Scene 5 ハルの見方
煮込みの皿は少し空いて、出汁巻きも半分ほど減っていた。
レオン・クラークの杯も、最初より空いていた。
けれど、テーブルの上に残っているものは料理だけではなかった。
通ったもの。
残ったもの。
書ける形にしなければならないもの。
さっきの会話は、まだ完全には消えていない。
レオンは小皿を脇へ寄せ、ふとハル・イルマを見た。
「普通はさ」
その入り方は軽かった。
だからハルは、すぐに業務の話だとは思わなかった。
「一つ通ったら、そっちを見るんだよ」
ハルは箸を止めた。
「そっち、ですか」
「通った方だ」
レオンは煮込みの皿を指すような調子で言った。
「一つでも出せた。まずはそこを見る。自分の出した文書が、どこへ行ったのか。返ってきたら何をするか。普通はそっちに意識が向く」
ハルは少し考えた。
確かに、一つ目は出せた。
それは前進だった。
けれど、ハルの中で重さを持っていたのは、そこだけではなかった。
「見ていないわけじゃありません」
「分かってる」
レオンは頷いた。
「でもお前は、通った方だけを見てない。空いた欄を見る。残った方を見る。処理済みの横にある、何も書かれてないところを見る」
ハルは返事に詰まった。
自分では、特別なことをしているつもりはなかった。
記録に空いている欄がある。
確認できない箇所がある。
なら、そこを見る。
それだけのことだった。
「それ、普通じゃないんですか」
レオンは少し笑った。
「監査局にいると、普通に見えるかもしれないな」
「違うんですか」
「違うというか」
レオンは言葉を選ぶように、箸を置いた。
「普通は、処理済みって書かれてたら、処理済みとして読む。確認中なら確認中として流す。対象外なら対象外だ。少なくとも、新人がそこから先まで見ようとはあまりしない」
ハルは湯呑みを両手で持った。
温度は、少し落ちている。
「見えたものを、見なかったことにはできないので」
口にしてから、少し強かったかもしれないと思った。
だが、言い直す言葉は見つからなかった。
レオンの表情が、そこでわずかに変わった。
笑っているようで、笑っていない。
軽口を続けようとして、一度だけ止まったような顔だった。
「……そういう言い方、どこかで聞いたことがある」
ハルは視線を上げる。
「誰の話ですか」
「いや」
レオンはすぐには答えなかった。
コウイチ・マカベは、茶を飲んでいた。
その視線はレオンにもハルにも向いていない。
だが、会話は聞いている。
聞いていて、止めていない。
レオンは少しだけ考え込むように、杯の縁を指でなぞった。
「聞いた、っていうより……見たことがある、に近いのかもしれない」
「見たこと?」
「処理済みの文字じゃなくて、その裏を見る。書かれている言葉より、抜けているものに引っかかる。そういう見方だ」
ハルは、自分の手元を見る。
湯呑み。
箸。
小皿。
料理。
そこには何の記録もない。
それなのに、レオンの言葉だけが、急に仕事の机へ戻っていくようだった。
「俺は、普通に確認しているだけです」
「だろうな」
レオンはすぐに認めた。
「お前にとっては普通なんだろう」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
ハルは湯呑みを置く。
「それは、褒められているんですか」
「さてな」
レオンは少しだけ笑った。
「少なくとも、楽な見方じゃない」
マカベが、そこで初めて口を挟んだ。
「見方そのものは、業務上問題ではない」
ハルはマカベを見る。
マカベは表情を変えずに続けた。
「問題になるのは、その見方をそのまま文書にした時だ」
「感覚は記録にならない、ですか」
ハルが言うと、マカベは短く頷いた。
「記録にするなら、確認可能な形にしろ」
それは、いつもの言葉だった。
