Scene 1 局の入口で待つ
「イルマ、先に下で待ってろ。局の入口でいい」
レオン・クラークは、席を立つ前にそう言った。
軽い声だった。
業務連絡よりも少し雑で、雑談よりは少しだけ仕事に近い。
ハル・イルマは、一瞬だけ自分の端末を見た。
送付済になった一つ目。
まだ画面の奥に残っている二つ。
それ以上は開かなかった。
今日は、もう一度開く必要はない。
ハルは終了処理を確認し、端末から手を離した。
「局の入口、ですね」
「そう。迷子にはならないだろ」
「子供じゃないです」
「迷う奴ほどそう言う」
レオンは、資料パッドを鞄に放り込みながら言った。
「主任拾ってから行く。店は近い。しんどくなるほどの距離じゃない」
「歩きでいくんですか」
「あぁ、そうだ」
レオンはそれだけ言って、別の端末に向かった。
ハルは鞄を取る前に、私用端末を取り出した。
『今日は食べて帰る。少し遅くなる』
送信してから、少しだけ画面を見て待った。
ほどなくして、短い返事が戻ってくる。
『分かったわ。遅くなりすぎないように』
その文面を確認して、私用端末をポケットへ戻した
ハルは小さく息を吐き、鞄を肩にかけた。
終業後のFABフロアは、昼間よりも少しだけ白く見える。
照明の明るさは変わっていないはずだった。
けれど、人の声が減ると、壁や机や端末の輪郭だけが残る。
職員たちは、それぞれの机を片づけていた。
端末を閉じる音。
椅子を戻す音。
短い挨拶。
誰も急いでいるようには見えない。
だが、誰も長くそこに留まろうともしていない。
ハルは自分の席を離れた。
認証ゲートへ向かう途中、何度か振り返りそうになった。
机の上には、もう何も残していない。
端末は閉じた。
照会文も、通常業務も、すべて局内のシステムに置いてきた。
それでも、肩にかけた鞄だけが、少し重く感じた。
認証ゲートを抜けると、執務フロアの音が一段遠くなる。
ロビーへ続く通路は、昼間よりも静かだった。
壁面の案内表示が、薄い光で出口方向を示している。
清掃用の小型機材が隅で待機し、無人の受付カウンターには終業後の表示が出ていた。
FAB局のロビーは広い。
昼間は、そこにも人の流れがある。
訪問者。
職員。
警備担当。
別部署からの連絡員。
だが、終業後のロビーには、別の静けさがあった。
人はいる。
けれど、誰も長く立ち止まらない。
職員たちは認証ゲートを抜け、入口へ向かい、そのまま夜の街へ流れていく。
ハルは入口脇で立ち止まった。
ガラス越しに、外の明かりが見える。
局内の白い照明とは違う、少し柔らかい色だった。
仕事の外に出る前の、狭い境目。
そこに立っていると、妙に落ち着かなかった。
レオンに誘われたこと自体は、嫌ではない。
むしろ、断る理由はなかった。
家への連絡も済ませている。
帰りを待つ食卓のことを、今は気にしなくていい。
それでも、レオンと食事に行くというだけならまだしも、マカベも来る。
長くは付き合わない。
店による。
騒がしくない店にしろ。
その短い返事を思い出すと、ハルは少しだけ身構えた。
勤務中ではない。
けれど、完全な私用でもない。
説教なのか、雑談なのか、ただの食事なのか。
まだ、どの顔でいればいいのか分からなかった。
ハルは鞄の持ち手を少し握り直した。
私用端末には、短い返事が残っている。
もう一度見る必要はなかった。
仕事用端末は鞄の中にある。
だが、ここで開くものではない。
ロビーの照明が、足元に薄い影を落としている。
「待ったか」
声がして、ハルは顔を上げた。
レオンが片手を上げて近づいてくる。
「いえ」
そう答えてから、ハルはその少し後ろにいる人物に気づいた。
コウイチ・マカベは、いつものように表情を変えずに歩いていた。
鞄を片手に持ち、上着の前を留め直している。
勤務中とほとんど変わらない姿勢だった。
