Beyond the Axis   作:Hisa/Coco

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続き


第14話 名前のあとで(前編)

Scene 1 帰宅

 

玄関の認証灯が、短く青く光った。

 

扉が開くと、家の中の灯りが廊下へ細く漏れた。

外の夜気よりも少し暖かい空気が、ハル・イルマの頬に触れる。

 

時刻は二十時半を少し過ぎていた。

 

遅い、というほどではない。

けれど、いつもの帰宅時間よりは少しだけずれている。

 

ハルは玄関に入り、扉を閉めた。

 

「ただいま」

 

声は普通に出た。

 

そう思った。

 

鞄を肩から下ろし、靴を脱ぐ。

靴音が、玄関の床に小さく響いた。

 

食事はしてきた。

酒は飲んでいない。

職場の人と少し食べて帰る、と連絡も入れていた。

 

だから、何も不自然なことはないはずだった。

 

それでも、玄関に入った瞬間、食事の席で聞いた名前が、少しだけ重さを取り戻した。

 

父の名前。

 

帰り道では、記録や照会の方へ戻したつもりだった。

明日見るものは、その名前ではない。

そう思っていた。

 

だが、家に帰ると、その言葉は少し違う重さになる。

 

ここには、母がいる。

 

「おかえり」

 

リビングの方から、ベルトーチカ・イルマの声がした。

 

ハルは鞄を持ち直し、廊下を進んだ。

 

リビングには、強すぎない照明がついている。

テーブルの上には端末と、読みかけの資料。

その横に、温かい飲み物の入ったカップが置かれていた。

 

ベルトーチカはソファではなく、テーブルの椅子に座っていた。

在宅の仕事をしていたのだろう。

端末画面には、文章の編集画面らしいものが開いている。

 

ただし、ハルが入ってくると、ベルトーチカはすぐに画面を伏せた。

 

「遅くはならなかったのね」

 

「うん」

 

ハルは短く答えた。

 

「ちゃんと食べた?」

 

「食べてきた」

 

「飲んでは?」

 

「飲んでない」

 

「でしょうね」

 

ベルトーチカは、少しだけハルを見る。

 

「酔った顔はしてないもの」

 

「飲んでないから」

 

「でも、ただ食べて帰ってきただけには見えないわね」

 

ハルは返事に詰まった。

 

早い。

 

玄関を入って、まだたいして会話もしていない。

鞄を置く前に見抜かれるのは、少し困る。

 

「そんな顔してる?」

 

「してるわよ」

 

ベルトーチカはカップを手に取った。

 

「あなた、仕事用端末を見る時とは別の顔をしてる」

 

「それ、どういう顔?」

 

「言葉を選んでる顔」

 

ハルは、鞄を椅子の横に置いた。

 

今日だけで、何度顔の話をされたのか分からない。

 

局の入口でも。

店へ向かう道でも。

食事の席でも。

 

そして、家でも。

 

「食事会で何かあった?」

 

ベルトーチカの声は、強くなかった。

 

問い詰める声ではない。

ただ、置かれたものに気づいている声だった。

 

ハルはすぐに答えなかった。

 

上着を脱ぎ、椅子の背にかける。

それだけの動作に、少し時間がかかる。

 

「別に、何かあったわけじゃ」

 

言いかけて、自分で止めた。

 

便利な言葉だと思った。

 

別に。

何か。

あったわけじゃない。

 

どれも、何も言っていないのに、会話を閉じられる言葉だった。

 

ベルトーチカは急かさなかった。

 

ただ、カップを置き、ハルを見ていた。

 

「職場の人と食べてきたんでしょう」

 

「うん」

 

「先輩と、上の人?」

 

ハルは少しだけ目を上げる。

 

「……先輩と主任」

 

「そう」

 

ベルトーチカは頷いた。

 

それ以上、誰かとは聞かなかった。

 

ハルはそのことに、少しだけほっとした。

 

「ちゃんと食べられた?」

 

「食べた」

 

「さっきも聞いたわ」

 

「……そうだね」

 

「今の返事は、少し遅かった」

 

ハルは苦笑しようとして、うまくできなかった。

 

ベルトーチカは、そこで少しだけ声を柔らかくした。

 

「仕事の話?」

 

ハルは答えを探した。

 

仕事の話だった。

照会の話もした。

通ったものと、残ったものの話もした。

 

でも、それだけではない。

 

むしろ、今胸の奥に残っているものは、仕事の話として扱うには少し違う。

 