冷たい。
だが、切り捨てではない。
ハルは頷いた。
「分かっています」
「分かっているならいい」
マカベはそれだけ言って、箸を戻した。
会話はそこで終わってもよかった。
けれど、レオンはまだハルを見ていた。
「そういや、さっき連絡してたな」
ハルは一瞬、何のことか分からなかった。
「連絡?」
「飯いらないってやつ」
「ああ」
ハルは少しだけ肩の力を抜いた。
「夕飯のことです」
「律儀だな」
「連絡しないと、あとで言われます」
「母親か」
「はい」
何気ない流れだった。
食事に行く前に家へ連絡する。
それだけのことだ。
だが、レオンの声が少しだけ変わった。
「イルマ、だったな」
ハルは、すぐに答えなかった。
その確認が、ただの名字の確認ではないように聞こえたからだ。
「……ええ」
「母親の名前」
レオンは、慎重に言葉を置いた。
「ベルトーチカ・イルマ」
その名前が出た瞬間、ハルは箸を置いた。
店の中の話し声は、変わっていない。
隣の席では、誰かが小さく笑っている。
店員が別の卓に皿を置く音もした。
けれど、ハルの周りだけ、ほんの少し空気が変わった。
「母を知っているんですか」
ハルは、できるだけ平静に聞いた。
レオンはすぐには答えなかった。
「直接は、ほとんどない」
「ほとんど?」
「昔の話だ。人づてに聞いたことがある、くらいだ」
その答えは曖昧だった。
だが、誤魔化しているというより、どこまで言うべきかを測っているように見えた。
ハルはマカベを見た。
マカベは茶を置いた。
それだけだった。
驚いた様子はない。
止める様子もない。
ただ、会話がどこへ向かうかを見ているようだった。
ハルの胸の奥に、別の種類の警戒が生まれた。
業務の話ではない。
けれど、完全に私用とも言えない。
「その話、業務に関係ありますか」
ハルはそう聞いた。
少しだけ、声が硬くなった。
レオンはそれに気づいたのだろう。
すぐに軽口へ戻そうとはしなかった。
「今のところは、ない」
「今のところ」
「言い方が悪かったな」
レオンは小さく息を吐いた。
「お前の見方の話をしてた。それが、少し古い話とつながりかけただけだ」
「古い話?」
「まだ言う話じゃない」
ハルは目を細めた。
「そこまで言って止めるんですか」
「止める時もある」
レオンは苦笑した。
「言葉を選べって、さっき主任が言ってただろ」
マカベはそこで、レオンを見た。
「都合よく使うな」
「便利だったので」
「便利な言葉ほど雑に使うな」
「はい」
レオンは今度は一回だけ返事をした。
ハルは、二人のやり取りを見ても、あまり笑えなかった。
ベルトーチカ・イルマ。
母の名前は、ハルにとってはただ母の名前だった。
家にいる人。
朝、声をかけてくる人。
帰りが遅いと短く返事をくれる人。
だが、レオンがその名前を口にした時、そこには別の響きがあった。
ハルの知らない場所で、その名前を知っている人がいる。
そのことが、妙に落ち着かなかった。
「……何がつながったんですか」
ハルが聞く。
レオンは箸を置いた。
「まだ、確かめてる」
「何を」
「お前の見方と、名前と、年齢」
ハルは眉を寄せた。
「年齢?」
レオンはすぐに答えなかった。
その沈黙が、かえって答えの形を持ち始める。
マカベは静かに茶を飲んだ。
何も言わない。
それでも、何も知らない顔ではなかった。
レオンは、もう一度ハルを見る。
さっきまでの軽い先輩の顔ではない。
責める顔でもない。
面白がる顔でもない。
何かを思い出しながら、言葉を選んでいる顔だった。
「いや」
レオンは小さく言った。
「少し、つながっただけだ」
ハルは返せなかった。
何が、と聞き返したかった。
だが、聞けば、その先へ進んでしまう気がした。
店の中では、低い話し声が続いている。
料理の匂いも、湯呑みの温度も、さっきと変わらない。