ただ、端末の前にいる時よりは、ほんの少しだけ距離が違って見えた。
仕事の外に出ようとしているからかもしれない。
マカベは、ハルの前で立ち止まると、短く言った。
「行くぞ。長くは付き合わない」
「それ、付き合うって言うんですかね」
レオンが笑う。
マカベはレオンを見た。
「必要な時間だけだ」
「はいはい、分かってます」
「はいは一回でいい」
「はい」
レオンは少しも反省していない顔で返事をした。
ハルは返事に迷い、結局何も言わなかった。
三人で局の入口へ向かう。
自動扉が開くと、夜の空気が流れ込んできた。
局内の白い照明から一歩外へ出るだけで、音が変わる。
遠くの車両音。
飲食店街へ向かう人の足音。
どこかの店先から漏れる話し声。
ハルは、その音の中へ足を踏み出した。
問いは残っている。
机の上にも、画面の中にも。
けれど今は、レオンとマカベの少し後ろを歩いていた。
仕事のあとで、食事へ向かう。
ただそれだけのことが、
思っていたよりも、少しだけ難しかった。
◇ ◇ ◇
Scene 2 店へ向かう道
局を出て数歩進むと、空気の色が変わった。
FAB局の中にあった白い照明は、背後で静かに遠ざかっていく。
硬い床を踏む音も、認証ゲートの電子音も、もう少しずつ小さくなっていた。
外は、終業後の時間だった。
官庁街の歩道には、同じように仕事を終えた職員たちが流れている。
誰も大きな声では話さない。
けれど、局の中よりは人の気配があった。
道路沿いの案内灯。
少し離れた店の看板。
帰宅する職員たちの足音。
低く走る車両の音。
ハル・イルマは、レオン・クラークの少し後ろを歩いていた。
レオンは迷いなく進んでいく。
この辺りの店をよく知っている歩き方だった。
そのさらに半歩後ろに、コウイチ・マカベがいる。
足取りはいつも通りで、急いでもいないし、遅れてもいない。
ただ、歩幅だけはきっちり一定だった。
ハルは、その二人の間の距離を少し測りながら歩いた。
仕事ではない。
けれど、完全に仕事から離れたわけでもない。
三人で食事に行く。
言葉にすれば、それだけのことだった。
それでも、上司と先輩に挟まれて終業後の街を歩くというのは、思っていたより落ち着かない。
「そんな顔するな。飯食うだけだ」
前を歩くレオンが、振り返らずに言った。
ハルは少し遅れて返す。
「そんなに顔に出てますか」
「出てる。局の入口からずっと、内部監査でも受ける顔してる」
「……業務の延長かと思ってました」
「半分くらいはな」
レオンが軽く笑った。
ハルは一瞬、足を止めかける。
「半分なんですか」
「冗談だよ」
「今の間は冗談じゃないですよね」
「そういうところだぞ、イルマ」
レオンは楽しそうに言った。
マカベが横から短く入る。
「歩きながら広げる話ではない」
その声は、いつもの執務フロアとほとんど変わらなかった。
ただ、局の外で聞くと、少しだけ硬さが違って響いた。
レオンは肩をすくめる。
「主任、今日は説教の予約はしてないですよね」
「予約制にした覚えはない」
「じゃあ飛び込みですか」
「必要なら局内で済ませる」
「ほら、イルマ。今日は説教じゃないってさ」
ハルは返事に困った。
説教ではない。
それは少し安心できる言葉のはずだった。
だが、マカベが同席している時点で、ただの雑談だとも思えない。
ハルの沈黙を見て、レオンが少し歩調を落とした。
「そんな身構えるな。妙に高い店には連れていかない」
「そこを心配していたわけではないです」
「じゃあ何を心配してる」
「何を話すのか、まだ分からないので」
レオンは少しだけ口元を緩めた。
「分からないことを、全部先に確認しようとするなよ」
「職業病ですかね」
「新人のうちは特にな」
マカベが言った。
「食事の場で業務を広げるな」
「主任、それは俺に言ってます?」
レオンが聞く。
「両方だ」
「俺もですか」
