Scene 4 戻る朝
翌朝、ハル・イルマは目覚ましが鳴る前に目を開けた。
窓の外は、まだ少し青い。
休日の朝よりも、空気が薄く冷えている。
遠くで連絡車両の走る音がした。
ハルはしばらく天井を見ていた。
昨日のような重さはない。
ただ、起き上がるまでの時間が少しだけ短かった。
ベッドから出て、顔を洗う。
鏡の中の自分は、まだ完全に仕事へ戻りきってはいない。
けれど、休日のままでもない。
その中間くらいだった。
私用端末に通知が残っていた。
リアからだった。
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『次回候補、二件まで絞った。ソウマ案は保留』
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その下に、ソウマの返信が続いている。
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『俺の案も一件くらい通せ』
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ハルは小さく笑った。
次回。
保留。
案。
見慣れたような言葉なのに、昨日のものとは少し違う。
そこには、待たされる重さではなく、また集まるための余白があった。
くだらない。
けれど、くだらないからこそ軽い。
階下へ降りると、ベルトーチカが朝食の準備をしていた。
「おはよう」
「おはよう」
ベルトーチカはハルを一目見て、少しだけ目を細めた。
「昨日よりは、ましね」
「そんなにひどかった?」
「比較対象が昨日の朝なら、かなり」
「それ、褒めてるのか」
「褒めてるわよ。控えめに」
ハルは椅子に座った。
卓上には、簡単な朝食が並んでいる。
パン。
スープ。
果物。
コーヒー。
いつも通りだった。
昨日と違うのは、仕事用端末が食卓にないことだ。
部屋の机の上に置いたまま、ここまで持ってきていない。
ベルトーチカはそれに気づいたのか、気づかなかったのか、何も言わなかった。
「休みの日の使い方、少しは覚えた?」
「まだ初心者扱いか」
「昨日の様子を見る限り、初級からやり直しね」
「厳しいな」
「そのくらいでちょうどいいの」
ハルはスープを飲んだ。
温かい。
昨日の朝と同じようで、少し違う。
昨日は、家を出る前から頭の中に硬い言葉が残っていた。
今日は、それに加えて、別の言葉も残っている。
次回候補。
ソウマ案。
保留。
くだらない。
けれど、くだらないからこそ軽い。
朝食を終えると、部屋に戻った。
机の上には、仕事用端末がある。
昨日は開かなかったものだ。
ハルは、端末の前で一度だけ立ち止まった。
開けば、仕事に戻る。
未処理の記録も、見るべき欄も、昨日までの問いも、そこにある。
けれど、今ここで開く必要はない。
ハルは端末を開かずに、鞄へ入れた。
IDカードを確かめる。
筆記具。
私用端末。
財布。
いつもの順番で、必要なものを確かめる。
確かめるという動作は同じだった。
だが、昨日より少しだけ、手が迷わない。
玄関へ向かうと、ベルトーチカが台所から顔を出した。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「今日は仕事の顔でもいいわ」
ハルは靴を履きながら振り返った。
「いいのか」
「仕事に行くんだから」
ベルトーチカは肩をすくめる。
「ただし、帰ってきたら戻しなさい」
ハルは少しだけ笑った。
「努力する」
「努力目標じゃなくて、実施事項ね」
「それも仕事っぽい」
「あなたに通じる言い方を選んだの」
ハルは扉に手をかけた。
鞄の中には、仕事用端末が入っている。
今日は、また開く。
問いが消えたわけではない。
けれど、昨日の街の音も、ソウマの笑い声も、リアの短いメッセージも、まだ少しだけ残っていた。
それを持ったまま、ハルは家を出た。
朝の空気が、頬に触れる。
仕事へ戻る朝だった。
◇ ◇ ◇
Scene 5 机に戻る
FABの執務フロアは、いつも通りの朝を迎えていた。
白い照明。
整えられた机。
端末の起動音。
短い挨拶。
職員たちが、それぞれの席へ戻っていく足音。
昨日の商業区とは、まるで違う音だった。
ハル・イルマは、入口の認証を通り、自分の席へ向かった。
鞄の重さは、いつもと変わらない。
中には仕事用端末と、筆記具と、IDケースが入っている。
特別なものは何もない。
それでも、昨日の街の名残が、まだ少しだけ耳の奥に残っていた。
ここにはもうない。
けれど、完全に消えたわけでもなかった。
「お、今日は戻ってるな」
席に着く前に、ソウマ・ナギが顔を上げた。
ハルは鞄を机の横に置く。
「仕事だからな」
「昨日もそれくらい軽く来ればよかったのに」
「昨日は休みだろ」
「休みだから言ってる」
ソウマはそう言って、端末の画面へ視線を戻した。
軽口は短い。
もう勤務前の空気に戻っている。
隣の席では、リア・セレスがすでに端末を起動していた。
「勤務開始まであと三分」
「相変わらず厳密だな」
ソウマが言う。
「仕事だから」
リアは画面から目を離さずに答えた。
ハルは少しだけ笑った。
昨日の続きのようで、もう昨日ではない。
三人は同じ場所にいる。
けれど、ここではそれぞれが仕事の席に戻る。
それが、自然に思えた。
ハルは椅子に座り、仕事用端末を取り出した。
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認証。
所属確認。
本日の業務一覧。
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いつもの手順が、画面に順番に現れる。
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未処理件数。
確認待ち案件。
通常照合。
補助資料確認。
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そして、一覧の下の方に、一行だけ残っているものがあった。
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【通常監査補助照会】
状態:上席確認中
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件名の全文は、開かなければ見えない。
だが、ハルにはそれが何か分かっていた。
状態は、まだ変わっていない。
ハルは、その一行を見た。
昨日なら、そこで少し長く止まっていたかもしれない。
休みの前なら、もう一度詳細を開き、文面を読み返していたかもしれない。
けれど今日は、指が止まったのは一瞬だけだった。
何も終わっていない。
進んでもいない。
問いが消えたわけでもない。
ただ、今この瞬間に開く必要はなかった。
ハルは、息をひとつ吐いた。
それから、今日の通常案件を選択する。
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地方自治体補助金執行状況。
支出照合。
補助資料確認。
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見慣れた項目が、画面に開いた。
ハルは姿勢を直し、最初の資料にカーソルを合わせた。
フロアの端で、始業を知らせる短い電子音が鳴る。
休日は終わった。
けれど、その時間は、
何もなかったことにはならなかった。
ハルは、通常業務の一行目を開いた。
また、ここから始める
次話に続く。