「少しは」

 

ハルは言った。

 

「でも、それだけじゃない」

 

ベルトーチカは、表情を変えなかった。

 

ただ、少しだけ視線を落としてから、もう一度ハルを見た。

 

「名前の話でもされた?」

 

ハルは動けなかった。

 

それは、ほとんど答えのような問いだった。

 

「……どうして」

 

「母親だから」

 

ベルトーチカは、当然のように言った。

 

それから、少しだけ口元を緩める。

 

「と言うと雑ね。あなたが、仕事の話だけを持ち帰った時の顔とは少し違うから」

 

ハルは椅子に手を置いたまま、しばらく黙っていた。

 

家の灯りは、局の照明よりずっと柔らかい。

店の灯りよりも、さらに近い。

 

ここは、帰る場所だった。

 

それでも、その名前だけは、まだ少し重かった。

 

「食事の時に」

 

ハルは、ゆっくり言った。

 

「少し、名前の話になった」

 

ベルトーチカは何も言わなかった。

 

ハルは続けるか迷った。

 

このまま部屋へ戻ることもできた。

今日は疲れたから、と言って切ることもできた。

 

けれど、そうすると、その名前だけをまた一人で持っていくことになる。

 

それは、少し違う気がした。

 

「母さんの名前から」

 

ハルは視線を落とした。

 

「父さんの名前に、つながって」

 

ベルトーチカの手が、カップのそばで一度だけ止まった。

 

驚いた、というほどではない。

だが、軽く流すこともしなかった。

 

リビングの灯りは変わらない。

端末の画面も伏せられたまま。

カップからは、もうほとんど湯気が上がっていない。

 

ベルトーチカは静かに言った。

 

「座りなさい」

 

ハルは少しだけ息を吐いた。

 

立ったまま話せる内容ではない。

たぶん、ベルトーチカもそう思ったのだろう。

 

ハルは椅子を引き、テーブルの向かいに座った。

 

父の名前は、まだ口にしていない。

 

けれど、その話はもう、家の灯りの中に置かれていた。

 

◇ ◇ ◇

 

Scene 2 名前が出た

 

ベルトーチカ・イルマは、すぐには何も聞かなかった。

カップを少し脇へ寄せ、伏せた端末をそのままにしている。

 

リビングの灯りは、いつも通りだった。

強すぎず、白すぎず、家の中のものを家の中の色で照らしている。

 

それだけで、職場の照明とは違った。

 

ハルは両手を膝の上に置いた。

話すつもりで座ったはずなのに、言葉はすぐには出てこなかった。

 

母さんの名前から。

父さんの名前に、つながって。

 

そこまでは言った。

 

けれど、その先の名前はまだ口にしていない。

 

ベルトーチカは急かさなかった。

 

「言いにくいなら、ゆっくりでいいわ」

 

その声は、仕事の取材相手へ向けるものではなかった。

家の中で、ハルを待つ声だった。

 

ハルは小さく頷いた。

 

「食事の時に」

 

「うん」

 

「母さんの名前が出た」

 

ベルトーチカは静かに聞いていた。

 

「それで」

 

ハルは一度、視線を落とした。

 

「父さんの話になった」

 

そこで一拍置いた。

 

リビングの空気は変わらない。

端末の画面も伏せられたまま。

外から聞こえる音も、ほとんどない。

 

それでも、名前を出す直前の間だけは、少し重かった。

 

「アムロ・レイの名前が出た」

 

口にすると、思っていたより短かった。

 

ただの名前だった。

 

でも、ただの名前ではなかった。

 

ベルトーチカは驚かなかった。

 

目を見開くことも、聞き返すこともしなかった。

ただ、少しだけ息を吸って、それから静かに吐いた。

 

「そう。出たのね」

 

その言い方は軽くなかった。

けれど、大げさでもなかった。

 

ハルは少しだけ安心した。

同時に、胸の奥に残っていたものが、完全には軽くならないことも分かった。

 

「驚かないんだ」

 

「驚く話ではないわ」

 

ベルトーチカは答えた。

 

「でも、普通は驚くと思う」

 

「誰にでも話してきたことじゃないもの。普通には驚かないわ」

 

ハルは少しだけ眉を寄せた。

 

分かったようで、分からない言い方だった。

 

ベルトーチカは、ハルの表情を見て、ほんの少し口元を緩めた。

 

「隠していたわけじゃないの」

 

ハルは顔を上げた。

 

「うん」

 