ハルが思わず言うと、マカベは前を向いたまま答えた。
「広げそうな顔をしている」
レオンが笑った。
「ほらな。主任にも読まれてる」
ハルは、反論する言葉を探して、やめた。
代わりに、周囲を見た。
官庁街の整った歩道は、少し先で飲食店の並ぶ通りへつながっている。
白く均一だった街灯が、店先の柔らかい灯りに変わり始めていた。
同じ終業後でも、こちらは少し音が違う。
低い話し声。
暖簾が揺れる音。
小さな店の引き戸が開く音。
どこかから流れてくる出汁の匂い。
ハルの肩から、ほんの少し力が抜けた。
本当に、食事なのかもしれない。
そう思ったところで、レオンが立ち止まった。
通りの角を少し入ったところに、小さな店があった。
派手な看板はない。
入口の灯りだけが、通りに小さく落ちている。
暖簾は濃い色で、白い文字が短く入っていた。
高級店ではない。
だが、騒がしい店でもなさそうだった。
仕事帰りの職員が、少し食べて帰る。
そんな言い方が似合う店だった。
「ここだ」
レオンが言った。
ハルは店先を見上げる。
「……普通ですね」
「普通の飯を食いに来たんだよ」
レオンは笑った。
マカベは暖簾を一度見て、店内から漏れる低い話し声に耳を向けるようにした。
「騒がしくはなさそうだ」
その一言で、店は決まったらしい。
レオンが先に戸へ手をかける。
「じゃ、入るか」
引き戸が開いた。
中から、温かい出汁の匂いと、低い話し声が流れてきた。
白い照明の残りが、そこでようやく少し薄れた気がした。
◇ ◇ ◇
Scene 3 食事の始まり
店内の空気は、外で感じたよりも少し温かかった。
強い照明ではない。
天井から落ちる柔らかい灯りが、木目のテーブルと壁の品書きを薄く照らしている。
奥の席では、同じように仕事帰りらしい数人が、低い声で話していた。
笑い声はある。
けれど、大きすぎない。
誰かの会話が、こちらの声をかき消すほどでもない。
店員はレオン・クラークの顔を見ると、慣れたように軽く頷いた。
「三名様ですね」
「空いてるとこで」
レオンが答える。
店員は店の奥ではなく、通り側に近い小さな四人掛けの席へ案内した。
壁際の席だった。
レオンは迷わず片側へ回り、マカベに目で席を示す。
「主任、奥でいいですか」
「どちらでもいい」
そう言いながら、コウイチ・マカベは壁側の席へ腰を下ろした。
レオンはその隣に座る。
向かい側には、ハル・イルマが一人で座る形になった。
残った一席には、レオンが鞄を置いた。
圧迫されているわけではない。
四人掛けのテーブルに三人で座っているだけだ。
それでも、向かい側に先輩と上司が並ぶと、ハルの背筋は自然と少し伸びた。
「面接じゃない。飯だ」
レオンが品書きを取りながら言った。
ハルは一拍遅れて、自分の姿勢に気づく。
「分かってます」
「分かってる奴の座り方じゃないな」
「職場の人と食事に来ることに、慣れていないだけです」
「そこは正直でよろしい」
レオンは笑った。
マカベは品書きを開き、ほとんど迷わず閉じる。
「食事の場で姿勢を監査する気はない」
ハルは返事に困った。
レオンがすぐに言う。
「主任、それ、優しさですか」
「事実だ」
「事実の顔をした優しさってことで」
「解釈を広げるな」
そのやり取りに、ハルは少しだけ息を吐いた。
笑った、というほどではない。
ただ、胸のあたりに入っていた力が、ほんの少し抜けた。
店員が水とおしぼりを置いていく。
レオンは品書きをテーブルの中央に置き、まずマカベを見る。
「主任、飲み物は?」
「茶でいい」
「酒じゃなくていいんですか」
「長くはしないと言った」
「はいはい」
マカベがレオンを見る。
「はい、は一回でいい」
「はい」
レオンは、今度はハルへ向いた。
「イルマ、お前は?」
「俺も茶で」
「遠慮してるなら、酒じゃなくてもいいぞ。飯を食わせに来ただけだからな」
