『ジリリリリリリリリリリリッ!!!』
耳を塞ぎたくなるような、不快で甲高いサイレンの音が四畳半の部屋を満たしていた。いや、音源は部屋の中ではない。空間そのものが震動し、次元の狭間から直接脳髄に響き渡ってくるような、異常な警報音だ。
「TPの特務アラートだ!」
ドラえもんが顔を真っ青にして叫んだ声も、そのサイレンにかき消されそうになっていた。
「普通のアラートじゃない。レベル・オメガ……歴史の根幹に関わる超重大な違反があった時にだけ鳴る、緊急サイレンだよ!」
「大部隊のお出ましだ。隠蔽した秘密の箱庭にネズミが入り込んだから、証拠隠滅のために血相を変えて駆除しに来たってわけだ」
僕はポケットの中の壊れたテンパッドを握りしめながら、冷たく吐き捨てた。
言葉と同時に、部屋の畳の上の空間が陽炎のようにグニャリと歪み始めた。
TPの『模造タイムドア』が開こうとしているのだ。青白い放電がパチパチと飛び散り、徐々に光のポータルが形成されていく。
「おい、俺のエネルギーはもうないぞ。この青タヌキのポケットには、まともな武器は入っているのか?」
カーンが臨戦態勢に入りながら、ドラえもんを睨みつける。
「だからタヌキじゃないってば!……武器なら、あるよ。でも……相手がTPの特務部隊なら、僕のひみつ道具じゃ勝ち目がない……!」
青い光のポータルが、いよいよ完全に口を開こうとした。
僕は、僕をTVAの牢獄に送ったあの捜査官が、重武装の兵士たちを引き連れて怒号と共に飛び出してくるのを予期して身構えた。
だが、ポータルの向こう側から聞こえてきたのは、勇ましい突入の号令ではなかった。
『隊長! 空間の位相が安定しません!対象はのび太と、それに……!』
『ああわかってる……踏み込むな!相手は、あの御方と同じ……あり得ない!なぜ、あのような場所に……!』
ノイズ交じりに漏れ聞こえてきたのは、パニックに陥ったTP隊員たちの叫び声と、明らかな「恐怖」に縛られた声だった。
彼らは僕たちを捕捉し、ポータルを開くところまでは強行したものの、いざ突入する段階になって、何か信じられないものを見て足がすくんでいるようだった。
(……怯えている?なぜ?)
僕は怪訝に思い、チラリとカーンを見た。
TPの連中は、僕の知能を恐れてはいたが、あそこまで狼狽えるような連中ではないだろう。だとしたら、彼らをあそこまで恐怖させている原因は、僕の隣にいるこのカーンの存在以外に考えられなかった。
「……連中、なぜ入ってこない?獲物を前にして足踏みするとは。随分と臆病だな」
カーンもまた、ポータルの向こうの異様な気配に気づき、訝しげに眉をひそめていた。
だが、彼らが突入を躊躇したことは、僕たちにとって幸いだったわけではない。
むしろ、そのわずかなタイムラグの間に、この部屋の中で『それ以上の致命的な破滅』が始まってしまったのだ。
『ジ、ジジジ……ッ!』
突然、僕の視界に、古いブラウン管テレビを叩いた時のような、激しい視覚的ノイズが走った。
目眩かと思ったが、違う。僕の視界がおかしくなったのではない。部屋の中の『現実』そのものが、奇妙な二重写しになってブレていたのだ。
「え……?」
アホのび太が、自分の両手を見つめて間抜けな声を上げた。 彼の手が、まるで千手観音のように無数に増殖しては消え、また増殖するのを繰り返している。
ドラえもんが慌てて彼を庇おうとしたが、そのドラえもんの姿もまた、僕たちの目には「右に一歩動いたドラえもん」と「左に一歩動いたドラえもん」の二重の残像となって、ホログラムのエラーのようにチラチラと瞬き始めた。
窓の外を飛んでいる鳥の姿が、コマ送りのように数十羽の残像に分裂し、空中でピタリと静止している。
「な、なんだこれ!?僕の体が……いっぱいいる!?」
アホのび太がパニックになり、畳の上を這いずり回るが、彼が動くたびにその残像がゼリーのように引き伸ばされ、空間全体が歪んでいく。
「……空間の処理限界だ」
僕は眼鏡を押し上げ、冷や汗を流しながら、この部屋で起きている現象の正体を即座に演算した。
「僕と、過去の僕。……絶対に交わってはいけない『異なる可能性の同一人物』が同じ空間で接触し、会話を交わした。本来なら、その時点で歴史は完全に別の世界線へと分岐していくはずだ。……でも、ここはおそらくだが、TPが切り取った、ごく小さな『矛盾した箱庭』に過ぎない」
僕は、激しくブレていく自分の指先を見つめた。
僕が右手を動かそうと考える。その瞬間、「右手を動かした世界」と「動かさなかった世界」が生まれ、それがさらに分岐を生む。
「この狭い隔離空間の中で、秒間数万回という恐ろしい速度で『新しい分岐世界』が生まれ続けているんだ。TPが隠したこの領域のデータ容量を超えて、世界そのものがオーバーフローを起こしている……!」
「……なるほどな」
カーンは、分裂していく景色を極めて冷めた目で見つめた。