それなのに、テーブルの上の空気だけが少し変わっていた。
ベルトーチカ・イルマ。
その名前が、食事の場に置かれたままになっている。
レオンは、その名前の先をまだ言わなかった。
マカベも、何も言わなかった。
だからハルも、すぐには次の言葉を出せなかった。
◇ ◇ ◇
Scene 6 アムロ・レイの子
沈黙の中で、煮込みの湯気はもう薄くなっていた。
出汁巻きの皿も、端に少し残っているだけだった。
店の奥では、別の客が低い声で笑っている。
店員が皿を下げる音もした。
暖簾の向こうから、外の冷えた空気がかすかに流れ込む。
何も止まってはいない。
それなのに、三人の席だけ、少し間が空いていた。
レオン・クラークは、箸を置いたままハル・イルマを見ていた。
さっきまでの軽い先輩の表情ではない。
だが、問い詰めるような硬さもなかった。
何かを決めつける前に、言葉を選んでいるように見えた。
ハルは、その沈黙が好きではなかった。
仕事の話なら、まだ分かる。
照会文なら、直せる。
記録なら、確認できる。
だが、母の名前から先へ進む話は、確認欄に落とし込めない。
「母が、何か」
ハルは静かに聞いた。
声は大きくなかった。
ただ、自分でも少し硬いと思った。
レオンはすぐに答えなかった。
杯の縁に指を触れ、ほんの少しだけ息を吐く。
「あぁ……やっぱり、そうなのか」
その声は、驚きというより、納得に近かった。
ハルは返事をしなかった。
やっぱり。
その言葉の置き方が、嫌だった。
レオンは、初めて知ったわけではない。
だが、確信していたわけでもない。
そんな中途半端な距離から、自分を見られている気がした。
「ベルトーチカ・イルマの息子、ってだけなら、まあ分かる」
レオンはそこで一度止まった。
マカベは何も言わない。
茶を手にしている。
飲むわけでもなく、置くわけでもない。
「けど、そうか」
レオンの声が、少し低くなった。
店の奥で、誰かが笑う声がした。
その声だけが、少し遠く聞こえた。
「アムロ・レイの……」
ハルの手が止まった。
湯呑みの縁に触れていた指先が、ほんの一瞬だけ動かなくなる。
レオンは、そこでようやく最後まで言った。
「アムロ・レイの子、か」
大きな声ではなかった。
隣の席に聞こえるかどうかも分からないくらいの低さだった。
それでも、その名前だけは、席の上に落ちた瞬間に重さを持った。
アムロ・レイ。
ハルにとっては、教科書の名前でも、映像記録の中の名前でもなかった。
父の名前だった。
ただし、家の中で何度も呼ばれる名前ではなかった。
ベルトーチカが必要以上に語ることはなかった。
ハルも、聞かなかったわけではない。
ただ、その名前はいつも、日常の会話に置くには少し重すぎた。
そして今も、そうだった。
食事の席に置かれた瞬間、空気が変わる。
ハルは、その変化を知っていた。
何度もではない。
だが、何度かはあった。
名前を聞いた人の目が、一拍だけ変わる。
ハルを見る前に、別の誰かを見るような目になる。
目の前にいる自分ではなく、その名前の向こう側を見ようとする。
それが嫌いというほど単純ではない。
ただ、面倒だった。
ひどく、面倒だった。
ハルは湯呑みを見た。
茶の表面が、わずかに揺れている。
自分の手が揺らしたのか、テーブルがわずかに動いたのかは分からなかった。
「その言い方、職場ではやめてください」
少し遅れて、ハルは言った。
レオンは目を瞬かせる。
「そこか」
「そこです」
ハルは顔を上げた。
できるだけ、いつもの調子に戻した。
「ソウマ達には、まだ黙っててくださいよ。めんどくさいんで」
レオンは笑いかけて、途中でやめた。
「……そういう問題か」
「そういう問題です」
ハルは即答した。
