縦横家の祖 鬼谷子 作:お腹ぽんぽん
圧倒的な熱量による、論理を無視した限界突破。
茅濛(ぼうもう)という男が鬼谷(きこく)の庵にやって来てから、さらに数年の歳月が流れていた。
この数年間、歴史の調律者たる鬼谷子(きこくし)が彼に与えた試練は、人間を物理的・精神的に破壊するための、文字通りの『廃棄テスト(拷問)』に近いものであった。
極寒の滝壺での百日間の座禅に始まり、猛毒の瘴気が立ち込める沼地での呼吸法、さらには鬼谷の迷宮内に生息する神代の魔獣たちを素手のみで制圧するという無茶苦茶な実戦訓練。
道術の基本である「自然との調和」など微塵もない。己の肉体という小宇宙の出力を無限に引き上げ、大自然を暴力的にねじ伏せて己のルールに同化させるという、魔術理論の根底を破壊するようなパワープレイの連続である。
だが、茅濛はそのすべての致死の試練を、「おおおおッ! お師匠様の愛の鞭ィィィッ!!」という狂気的な叫びと共に、悉く粉砕し、乗り越えてみせた。
「……信じ難いことだが。彼の肉体は今、人間というテクスチャの限界を完全に突破し、一つの独立した概念炉心へと変異しつつある」
ある日の夕暮れ。
縁側から庭を観測していた鬼谷子は、思想鍵紋(しそうけんもん)が弾き出した異常な数値を見て、滅多に動かさない眉を微かに動かした。
庭の中央で結跏趺坐(けっかふざ)を組む茅濛の肉体は、もはやただの筋肉の塊ではなかった。
皮膚はうっすらと黄金色の輝きを放ち、彼の呼吸に合わせて周囲の空間そのものが陽炎のように歪み、大気中の真エーテルがブラックホールに吸い込まれるかのように彼の丹田へと収束していく。
徐福が外丹術(がいたんじゅつ)――すなわち霊薬の精製という「外なる神秘」の極致に至ったとすれば。茅濛は、己の肉体そのものを霊薬(エリクサー)へと作り変える内丹術(ないたんじゅつ)の、極めて変則的な到達点に立っていた。
「シロ。どうやら、このやかましいエラーデータの観測も、いよいよ最終フェーズに移行する時が来たようだ」
『……シャァッ!?(ほ、本当ですか主よ! ついにこの騒音ゴリラを追い出せるのですね!?)』
長年、茅濛の暑苦しい気合いの声と謎の熱気によって安眠を妨害され続けていた白蛇のシロが、歓喜のあまり尻尾をバタバタと振った。
鬼谷子は立ち上がり、黄金のオーラを放ちながら瞑想している茅濛の元へと歩み寄った。
「茅濛」
「ははァァァァァッ!! お呼びでしょうか、お師匠様ァァァッ!!」
名前を呼ばれただけで、茅濛は弾かれたように目を開き、その場に凄まじい勢いで土下座をした。相変わらず、頭を地面に叩きつける衝撃で小さなクレーターができている。
「君の『内なる炎』は、すでにこの鬼谷の底で燃やし尽くせる限界に達した。……これより、最終試練を与える」
「さ、最終試練……ッ!!」
茅濛の目から、滝のような男泣きの涙が噴き出した。
ついに、この冷厳にして至高の師から、最後の教えを賜る時が来たのだ。彼は全身の筋肉を歓喜に震わせ、次の言葉を待った。
「この鬼谷のさらに奥地。雲が海のように広がる霊峰、『雲夢山(うんぼうさん)』の最高峰へ向かえ。そこで天と地の気を結び、己の内に練り上げた黄金の丹を爆発させろ」
鬼谷子は、遥か天を突く雲夢山の頂を指差した。
「それは、人間の肉体を捨て、純粋な神秘の概念となって星の裏側へと次元上昇する、究極の道術――『白日昇天(はくじつしょうてん)』の儀式だ。……成功すれば、君は不老不死の仙人となり、失敗すれば、宇宙の塵となって消滅する。二度と、この庵に生きて戻ることはないと思え」
「おおおおおお……ッ!! 白日昇天!! 人間の身でありながら、神の領域へと至る究極の道(タオ)!!」
茅濛は、両手を天に掲げ、感極まったように咆哮した。
「お師匠様……! どこの馬の骨とも分からぬこの暑苦しい男を拾い、ここまで厳しく、そして温かく導いてくださった御恩、この茅濛、魂に刻み込んでおります! 必ずや、雲夢の頂にて宇宙の真理を掴み取り、お師匠様への恩返しとしてみせますッ!!」
「……あぁ、分かった。分かったから、さっさと行きなさい」
感涙にむせぶ茅濛を、鬼谷子はまるで厄介払いでもするかのように(実際その通りなのだが)、冷たく手で払った。