マルチバースの衝突を見慣れている彼にとって、一つの宇宙が壊れていく光景など珍しいものでもないのだろう。
「そろそろだな。この世界に居られるのも。このまま無限に分岐が増え続ければ、この宇宙は重力崩壊を起こして、完全に自壊するぞ」
空間がブレる影響は、こちらに突入しようと躊躇していたTPの部隊にも及んでいた。
彼らが開いた模造タイムドアの縁が、無数の次元のノイズに干渉され、ガタガタと不安定に揺らいでいる。彼らはもはや突入するどころか、ポータルの維持すら難しくなっているようだった。
だが、TPの連中がどうなろうと知ったことではない。このままでは、僕たち自身がこの崩壊する世界と運命を共にすることになる。
「ドラえもん」
僕は、混乱してオロオロしているドラえもんに向かって、静かに、しかし有無を言わせぬトーンで言った。
「なにか道具を貸してくれないか?この状況をひっくり返せるような、一番ヤバいやつを」
「ええっ!?で、でも……!」
ドラえもんはブレる体を縮こまらせ、自分の四次元ポケットを両手で隠すようにして躊躇した。
「武器ならともかく、世界そのものに干渉するような大げさな道具は、航時法でも厳しく制限されていて……むやみに使ったら、もっと大変なことになっちゃうかもしれないよ!」
ロボットとしての安全装置が、彼にストップをかけている。普段の日常のトラブルならともかく、宇宙の崩壊を防ぐために禁断の道具を使うという判断は、お世話用ロボットの権限を大きく超えていた。
「四の五の言っている暇はない。世界が壊れるか、僕たちがTPに消されるかの瀬戸際なんだ。君のポケットの奥底にある、一番現実を捻じ曲げられるものを出せ!」
僕の強い語気に、ドラえもんはタジタジと後ずさる。そこに、アホのび太が飛び出してきた。ブレて何重にも見える両手を必死に合わせながら、ドラえもんに懇願する。
「ドラえもん!貸してあげてよ!なんだかよく分からないけど、このままだと僕たち消えちゃうんでしょ!? だったら、2年後の僕を信じて!僕は……未来の僕を信じる!」
「のび太くん……」
マヌケで、泣き虫で、自分では何もできない過去の自分。 だが、その一点の曇りもない他者への(この場合は自分自身への)盲信が、ドラえもんの背中を押した。
「……わ、わかったよぉ!どうなっても知らないからね!」
ドラえもんは覚悟を決めたように目を固く閉じると、四次元ポケットの最深部……普段の生活では絶対に手を開けないような、奥の奥の次元座標へと両手を突っ込んだ。
そして、ポケットの口から、おもちゃのように小さな『赤い箱』を取り出した。
「これを使うしかない……『もしもボックス』!!」
ドラえもんはスモールライトを取り出し、その小さな赤い箱に光を当てた。
むくむくと巨大化したそれは、部屋の天井ギリギリの高さを持つ、レトロな公衆電話の形をした赤いボックスだった。
中に黒いダイヤル式の電話機が置かれているだけの、単純な構造の箱。
僕は、その赤い電話ボックスのガラスをコンコンと叩き、怪訝な顔をした。
「なんだ、これは?」
僕が尋ねると、アホのび太とドラえもんが同時にポカンと口を開け、信じられないものを見るような目を向けた。
「えっ!?『もしもボックス』を知らないの!?」
アホのび太が間の抜けた声を上げる。
「知らないな。僕の脳内のデータベースには、そんな道具のデータは一切存在していない」
僕は首を横に振った。僕が天才に覚醒したあの日、ドラえもんが持っていたすべての未来道具のマニュアル、構造、歴史を完全に記憶し、解析したはずだった。空間を繋ぐ『どこでもドア』や、時間を遡る『タイムマシン』の原理すら理解している僕が、こんな大仰な道具の存在を見落とすはずがない。
(なぜだ?なぜ僕の記憶から抜け落ちている?)
僕が怪訝に思っていると、背後にいたカーンが、その赤い電話ボックスから一歩距離を取り、ひどく警戒するような低い声を出した。
「おい、少年……」
僕が推論を巡らせていると、背後にいたカーンが、その赤い電話ボックスから一歩距離を取り、ひどく警戒するような低い声を出した。
「なに?」
「その箱……ただの未来のオモチャではないぞ。気味が悪い」
カーンの目は、電話ボックスの赤い塗装を通り越し、その内部の次元構造そのものを透視しているかのようだった。
「気味が悪い?箱一つに怯えるのかい」
「馬鹿を言え。私の言っている意味が分からんのか」
カーンは顔を顰め、その箱を忌々しそうに睨みつけた。
「その箱から漏れている波長……あれは、TVAのシステムに極めてよく似ている。どういうことだ?なぜ、あんな宇宙の外側のテクノロジーと同じような波長が、一介のロボットのポケットから出てくる?」
カーンの言葉に、僕は背筋が薄ら寒くなるのを感じた。22世紀の科学者が作ったはずの道具が、宇宙の外側にあるTVAのシステムに似ている?