「でも、誰にでも話すことでもなかった」

 

その言葉は、思っていたより自然に聞こえた。

 

秘密ではない。

けれど、広く開かれた話でもない。

 

ハル自身も、たぶんそう扱ってきた。

 

聞かれれば答える。

けれど、自分から置きに行くものではない。

 

父の名前は、いつもそういう場所にあった。

 

「知ってる人は、知ってる話?」

 

ハルが聞くと、ベルトーチカは頷いた。

 

「そうね。知っている人は知っている。知らない人は知らない。そのくらいの話」

 

「曖昧だね」

 

「曖昧なまま残る話って、あるのよ」

 

ベルトーチカはカップに触れた。

もう温かさはほとんど残っていないようだった。

 

「世間話みたいに広まっていたわけじゃないわ。でも、あの頃を知っている人間なら、断片くらいは持っている」

 

「あの頃」

 

「昔の軍の周辺、報道関係、連邦の中でも一部。そういう場所には、誰かが見たものや聞いたものが残ることがあるのよ」

 

ハルは黙って聞いた。

 

ベルトーチカは、歴史を語っているわけではなかった。

ただ、自分の過去がどのくらい外に残っているかを説明しているだけだった。

 

「でも、イルマって名前だけで分かるものなの」

 

ハルは聞いた。

 

そこが、ずっと引っかかっていた。

 

食事の席で、レオンはすぐに確信したわけではなかった。

けれど、何かがつながったような顔をした。

 

名前。

年齢。

見方。

 

その三つが、妙に気持ち悪く残っている。

 

ベルトーチカは首を振った。

 

「名前だけでは分かるものではないわ」

 

「じゃあ」

 

「いくつか重なったんでしょうね」

 

「いくつか」

 

「私の名前。あなたの年齢。父親の名前が表に出ていないこと。それから、あなた自身の見られ方」

 

ハルは少しだけ目を伏せた。

 

あなた自身の見られ方。

 

その言葉が、思っていたより近いところに落ちた。

 

「職場の人、変な言い方はしなかった?」

 

ベルトーチカが聞いた。

 

ハルはすぐに首を振った。

 

「してない」

 

そこは、はっきり言えた。

 

「持ち上げられたわけでもない。すごいとか、そういう話にもされてない」

 

「そう」

 

「主任は、業務に関係ない情報だって切った」

 

ベルトーチカは少しだけ目を細めた。

 

「いい上司ね」

 

「冷たいよ」

 

「冷たい言い方が必要な時もあるわ」

 

ハルは反論できなかった。

 

たしかに、あの時は助かった。

名前が出た場を、それ以上広げないための冷たさだった。

 

「先輩の方も、悪意はなかったと思う」

 

「踏み込みはした?」

 

「した」

 

ハルは正直に答えた。

 

「でも、父さんの名前で俺を決めようとはしてなかった」

 

「なら、そこは大事ね」

 

ベルトーチカは静かに言った。

 

ハルはその言葉を、少しだけ考えた。

 

大事。

 

たしかに、そこは大事だった。

 

名前が出たことよりも、その後にどう見られるかの方が、たぶん重い。

 

「でも、空気は変わった」

 

ハルは言った。

 

「その名前が出ると、やっぱり変わる」

 

ベルトーチカは否定しなかった。

 

「そうね」

 

「母さんも、知ってた?」

 

「ええ」

 

短い返事だった。

 

「あなたがそれを感じるだろうことは、知っていたわ」

 

ハルは黙った。

 

知っていた。

その言葉が、責めるようには聞こえなかった。

 

ただ、母は母で、その重さを知っていたのだと思った。

 

「ごめんね、と言うのも違うわね」

 

ベルトーチカは少しだけ視線を落とした。

 

「あなたに何かを隠していたつもりはない。でも、全部を早くから並べることが正しいとも思わなかった」

 

「うん」

 

ハルは小さく答えた。

 

そこに怒りはなかった。

 

ただ、知らない場所で自分の名前や年齢や母の名前が、誰かの記憶とつながることがある。

その事実だけが、少し落ち着かなかった。

 

「俺、父さんの名前が嫌なわけじゃない」

 

「分かってる」

 

「でも、その名前で見られるのは、少し面倒だ」

 

「それも、分かるわ」

 

ベルトーチカはすぐに言った。

 

早すぎるくらいだった。

 

ハルは少しだけ苦笑した。

 

「母親だから?」

 

「それもある」

 

「雑じゃない?」

 