「知られたら、絶対に面倒なことになります。ソウマは余計な反応をしますし、リアはたぶん何も言わない顔で全部覚えます」
言いながら、少しだけ自分でも分かった。
軽口にしている。
話を小さくしようとしている。
けれど、本当に小さい話なら、そんなことをする必要はなかった。
レオンもそれに気づいたのだろう。
軽く笑うことも、深刻な顔をすることもせず、ただ頷いた。
「分かった。言わない」
その返事は、思ったより早かった。
ハルは少しだけ息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ただな」
レオンはそこで言葉を切った。
ハルは身構える。
「その名前が出ると、空気が変わるのは分かる」
ハルは何も言わなかった。
「だから、お前が面倒だって言うのも分かる」
レオンは杯を持ったが、飲まなかった。
「でも、別に今の話を持ち上げたいわけじゃない」
「なら、どうして言ったんですか」
少しだけ、声が刺さった。
レオンは怒らなかった。
「つながったからだ」
「何が」
「さっきも言っただろ。見方と、名前と、年齢」
ハルは眉を寄せた。
「それだけで?」
「全部じゃない。断片だ」
レオンは慎重に言った。
「ベルトーチカ・イルマの名前は、軍関係者であれば、ある程度知っている。ジャーナリストとしても名前はよく聞くからな。」
レオンは続けた。
「ただ誰でも知ってる話じゃない。でも、俺みたいに【古い話】を少し聞いてる人間なら、引っかかることはある」
ハルは黙って聞いていた。
「そこに、お前の見方が重なった」
「見方を、父の名前に結びつけるんですか」
その言葉は、自分で思ったより冷たく出た。
レオンはすぐに首を振った。
「違う」
短い否定だった。
「それは違う。お前がそう見てる理由を、父親の名前で片づけたいわけじゃない」
その言い方は、軽くなかった。
ハルはすぐには返せなかった。
マカベが、そこで茶を置いた。
音は小さかった。
だが、二人の会話の間に、まっすぐ入ってきた。
「声を落とせ」
レオンは一度、周囲を見た。
大きな声ではなかったが、マカベの言葉で、話の位置が少し戻る。
「悪い」
レオンが短く言った。
マカベはハルを見たわけではない。
レオンを見るでもない。
ただ、テーブルの中央あたりに視線を置いたまま言う。
「店で広げる話ではない」
その言葉は冷たかった。
けれど、ハルには少し助かった。
この場で続けられたくはなかった。
父の名前について、食事の席で説明したくもなかった。
何を聞かれても、たぶん上手く答えられない。
レオンはマカベの言葉に頷いた。
「分かってます」
「分かっているなら、続ける時は言葉を選べ」
「主任、今日ずっとそれ言ってません?」
「必要な回数だけ言う」
「はい」
今回は、レオンも軽く流さなかった。
ハルは湯呑みを両手で包んだ。
アムロ・レイ。
その名前が出たこと自体は、なかったことにはならない。
けれど、マカベが線を引いたことで、少なくともこの場で広げられることはなかった。
それがありがたいのか、余計に居心地が悪いのか、自分でも分からなかった。
「隠しているつもりはないんです」
ハルは、ぽつりと言った。
言ってから、少し驚いた。
自分から続けるつもりはなかった。
だが、言葉は出てしまった。
レオンは黙っている。
マカベも止めない。
「ただ、仕事と関係ないので」
ハルは続けた。
「母の名前も、父の名前も。俺が今日出した照会とは、関係ない」
言いながら、自分の声が少し硬くなるのが分かった。
「関係ないままでいてほしいんです」
店の中の音が、また少し遠くなった。
レオンは、今度ははっきり頷いた。
「分かった」
それ以上、何も言わなかった。
アムロの話を広げることもなかった。
昔の話を始めることもなかった。
すごいな、とも言わなかった。
その沈黙は、ハルが思っていたよりずっとましだった。