「遠慮というより、そっちの方が落ち着くので」
「よし。じゃあ茶二つと、俺は軽く一杯」
レオンは手を上げて店員を呼んだ。
「茶を二つ。あと、小さい麦酒を一つ。それから、煮込みと出汁巻き、焼き魚を一つ。揚げ物は少しでいいか。飯ものは後で」
注文が早い。
ハルが少し驚いていると、レオンは品書きを戻しながら言った。
「こういう店は、最初に温かいものを頼んでおけばだいたい何とかなる」
「だいたい、ですか」
「だいたいでいいんだよ、飯は」
マカベが短く言う。
「余計な演出がない店は、外れにくい」
レオンが笑った。
「主任が店を評価すると、監査結果みたいになりますね」
「減点はしていない」
「それ、褒めてます?」
「減点はしていない」
「二回言った」
ハルはその会話を聞きながら、テーブルの上のおしぼりを取った。
温かかった。
ただのおしぼりだった。
それなのに、端末の白い画面から少し遠い場所へ来た気がした。
飲み物はすぐに運ばれてきた。
レオンの前に小さな麦酒。
マカベとハルの前に温かい茶。
レオンは杯を軽く持ち上げる。
「乾杯ってほどでもないが、まあ、お疲れ」
マカベは湯呑みをほんの少しだけ動かした。
ハルもそれに合わせる。
湯呑みの縁が、軽く鳴る。
乾杯というには小さい音だった。
それでも、勤務中の端末音とは違った。
「お疲れさまです」
ハルが言うと、レオンは少しだけ目を細めた。
「そこはもう少し雑でいい」
「雑に、ですか」
「お疲れ、くらいでいい」
ハルは湯呑みを手にしたまま、言い直すか迷った。
その迷いを見て、マカベが茶を一口飲んだ。
「無理に崩す必要はない」
「主任がそう言うと、崩していいのか悪いのか分からないんですよ」
レオンが言う。
「必要な場面では崩すな。不要な場面では固めるな」
マカベは淡々と答えた。
「今はどっちですか」
ハルが思わず聞いてしまう。
マカベは少しだけ視線を向けた。
「食え」
答えになっているようで、なっていない。
レオンは声を出して笑った。
「ほら、主任もこう言ってる。まず食え」
「まだ来てません」
「来る」
レオンが言った直後、店員が煮込みの皿を運んできた。
湯気が上がっている。
濃すぎない出汁の匂いと、柔らかく煮えた具材の匂いが混ざっていた。
続いて、出汁巻きと小皿が置かれる。
料理がテーブルに並ぶと、席の空気が少し変わった。
向かいにレオンとマカベがいることは変わらない。
ハルの中に残っている緊張も、完全には消えない。
けれど、目の前にあるのは会議資料ではなかった。
端末の画面でもない。
白い入力欄でもない。
ただの料理だった。
レオンは煮込みの皿を少しハルの方へ寄せる。
「ここ、飯は普通にうまい」
「普通に、ですか」
「普通にうまい店は貴重なんだよ」
「それは分かる気がします」
「だろ」
レオンは少し得意そうに頷いた。
マカベは出汁巻きを一切れ取り、短く言った。
「温度がいい」
「主任、それも監査結果ですか」
「感想だ」
「感想、短いですね」
「長くする理由がない」
レオンはまた笑った。
ハルは箸を取った。
煮込みを少し口に運ぶ。
温かい。
それだけのことだった。
だが、その温かさは、思っていたよりはっきり分かった。
空腹だったのかもしれない。
疲れていたのかもしれない。
どちらも、たぶん当たっていた。
「どうだ」
レオンが聞く。
「普通にうまいです」
「よし、合格」
「誰の評価ですか」
「店の評価でもあり、お前の食事開始確認でもある」
「そんな確認ありますか」
「今作った」
マカベが茶を置く。
「食事中に確認項目を増やすな」
「主任、そこは乗ってきてるんですか」
「注意しただけだ」
その会話に、ハルは今度こそ少し笑った。
レオンはそれを見たが、何も言わなかった。
ただ、自分の杯を少し傾けただけだった。
仕事の話は、まだ出ていない。
そのことに、ハルは少し戸惑っていた。