茅濛は「ははァァァァッ!!」ともう一度特大の土下座を決めると、一切の未練を見せることなく、凄まじい脚力で地面を蹴り、雲夢山の頂へと向かって一直線に駆け出していった。
彼が走り去った後には、焼け焦げた足跡と、静寂だけが残された。
『……シャァァ……(行きましたね……。長かった、本当に長かった……)』
シロが、感動の涙(?)を流しながら大木に身体を擦り付ける。
鬼谷子は、ふぅと息を吐き、再び縁側へと戻って盤を開いた。
「さて。あの熱量だけで構成された男が、本当に物理法則を無視して星のテクスチャを突き破るのか。観測者として、最後まで見届けてやるとしよう」
――それから、七日七晩。
雲夢山の頂は、厚い雷雲に覆われ、激しい落雷と暴風が吹き荒れ続けていた。
それは、人間が神代の神秘へと至ることを世界(抑止力)が拒絶し、排除しようとする『雷劫(らいごう)』と呼ばれる天からの試練であった。
だが、八日目の真昼。
厚く立ち込めていた黒雲が、突如として内側から発せられた『極大の黄金の光』によって、真っ二つに引き裂かれたのだ。
ズバァァァァァァァンッ!!!
天を衝くほどの巨大な光の柱が、雲夢山の山頂から宇宙へと向かって立ち上る。
その光の柱の内部には、五色の瑞雲(ずいうん)が渦を巻き、神代の幻獣である龍や鳳凰の幻影が歓喜の舞を舞うという、文字通り神話のごとき天体ショーが繰り広げられていた。
「……ほう」
鬼谷の庵からその光景を観測していた鬼谷子の漆黒の瞳に、微かな驚嘆の光が宿った。
彼の背中の思想鍵紋が、凄まじい勢いでデータを処理していく。
「見事だ。雷劫のエネルギーすらも己の気合いで強引に吸収し、肉体の物質的制約を完全に焼き切ったか。……彼は今、人間の器を捨て、純粋な『仙人』という概念へとシフトした」
白日昇天。
それは、東洋魔術における究極の到達点。肉体を霊子化させ、世界の裏側(神代のテクスチャ)へとそのまま移行する、奇跡中の奇跡である。
それを、あの暑苦しい筋肉ダルマが、己の熱量と気合いだけで成し遂げてしまったのだ。
光の柱の中央。
遥か上空へとゆっくりと昇っていく茅濛の姿は、もはや人間のそれではなく、圧倒的な神性を帯びた黄金のエネルギー体へと変貌していた。
しかし、どれほど高次元の存在へと昇華しようとも、彼のその「暑苦しい本質」だけは、何一つ変わってはいなかった。
茅濛は、天の門が開き、神々の次元へと足を踏み入れようとするその瞬間。
おもむろに地上――はるか眼下に広がる鬼谷の庵の方角へと向き直り、己の肺活量を限界まで振り絞って、息を大きく吸い込んだ。
「おおおおおおおぉぉぉぉぉぉいッ!! おー師ー匠ー様ァァァァァァァッ!!!」
ビリーーーーーーーーーッ!!!
茅濛の絶叫が、物理的な衝撃波となって雲夢山一帯の空気を震わせた。
ただの大声ではない。神代の次元へと移行した仙人の放つ声は、そのまま『言霊』となって大気を伝播し、数十里離れた麓の村々にまで、雷鳴のように響き渡ったのだ。
「見えますかァァァッ!! 俺ですッ! 茅濛ですッ!! お師匠様の厳しい、本当に厳しい、時には殺意すら感じるほどの愛の指導のおかげで、俺はッ! 俺はついに白日昇天を成し遂げましたァァァァッ!!!」
空から降ってくる、規格外の騒音。
鬼谷の庵では、その凄まじい音波によって木々の葉がパラパラと落ち、庵の障子がビリビリと悲鳴を上げて震えていた。
『シャァァァッ!?(ひぃぃぃッ!? なんだこの音は! 天からあのゴリラの声が降ってくるぅぅぅ!?)』
シロがパニックを起こしてのたうち回る中、鬼谷子は無表情のまま、スッと両手で自分の耳を塞いだ。(鬼谷子が物理的に耳を塞ぐという、極めて稀有な光景である)
「このご恩は、一生忘れませんッ! 俺は天界に行っても、お師匠様『鬼谷子』の偉大さを、神々に! 星々に! 全宇宙に向かって叫び続けますッ! 本当に、本当にありがとうございましたァァァァァァァッ!!!」
茅濛は、黄金の光の中でボロボロと大粒の涙(光の粒子)を流し、空中で見事なスライディング土下座の姿勢をとったまま、天の彼方へと吸い込まれていった。
パァァァァァンッ!