マカベは出汁巻きの皿を少し端へ寄せた。
「その情報を、ここで広げる意味はない」
ハルはマカベを見る。
「はい」
「ただし」
マカベはそこで、一度言葉を止めた。
その先を言い切るには、まだ少し早いように見えた。
「業務上、必要なものと不要なものは分けろ」
その言葉だけを置いた。
ハルは頷いた。
分けろ。
それは、今日何度も見てきた言葉に近かった。
問いを分ける。
確認を分ける。
通る形と、通らない形を分ける。
そして今度は、名前と仕事を分けろと言われている。
ハルは湯呑みを置いた。
「分けられるなら、そうします」
レオンが少しだけ苦笑する。
「難しい言い方だな」
「簡単ではないので」
「だろうな」
それだけだった。
レオンは麦酒を一口飲んだ。
マカベは茶を飲む。
ハルは箸を取った。
食事の席に、少しだけ普通の音が戻った。
それでも、さっき出た名前はまだ消えていない。
アムロ・レイ。
その名前は、ハルの前に置かれたままだった。
ただ、誰もすぐに次の言葉を重ねなかった。
ハルはその沈黙に、少しだけ救われた。
「ソウマ達には、本当に言わないでくださいよ」
念を押すように言うと、レオンはようやく少し笑った。
「分かってる。面倒なんだろ」
「かなり」
「リアの方が怖いな」
「分かりますか」
「たぶん全部覚える」
「そうなんですよ」
少しだけ、笑いが戻った。
マカベが短く言う。
「本人たちのいないところで評価するな」
レオンがすぐに返す。
「主任、それも記録に残りますか」
「残さない限りは残らない」
「職業病ですね」
「お前もだ」
レオンは肩をすくめた。
ハルはそのやり取りを聞きながら、もう一度箸を伸ばした。
場は完全には戻っていない。
けれど、壊れたわけでもない。
アムロ・レイの名前は出た。
それでも、今この席にいるのは、ハル・イルマだった。
そのことを、まだ誰も言葉にはしていない。
だが、マカベの短い線引きが、
その名前だけで話を終わらせないための場所を残していた。
◇ ◇ ◇
Scene 7 名前ではなく事実
アムロ・レイ。
その名前は、まだ席の上に残っていた。
誰も持ち上げなかった。
誰も、そこから昔話を始めなかった。
それでも、消えたわけではない。
ハル・イルマは湯呑みに目を落としていた。
茶は少し冷めている。
さっきまで指先に残っていた温度も、もう薄い。
レオン・クラークは、いつものように軽口へ戻ろうとして、戻りきれていなかった。
「悪い」
小さく言った。
ハルは顔を上げる。
「今のは、少し踏み込んだ」
「……そうですね」
否定はできなかった。
レオンは苦笑しかけて、やめた。
「軽く言える名前じゃなかったな」
その言葉は、ハルが思っていたよりまっすぐだった。
だから、すぐには返せなかった。
父の名前は、軽くない。
それはハルにも分かっている。
分かっているから、普段は口にしない。
母も、必要以上には話さない。
家の中でさえ、その名前は普通の雑談にはならなかった。
外で出れば、なおさらだった。
誰かの目が変わる。
一瞬だけ、目の前の自分ではないものを見る。
名前の向こうにある記録や映像や噂を見ようとする。
それが嫌だと言い切るほど単純ではない。
けれど、疲れる。
「そういう話になるのが、面倒なんです」
ハルは、少しだけ笑うように言った。
笑えていたかは分からなかった。
「父の名前で、俺が何かを説明されるのも。母の名前まで、そこに並べられるのも」
レオンは何も言わなかった。
茶化すことも、謝り直すこともしなかった。
その沈黙は、悪くなかった。
コウイチ・マカベが、そこで茶を置いた。
音は小さい。
けれど、その場の向きを変えるには十分だった。
「業務上、必要のない情報だ」
その一言は、冷たかった。
ハルは一瞬、マカベを見る。
