへらした顔も、お人好しなところも、雑魚のくせに一歩も引かないところも、全部。ムカつくくらい、好きなんだよ。
ごめんな、リゼット。コイツは、お前にはあげらんない。
その代わり、お前のことは、ちゃんと覚えとく。
アイツの左手を取って、口元まで引き寄せる。何もない手首。草の腕輪が巻かれていた場所。
そっと、唇を当てた。
(忘れないって言うなら、私も覚えといてやるよ)
あの子の名前も。泥だらけの足も。私の靴をきれいって言ったことも。お前が一人で抱えきれない分は、半分こっちによこせ。サーヴァントってのは、そのためにいるんだろ。
……恋人ってのも、たぶん、そのためにいるんだろ。
分かってる。私はサーヴァントで、コイツは人間だ。この恋に、ちゃんとした終わり方なんて、たぶん無い。いつか私は座に還るし、コイツはいつか、私のいない場所で歳を取り、やがて生涯の伴侶を見つけるのだろう。
……でも、それでもいい。
全てが終わるまでの間、コイツの泣く場所が私の胸の中にあるのなら、それでいい。
彼が、眠ったまま小さく身じろぎした。私の胸に、頬を擦り寄せてくる。まるで、ガキみたいに。
「……ん……バーヴァン、シー……」
寝言だった。
「……ありが、と」
……はぁ。寝てまで礼言ってんじゃねーよ。バカじゃねーの。
ため息をつくも、自身の顔が熱くなるのを感じる。ほんと単純。全く、雑魚なのはどっちなんだか。
そのまま、静かに髪を撫でる。
明日の朝になったら、コイツはまた笑うんだろう。皆の前で、いつもの顔で。「おはよう」って、「昨日はおつかれさま」って。
それでいい。皆には、その顔を見せてやればいい。
でも、泣き顔は私のものだから。
弱いところも、情けないところも、ぐしゃぐしゃの寝顔も、全部。他の誰にも見せんな。マシュにも、メリュジーヌにも……お母様にも、絶対に。
その代わり、夜は必ず、ここに帰ってこい。私が、紅茶淹れて待っててやるから。
ふと、耳の奥で、あの歌が蘇った。
麦の歌。広場で何回も何回も繰り返していたから、聞いているうちに覚えてしまった。
静まり返った部屋の中で、小さく口ずさんでみる。
一番だけ。囁くくらいの声で。
【♪~♪~】
腕の中で、寝息が少しだけ穏やかになった気がした。
机の上のカップは、すっかり冷めている。明日の朝、淹れ直してやろう。砂糖は2つ。いちいち聞かなくても、知っている。
片手を伸ばして、枕元のパネルで明かりを落とす。
起きたら、また雑魚って呼んでやる。
だから、今だけ。
「……おやすみ、立香」
抱きしめる腕に、少しだけ力を込める。胸元にかかる、規則正しい寝息。それを子守唄代わりに、私もゆっくりと目を閉じた。
日付を跨いだ、カルデアの夜。
明かりを落としたマスタールームには、一つのベッドで寄り添って眠る2つの影と、すっかり冷めきった2つのカップ。
長く降り続いた雨は、いつの間にか止んでいた。