(……考えれば考えるほど、この世界の歴史は狂っているな)
「のび太くん!早く!もう世界がもたないよ!」
ドラえもんの悲痛な叫び声で、僕は我に返った。
窓の外の景色はすでに完全に破綻し、空の半分が黒いノイズに飲み込まれようとしていた。
「使い方は簡単だよ!受話器を取って、『もしも○○な世界だったら』ってお願いするだけだから!」
「……ああ、分かっている」
僕はもしもボックスの扉を開け、中に入って受話器を取った。
受話器からは、ツー、という電子音ではなく、無数のノイズが混ざり合ったような、宇宙の底から聞こえてくるような奇妙なダイヤル音が響いている。
(僕の知らない謎の道具。TVAに似た波長。……これが何であれ、今の状況を突破するにはこれを使うしかない)
僕は受話器に口を近づけ、明確な意志を持って告げた。
「もしも——タイムパトロールが存在しない世界だったら!」
『チリン、チリン、チリン……』
受話器の奥で、どこか遠くの、レトロなベルの音が鳴り響いた。 その瞬間。
部屋の中で激しくブレていた現実のチラつきが、まるで強力な磁石で無理やり一つに引き寄せられたかのように、ピタリと止まった。
千手観音のようだったアホのび太の手は二本に戻り、宙に浮いていたどら焼きの残像は綺麗に一つに重なって、畳の上にポスッと落ちた。
同時に、部屋の空間を抉じ開けようとしていたTPの青い『模造タイムドア』が、バチン!とショートしたような音を立てて火花を散らし、ポータルの向こう側のレグ隊長たちの姿ごと、完全に掻き消された。
「……消えた。TPのポータルが、強制的に弾き出されたぞ」
カーンが驚愕の声を上げる。
僕は受話器を置き、ボックスから出た。
(すごい力だ。これはただの現実改変じゃない。僕の願いに合わせて、僕たちのいる世界の『ルール』そのものを、一瞬ですり替えたんだ……)
僕は、沈黙した赤い電話ボックスを見つめながら、その底知れぬ力に圧倒されていた。
時間の外側。TVA本部、オペレーションルーム。
オレンジ色と茶色を基調としたレトロなオフィスで、ミニットメンやデータ解析の事務員たちが、終わりのない書類仕事とモニターの監視を続けていた。
「おい……ちょっと、これを見ろ」
巨大なモニター群の片隅。普段は誰も気に留めない、神聖時間軸のルートから遠く離れた末端のレーダーに張り付いていた一人のオペレーターが、目を丸くして身を乗り出した。
「なんだ? 分岐(ネクサス・イベント)か?」
隣の職員がコーヒー片手に覗き込む。
モニターには、一本の太い光の線(神聖時間軸)が表示されている。
しかし、その線の遥か外側……本来は何の反応もないはずの暗闇の領域から、突如として『無数の赤い枝』が、爆発的な速度で増殖し、放射状に漏れ出しているのが映し出されたのだ。
「なんだこの異常なレッドラインの増殖は……!?我々の管理外のセクターで、異常なまでの多次元分岐が起きているぞ!」
「馬鹿な。神聖時間軸以外の宇宙は、すべて消去されているはずだ。システムのバグじゃないのか!?」
オペレーターたちがパニックに陥り始める。 彼らの知らないところで、隔離されていた箱庭の宇宙が、強烈な現実改変のショックによって無限の増殖を開始していた。
すべての時間の終着点。『時の終わりの城』。
アライオスの轟音が響く虚空の彼方で、みすぼらしい暗紫色のローブを羽織った『在り続ける者』は、書斎の机の上に足を投げ出し、青いリンゴをかじろうとしていた。
彼の周囲には、黄金色に輝く神聖時間軸のホログラムが、穏やかな光を放って循環している。
完璧な秩序。彼が作り上げた、自分を脅かす存在が二度と生まれないための絶対的なシステム。
だが。 リンゴをかじる直前、彼の動きが不自然にピタリと止まった。
「……」
在り続ける者は、リンゴをゆっくりと机に置き、虚空に浮かぶ黄金のタイムラインから少し視線を外した。彼の視線の先にあるのは、本来なら「無」であるはずの空間。
だが、そこから微かに、しかし確かに、耳障りな不協和音が響いてきたのだ。
「……なんだ? 今のは」
彼の顔から、いつもの達観したような余裕の笑みが消えた。 彼はホログラムのコンソールに指を滑らせ、そのノイズの発生源を探ろうと演算を走らせる。
「次元の位相が強制的に書き換えられた……?誰だ?私以外の誰が、こんな神の真似事をしている?」
在り続ける者の瞳に、『計算外の事態』に対する純粋な当惑と、微かな焦りの色が浮かび上がっていた。