マカベの表情は変わっていない。
責めているわけでもない。
慰めているわけでもない。
ただ、分類しているだけだった。
「必要のない情報は、共有しない」
マカベは続ける。
「記録にも残さない。話題として広げる必要もない」
レオンが小さく息を吐いた。
「了解。ここだけの話にしとく」
「ここだけの話にもするな」
マカベはすぐに返した。
「業務上不要なら、そこで終わりだ」
レオンは片眉を上げた。
「主任、言い方」
「事実だ」
「まあ、そうなんですけど」
レオンはハルの方を見た。
「ソウマ達には言わない。そこは約束する」
「助かります」
ハルは短く答えた。
本当に助かったと思った。
たぶん、ソウマなら大きく反応する。
リアは何も言わないかもしれない。
だが、何も言わないまま、必要なことを全部覚える。
どちらも、それはそれで面倒だった。
マカベは、そこには触れなかった。
代わりに、皿の端へ箸を置き、ハルを見た。
「その名前で、照会文は通らない」
ハルは黙った。
レオンが少しだけ眉を上げる。
「主任」
「事実だ」
マカベは表情を変えない。
「父親の名前で、受領記録は増えない。確認中の状態も変わらない。所管確認も、対象範囲の再整理も、名前では動かない」
言葉は冷たい。
だが、ハルにはその冷たさが少しだけありがたかった。
名前の重さを否定しているわけではない。
軽く扱っているわけでもない。
ただ、仕事から切り離している。
「通すなら、確認可能な形にしろ」
マカベは言った。
「記録には、名前ではなく事実を書け」
その声は、いつも通りだった。
冷たくて、短い。
ハルは少しだけ息を吐いた。
「いつもの話に戻りましたね」
「最初からその話だ」
マカベはすぐに答えた。
ハルは返す言葉を失った。
確かに、そうだった。
名前が出た。
空気が変わった。
父の名が、席の上に置かれた。
それでも、ハルが今日やっていたことは変わらない。
通る形にすること。
確認できる事実を残すこと。
見えた空白を、感覚ではなく記録として残せる形へ落とすこと。
父の名前ではなく。
ハル自身が見たものを。
「……分かってます」
ハルは言った。
「書くなら、事実だけです」
マカベは頷いた。
「それでいい」
それでいい。
その短さが、少し救いになった。
レオンが、空になりかけた杯を見ながら言う。
「変に隠すのも違うと思ったんだが」
「隠しているつもりはないです」
ハルは先ほどと同じことを、少しだけ違う声で言った。
「でも、仕事では出したくない」
「分かる」
レオンは今度はすぐに頷いた。
「少なくとも、今日の話にそれを混ぜるつもりはない」
「今日の話」
「お前が残したい記録の話だ」
レオンはそう言ってから、すぐに少し笑った。
「……って言うと、また主任に言葉を選べって言われそうだな」
「言う前に選べ」
マカベが言った。
「ほら」
「ほらじゃない」
レオンは軽く肩をすくめた。
そのやり取りに、ハルは少しだけ笑った。
場の空気は、完全には戻っていない。
アムロ・レイの名前が出たことは、消えない。
けれど、その名前だけで席が埋まってしまうことはなかった。
料理は少し冷めている。
茶も冷めかけている。
店の奥の話し声は続いている。
食事の席は、まだ食事の席だった。
ハルは箸を持ち直した。
冷めかけた煮込みを一口食べる。
味は、さっきより少し薄く感じた。
けれど、食べられないほどではなかった。
「名前だけでは、照会は通らない」
ハルは、小さく言った。
レオンは黙っている。
マカベも、止めない。
「でも、俺が見た記録なら、残せるかもしれない」
口にすると、少しだけ分かった。
それが、今いる場所だった。
アムロ・レイの子。
その事実は消えない。
けれど、明日自分が向き合うのは、その名前ではない。
送付済になった一枚。