誘われた理由。
レオンがこちらを見ていたこと。
マカベが同席していること。
それらを考えれば、いずれ何かの話にはなるのだろう。
だが、今はまだ、煮込みと茶と、レオンの軽口があるだけだった。
本当に、ただ食事から始まるらしい。
その普通さが、少しだけありがたかった。
レオンは小皿を取り分けながら、さりげなくハルの顔を見る。
ハルはそれに気づいたが、聞き返さなかった。
マカベもまた、何も言わない。
ただ、食事の場が会議にならないよう、黙って線を引いているように見えた。
ハルはもう一度、箸を伸ばした。
出汁の匂いが、テーブルの上にゆっくり残っている。
まだ、食事の時間だった。
それだけで、少しだけ息ができた。
◇ ◇ ◇
Scene 4 照会の話へ戻る
煮込みの湯気は、まだテーブルの上に残っていた。
レオン・クラークは、箸で小皿の端を軽く寄せながら、ハル・イルマの顔を見た。
「少しは飯の味、分かるようになったか」
ハルは箸を止める。
「分かってます」
「本当か?」
「本当です」
「ならいい」
レオンはそこで一度、麦酒の杯を置いた。
それだけなら、ただの軽口で済んだ。
だが、レオンの視線はすぐには外れなかった。
「で、今日の様子だ」
ハルは返事に詰まった。
「今日の様子、ですか」
「一つ出せたのに、納得してなさそうだったぞ」
店の低い話し声が、少し遠く聞こえた。
ハルは湯呑みを手に取ったが、飲む前に置いた。
「……そういう顔、してましたか」
「してたな」
レオンはあっさり言う。
「普通なら、一つ通った時点で少しは楽になる。少なくとも、画面に張りついた顔ではなくなる」
「張りついてましたか」
「椅子ごと端末に吸われそうだった」
「そこまでではないです」
「本人はだいたいそう言う」
ハルは否定しようとして、やめた。
一つ目の照会は出せた。
それは事実だった。
最初の一枚として、制度の中に置けた。
それを軽く見ているわけではない。
むしろ、あれが今出せる形だと分かっている。
それでも、胸の奥に残っているのは、通った一つ目ではなかった。
「引っかかってるのは、通った照会じゃない」
レオンは、ハルの沈黙を見て続けた。
「通らずに残った方だろ」
ハルは、すぐには答えなかった。
箸を持つ手が、少しだけ止まる。
向かい側で、コウイチ・マカベが茶を置いた。
「通らなかった照会は、出したことにならない」
その声は、店の中でもいつも通りだった。
淡々としている。
低い。
余計な熱がない。
ハルは視線を上げる。
マカベは続けた。
「上席確認に残っているものも、所管確認に留まっているものも、対象範囲を整理し直せと言われているものも、まだ正式な照会ではない」
「分かっています」
「分かっているなら、そこに感情を置くな」
その言葉は少し冷たかった。
だが、否定ではなかった。
ハルはそれを感じて、すぐには反発できなかった。
レオンが横から口を挟む。
「主任、飯の席でもそれですか」
「食事の席で聞いたから、短く済ませている」
「短い分、硬さが濃いんですよ」
「柔らかく言って通るなら、最初からそうしている」
レオンは小さく笑った。
「それもそうか」
ハルは二人のやり取りを聞きながら、自分の中に残っているものを探した。
通った一つ目ではない。
現地応答。
外部支援申請。
言葉にすると、そこだった。
ただし、その二つをそのまま言えば、また範囲が広がる。
広がれば止まる。
止まれば、残らない。
ハルは、小さく息を吐いた。
「一つ目が通ったことは、分かっています」
レオンは黙って聞いていた。
「でも、通ったのは、受領記録の有無です」
「それが悪いわけじゃない」
「はい」
ハルは頷く。
「でも、俺が引っかかっているのは、たぶん、その先です」
「その先」
レオンが繰り返す。
ハルは言葉を探した。
ここは店だった。
会議室ではない。