「今回は、少しだけ本当」

 

ベルトーチカはそう言って、カップを両手で包んだ。

 

「あなたがその名前を嫌っているんじゃないことも、その名前で決められたくないことも、見ていれば分かる」

 

ハルは返事をしなかった。

 

言われると、少し困る。

でも、否定はできなかった。

 

「父さんの名前が出たこと自体は、別に」

 

そこで言葉が止まった。

 

別に。

また、便利な言葉を使おうとしている。

 

ハルは少しだけ息を吐いた。

 

「いや、別に、ではないか」

 

ベルトーチカは何も言わなかった。

 

ハルは続けた。

 

「重かった。でも、そこだけじゃない」

 

ベルトーチカの視線が、少しだけ深くなる。

 

「そこだけじゃない?」

 

「うん」

 

ハルは膝の上で手を組んだ。

 

「父さんの名前が出たことより、たぶん」

 

そこで、また言葉を探した。

 

食事の席でレオンが言ったこと。

ハルの見方。

空いた欄を見ること。

処理済みの横にある、何も書かれていないところを見ること。

 

それを、名前と年齢と一緒に並べられた時の感覚。

 

まだ、うまく言葉にできない。

 

「俺の見方まで、そこに結びつけられそうになった気がして」

 

ベルトーチカは動かなかった。

 

ハルはゆっくり言った。

 

「それが、少し引っかかってる」

 

その言葉を置くと、リビングはまた静かになった。

 

父の名前が出たこと。

 

それだけなら、たぶんもう少し小さくできた。

 

けれど、見てしまうことまで、その名前で説明されるなら。

 

それは、少し違う気がした。

 

◇ ◇ ◇

 

Scene 3 見えてしまうもの

 

その言葉を最後に、ハル・イルマは少し黙った。

 

リビングは静かだった。

外の音は遠い。

伏せられた端末の画面は光っていない。

 

ベルトーチカ・イルマは、すぐには返さなかった。

 

急かされないことが、少しだけありがたかった。

急かされれば、ハルはたぶん、便利な言葉で済ませてしまう。

 

別に。

大丈夫。

気にしていない。

 

どれも、言えば会話を閉じられる言葉だった。

だが、今閉じてしまうと、自分でも何に引っかかっているのか分からなくなる。

 

「父さんの名前が出たことは」

 

ハルは、ゆっくり言った。

 

「面倒だけど、たぶん、それだけならまだよかった」

 

ベルトーチカは小さく頷く。

 

「それだけじゃなかったのね」

 

「うん」

 

ハルは膝の上で手を組んだ。

 

「先輩は、悪い意味で言ったわけじゃないと思う。主任も、そこは切ってくれた」

 

「名前の話を?」

 

「業務に関係ない情報だって」

 

言ってから、ハルは少しだけ息を吐いた。

 

あの時のマカベの声を思い出す。

冷たく、短く、迷いがない。

 

業務上、必要のない情報だ。

 

その言い方は、家の中で思い返しても冷たい。

けれど、やはり助かったと思う。

 

「その人は、ちゃんと線を引いたのね」

 

ベルトーチカが言った。

 

「うん」

 

「でも、それでも残った」

 

ハルは短く答えた。

 

父の名前が出たこと。

その名前が職場の食事の席に置かれたこと。

それだけでも十分に重い。

 

だが、今ハルの奥に残っているのは、そこだけではなかった。

 

「書類を見てるだけなんだ」

 

ハルは言った。

 

「仕事では、普通に記録を見て、処理状況を見て、照会の文面を直してるだけ」

 

「うん」

 

「でも、そこに書かれていないものが気になる時がある」

 

言葉にすると、急に曖昧に聞こえた。

 

ハルは少し眉を寄せる。

 

「変な意味じゃない。何かが見えるとか、そういう話じゃない」

 

「分かってる」

 

ベルトーチカはすぐに言った。

 

その早さに、ハルは少しだけ救われた。

 

「ただ」

 

ハルは続けた。

 

「処理済みとか、確認中とか、再整理とか。そういう言葉を見てると、そこで止まった時間みたいなものが気になる」

 

ベルトーチカは黙って聞いている。

 

「確認中って書いてあるだけなら、ただの状態なんだと思う。でも、その向こうに、待ってた人がいたかもしれない。誰かが返事を待っていたかもしれない。何かを届けようとして、そこで止まったのかもしれない」

 

そこまで言って、ハルは言葉を切った。

 

業務詳細は出していない。

具体名も出していない。

 