まだ残っている二つ。
削られた言葉。
残さなければならない事実。
そこへ戻るしかない。
マカベは短く言った。
「残せる形にしろ」
「はい」
ハルは頷いた。
レオンが少しだけ笑う。
「なんだかんだで、結局仕事の話に戻ったな」
「戻したのは主任です」
ハルが言うと、レオンはすぐに乗った。
「そうだな。主任のせいだ」
マカベは茶を手に取る。
「責任転嫁は記録に残らない」
「残さないでくださいよ」
「残す価値がない」
「評価が厳しい」
その軽口で、ようやくテーブルの上に少しだけ普通の音が戻った。
ハルは湯呑みを持つ。
茶は冷めていた。
それでも、喉を通る。
父の名前は軽くない。
母の名前も、ただの記号ではない。
だが、記録に書くべきものは別にある。
名前ではなく、事実。
それは励ましではなかった。
慰めでもなかった。
ただの業務上の線引きだった。
だからこそ、ハルは少しだけ楽になった。
父の名は、まだどこかに残っている。
けれど今この席で、その名前だけがハルを決めることはなかった。
ハルはもう一度、箸を伸ばした。
食事は、まだ終わっていない。
◇ ◇ ◇
Scene 8 帰り道
店を出ると、夜の空気は少し冷えていた。
暖簾の内側にあった出汁の匂いと低い話し声は、引き戸が閉まるとすぐに薄くなる。
代わりに、通りの空気が入ってきた。
車両の低い走行音。
遠くの信号音。
仕事帰りの職員たちが、まばらに駅の方へ歩いていく足音。
FAB局の白い照明は、もう通りの向こう側だった。
ハル・イルマは、店の前で一度だけ振り返った。
普通の店だった。
普通に食事をして、普通に茶を飲んで、普通ではない名前が出た。
それでも、店の戸は何事もなかったように閉まっている。
レオン・クラークが肩を回した。
「まあ、飯は食えたな」
その声は、いつもの軽さに少し戻っていた。
ハルは横を見る。
「食事に来たんですから」
「そうなんだけどな。途中から、飯より言葉を噛んでる顔してたぞ」
「また顔ですか」
「今日は多かったな、顔の話」
レオンは自分で言って、少し笑った。
その笑い方は、食事中よりも軽い。
けれど、完全に何もなかったようには見えない。
ハルも、それ以上は突っ込まなかった。
コウイチ・マカベは店の前の灯りから少し外れ、通りの先を見ている。
終業後の街の流れを眺めるようでいて、どこにも意識を置きすぎていない立ち方だった。
「明日は通常業務からだ」
マカベが言った。
唐突ではなかった。
むしろ、そう言うだろうと思っていた。
ハルは頷く。
「了解しました」
「残っているものは、回答を待ってから触れ」
「はい」
「順番を崩すな」
短い。
それだけだった。
だが、その短さが、店の中で出た名前よりも今のハルには扱いやすかった。
名前は、順番を崩す。
誰かの目を変える。
話の位置を変える。
目の前の仕事を、別の物語へ引き寄せる。
それは、ハルが何度か感じてきたことだった。
けれどマカベの言葉は、そこへ戻さなかった。
通常業務。
回答待ち。
順番。
味気ない言葉だった。
それなのに、少しだけ足場になる。
レオンが横から言った。
「主任、飯の余韻ってものは」
「必要なら各自で処理しろ」
「処理」
「食事は終了した」
「情緒がない」
「業務ではない」
「業務じゃないなら、もう少し情緒を」
「長くは付き合わないと言った」
レオンは肩をすくめる。
「はいはい」
マカベが見る。
「はいは一回でいい」
「はい」
ハルは、そのやり取りに少しだけ笑った。
場が完全に戻ったわけではない。
店の中で出た名前は、まだ胸の奥に残っている。
父の名前。
軽くはない。
消えるものでもない。
そして、消したいものでもないのかもしれない。
ただ、その名前だけで自分を見られることには、まだ慣れない。
たぶん、これからも慣れない。