最後に、花火が弾けるような光の明滅と共に、天の門が閉じられ、雲夢山を覆っていた五色の瑞雲は、嘘のように雲散霧消した。
あとに残されたのは、耳鳴りがするほどの、絶対的な静寂であった。
「…………」
鬼谷子は、耳から手を離し、静まり返った空を無言で見上げた。
思想鍵紋の演算ログには、『観測対象・茅濛の次元移行(白日昇天)を完了』というデータが、確かに記録されている。
魔術の到達点としては、これ以上ないほどの完璧な大成功である。
しかし。
鬼谷子の心(システム)を満たしていたのは、達成感でもなく、喜びでもなく、ただひたすらな疲労感であった。
「……なんという、五月蝿い男だ」
鬼谷子は、縁側にどっこいしょと腰を下ろし(彼らしからぬ人間くさい動作であった)、深く、深い溜息をついた。
「天界で僕の名前を叫ぶだと? 冗談ではない。僕の存在は歴史の裏側に隠蔽されていなければならないというのに、あのような歩く銅鑼に神々の世界で吹聴されては、これまでの秘匿性が台無しだ」
『シャァ……(主よ、お疲れ様です……。あれは間違いなく、我が鬼谷史上、最も迷惑で、最も変な弟子でしたね……)』
シロが、ぐったりとした様子で鬼谷子の足元にすり寄る。
「ああ、全くだ。僕としたことが、とてつもなく変な弟子をとってしまったものだ。……才能を見抜く僕の演算も、いささか調整が必要かもしれないな」
鬼谷子は、やれやれと首を振りながら、冷めた茶をすすった。
だが、その漆黒の双眸の奥には、ほんの微かな、彼自身も気づいていないような「呆れ混じりの好意」が揺らめいていた。
論理と因果で世界を支配する彼の盤面において、茅濛のような「熱気と気合いだけで全てを突破するバグ」は、決して計算しきれない人間という生き物の無限の可能性(面白さ)を、彼に突きつけていったからだ。
――そして。
この「変な弟子」が引き起こした、前代未聞の騒がしい白日昇天は、鬼谷子の意図せぬところで、歴史の盤面に巨大な一石を投じることになる。
茅濛が天から放った絶叫と、雲夢山を包んだ五色の光の柱は、麓の村々の農民たちのみならず、遠く離れた秦の国境警備兵たちにもはっきりと目撃されていたのである。
『人間は、修行によって神となり、不老不死の仙人として空を飛ぶことができる』
それは、おとぎ話や神話の類ではなく、何千人もの人間が同時に目撃した「紛れもない事実(オカルトの物理的証明)」として、中原の大地を瞬く間に駆け巡ることとなった。
茅濛という実在の男が白日昇天を成し遂げたという伝説は、やがて来るべき統一帝国の主――『始皇帝』の耳にも確実に届くことになる。
「不老不死は、実在する」
その確信こそが、始皇帝の狂気的な探求心に火をつけ、彼をして「仙薬」を求めさせる最大の原動力となるのである。
「……結果的に、最高級の撒き餌になったというわけか」
数日後。
茅濛の昇天の噂が風に乗って中原に広がっているという情報を観測し、鬼谷子は静かに口の端を歪めた。
徐福という、不老不死の霊薬を創り出す才能。
そして茅濛という、不老不死が実在するという証明。
奇しくも、鬼谷が輩出した二人の異端の道士によって、始皇帝という怪物を絡め取るための完璧な罠が、ここに完成したのである。
鬼谷子は、再び深く静かな霧を庵の周囲に展開し、次なる歴史の転換点――始皇帝の降臨に向けて、静かに盤面のチューニングを再開するのであった。
茅濛。
鬼谷子に最も呆れられ、最もやかましく、そして最も純粋に道を求めたこの熱血の仙人は、天界の彼方から、恩師の紡ぐ血生臭い歴史の行方を、いつまでも暑苦しく見守り続けることだろう。