それでも、話しているうちに、職場の白い画面が頭の中に戻ってくる。

 

空欄。

未確認。

上席確認。

所管確認。

再整理。

 

どれも、ただの行政語だ。

ただの処理状態だ。

 

だが、そこに人の時間が挟まっているように見えることがある。

 

「それは、証拠じゃない」

 

ハルは自分に言うように続けた。

 

「分かってる。そう感じたからって、記録にはならない。だから、確認できる形に直さなきゃいけない」

 

「あなたは、そこは分かっているのね」

 

「分かってるつもり」

 

「なら、いいわ」

 

ベルトーチカの声は穏やかだった。

 

責める声でも、安心しきった声でもない。

ただ、ハルが自分で線を引こうとしていることを、見ている声だった。

 

ハルはテーブルの端を見た。

 

「でも、それを、父さんの名前で説明されると」

 

そこで、また言葉が止まった。

 

違う。

嫌だ。

そう言えば簡単だ。

 

だが、ただ嫌なわけではない。

 

「自分が見ているものじゃなくなる気がする」

 

ようやく出た言葉は、思ったより小さかった。

 

ベルトーチカは、何も言わなかった。

 

ハルは続ける。

 

「俺が気になったことなのに。俺が拾った空白なのに。あの人の子だから、そういうところに気づくんだって言われたら」

 

「あなたのものではなくなる気がする?」

 

ベルトーチカが静かに言った。

 

ハルは少しだけ頷いた。

 

「たぶん」

 

「それが、引っかかっているのね」

 

「うん」

 

リビングの空気が、少しだけ沈んだ。

 

重い沈黙ではない。

言葉を置くための間だった。

 

ベルトーチカはカップを手に取ったが、飲まなかった。

冷めていることに気づいたのか、そのまま置く。

 

「見える、というより」

 

彼女は、言葉を選ぶように言った。

 

「放っておけないのね」

 

ハルはすぐには答えられなかった。

 

放っておけない。

 

その言い方は、近いようで、少し怖かった。

 

見えてしまう、と言えば、自分の責任ではないように聞こえる。

放っておけない、と言われると、自分が選んでいることになる。

 

けれど、たぶん後者の方が近かった。

 

「……そうなのかな」

 

ハルは小さく言った。

 

「自分では、よく分からない」

 

「今、無理に答えにしなくていいわ」

 

ベルトーチカは言った。

 

「言葉にする途中なんでしょう」

 

ハルは少しだけ笑った。

 

「母さん、そういうところ、仕事みたいだね」

 

「職業病よ」

 

「俺も?」

 

「少しね」

 

ベルトーチカは少しだけ口元を緩めた。

 

その笑いで、空気がほんの少し軽くなる。

 

だが、話が軽くなったわけではない。

 

ハルは、もう一度ゆっくり息を吸った。

 

「父さんの名前が嫌なわけじゃない」

 

「うん」

 

「でも、俺が何を見て、何を気にしたのかまで、その名前に持っていかれるのは嫌だ」

 

言い切ってから、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 

やっと、近いところまで言えた気がした。

 

「それは」

 

ベルトーチカは静かに言った。

 

「嫌でいいと思うわ」

 

ハルは顔を上げた。

 

ベルトーチカは続ける。

 

「父親の名前で、あなたの見方を全部説明される必要はないもの」

 

その言葉は、答えに近かった。

 

けれど、ベルトーチカはそこで言い切りすぎなかった。

 

「ただ」

 

「ただ?」

 

「その名前が、何も関係ないとも言い切れない。血筋の話じゃなくて、見てしまう人間の近くで生まれた、という意味ではね」

 

ハルは黙った。

 

その先の話の入口が、そこにあった。

 

ベルトーチカは、まだアムロの話を始めない。

ただ、その方向を見ただけだった。

 

「父さんも、そうだったの」

 

ハルは思わず聞いた。

 

ベルトーチカはすぐには答えなかった。

 

カップの縁に触れ、少しだけ視線を落とす。

 

「その話をするなら」

 

彼女は静かに言った。

 

「英雄の話としては、しないわ」

 

ハルは何も言わなかった。

 

ベルトーチカは、もう一度ハルを見る。

 

「私が知っているのは、英雄として見られることに疲れていた、一人の人間の話だから」

 

リビングの灯りは、変わらない。

 

父の名前は、まだ重い。

 

けれど、その重さの奥に、別の輪郭が少しだけ見えかけていた。

 

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