レオンは踏み込んだ。
だが、持ち上げはしなかった。
マカベは切り分けた。
冷たく、短く、業務上不要な情報として。
その冷たさに、ハルは少し救われていた。
レオンが駅の方を指した。
「イルマ、駅はこっちでいいんだよな」
「はい」
「俺は途中まで同じ方向だ。主任は?」
「反対だ」
マカベは短く答える。
「じゃあ、ここで解散ですか」
ハルが言うと、マカベは頷いた。
「明日、遅れるな」
「遅れません」
「食事を理由にするな」
「しません」
レオンが笑う。
「主任、俺にも言ってます?」
「当然だ」
「ですよね」
マカベは二人を見比べるでもなく、通りの向こうへ歩き出した。
その背中は、勤務中とほとんど変わらない。
ただ、白い照明の下ではなく、店の灯りと街灯の間を歩いている。
少しだけ違って見えた。
「お疲れさまでした」
ハルが言うと、マカベは振り返らずに片手を上げた。
返事としては、それで十分だった。
レオンはその背中を見送りながら、小さく言う。
「まあ、ああいう人だ」
「分かっています」
「本当に?」
「たぶん」
「正直でよろしい」
レオンは笑った。
二人は駅の方へ歩き出した。
通りの灯りは、FAB局の照明ほど白くない。
店の看板、歩道の案内灯、窓から漏れる光が、少しずつ色を持っている。
ハルはその中を歩きながら、店の中で出た名前を思い出していた。
アムロ・レイ。
もう一度、声に出す必要はなかった。
頭の中でさえ、強く繰り返したいとは思わなかった。
その名前は、ただそこにある。
昔からそこにあった。
けれど、今日、職場の先輩と上司の前に置かれた。
それでも、そこで終わらなかった。
誰も昔話を始めなかった。
誰も古い物語にしなかった。
誰も、血筋の話でハルをまとめなかった。
マカベの声が、夜の道で少しだけ戻ってくる。
記録には、名前ではなく事実を書け。
それは励ましではない。
慰めでもない。
ただの線引きだった。
だが、その線の内側に、ハルは明日戻れる気がした。
レオンが隣で言った。
「あんまり考えすぎるな、とは言わないけどな」
ハルは顔を上げる。
「言わないんですか」
「言ったところで、お前は考えるだろ」
「否定はしません」
「だろ。だから、飯を食えとか、寝ろとか、明日出勤しろとか、そういう話にする」
「実務的ですね」
「主任ほどじゃない」
レオンは笑った。
「でもまあ、今日はこれくらいにしとけ」
その言い方は軽かった。
けれど、軽いだけではなかった。
ハルは頷いた。
「はい」
駅へ向かう角で、レオンは足を止めた。
「俺はこっち」
「お疲れさまでした」
「お疲れ。明日、普通に来いよ」
「普通に、ですか」
「普通に。照会も記録も、普通に机の上にある」
ハルは少しだけ笑った。
「普通じゃないものも混ざってますけど」
「それも含めて、明日の仕事だ」
レオンはそう言って、片手を上げた。
「じゃあな」
「はい」
レオンは別の通りへ歩いていった。
ハルはしばらく、その背中を見送った。
ひとりになると、夜の音が少しはっきりした。
駅へ向かう人の流れ。
案内放送。
遠くの車両音。
私用端末を取り出しかけて、やめた。
連絡はもう入れてある。
帰る場所もある。
明日戻る机もある。
父の名前は、まだ胸の奥に残っている。
けれど、それは明日提出する照会文の件名にはならない。
記録の項目にもならない。
確認事項にもならない。
明日見るのは、その名前ではない。
通った照会。
通らずに残った照会。
削られた言葉。
残った記録。
そして、自分が見た事実を、どう残すか。
ハルは私用端末をしまった。
夜の道を、駅へ向かって歩き出す。
父の名前は軽くない。
けれど、その名前だけがハルを決めることもない。
明日また見るべきものは、
白い画面の中に残っている。
名前ではなく、事実として
次話に続きます。