端末も開いていない。
照会文を再掲する場でもない。
だからこそ、かえって言葉を選ばなければならなかった。
「あの件で、最初に出せたのは、受け取った記録があるかどうかでした」
「そうだな」
「でも、残った方には、返事があったのか、外からの申請がどう扱われたのかが残っています」
レオンは杯を持ったまま、ハルを見ている。
「つまり、お前が見たいのは、受け取ったかどうかだけじゃない」
ハルは頷いた。
「誰かが応答していたのか。外から届こうとしたものが、どこで止まったのか」
そこまで言って、ハルは口を閉じた。
止まった。
その言葉が、少し強く聞こえた。
マカベが静かに言う。
「止まった、と書くな」
ハルは視線を向ける。
「まだ、そう書ける段階ではない」
「……はい」
「見ている場所は間違っていない。だが、書き方を間違えれば、問いではなく判断になる」
マカベは出汁巻きを一切れ取り、皿に置いた。
「判断は、今のお前の照会では通らない」
レオンが小さく息をつく。
「主任、飯を食いながらでも普通に刺してくるな」
「刺してはいない」
「刺さる形をしてます」
「必要なら抜ける」
「抜くのも雑ですね」
ハルは思わず少しだけ笑った。
その小さな笑いで、場の重さが少しだけほどけた。
マカベは表情を変えないまま、茶を飲む。
「通らなかった方を見るなとは言っていない」
ハルの中で、その言葉だけがはっきり残った。
マカベは続ける。
「ただし、通らない形で出すな」
店のざわめきが、また戻ってきた。
隣の席で皿が置かれる音。
店員が短く返事をする声。
レオンが小皿を少し動かす音。
食事の場だった。
それでも、今の言葉は会議室で聞くより近かった。
「残したいなら、残る形にしろ」
マカベは言った。
「感覚を書けば弾かれる。判断を書けば止まる。相手が答えられる形に落とせ」
ハルは湯呑みの縁を見た。
残る形。
何度も削った言葉の先にあるものだった。
削れば通る。
だが、削りすぎれば、何を見ようとしていたのか分からなくなる。
その間にある形。
まだ、掴めていない。
「でも、それをやると」
ハルは言いかけて、止まった。
レオンが続きを促す。
「やると?」
「つながりが、薄くなります」
「そうだな」
レオンはすぐに認めた。
「薄くなる。だから、ばらばらにした後で、どこでつなぎ直すかを考えなきゃならない」
マカベはそこで口を挟まなかった。
否定しない、ということなのだろう。
レオンは煮込みの皿を少しハルの方へ寄せた。
「通ったものだけ見て、よかったなで終わるなら楽だ」
ハルは黙っている。
「でも、お前はそういう顔をしてなかった」
「顔ですか」
「顔だな」
「またですか」
「今日は顔の監査が多いな」
レオンは自分で言って、少し笑った。
マカベが短く言う。
「観察対象が分かりやすいからだ」
「ほらな。主任にも読まれてるぞ、イルマ」
ハルは返す言葉を失った。
レオンは少しだけ声を落とす。
「通ったのは、受領実績の確認だ。でも、お前が見てるのはそこだけじゃない」
その言葉は、断定ではなかった。
決めつけでもない。
ただ、見抜かれている感じがした。
ハルは箸を置きかけて、やめた。
まだ食事の途中だった。
レオンがそれを見て、皿を指した。
「考えるなら、食いながらにしろ」
ハルは小さく頷いた。
箸を戻す。
煮込みは、少し冷め始めていた。
それでも、まだ温度は残っている。
通ったもの。
切り離されたもの。
残したいもの。
残る形にしなければならないもの。
その差は、まだ喉の奥に残っていた。
ハルは、すぐには答えを出せなかった。
だが、マカベは閉じろとは言わなかった。
レオンも、忘れろとは言わなかった。
ただ、食えと言った。
だからハルは、もう一度箸を伸ばした。
まだ、食事の時間だった。
けれど、話はもう、少しだけ仕事の方へ戻っていた
後編へ続く