Beyond the Axis   作:Hisa/Coco

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前話の続き


第15話 名前のあとで(後編)

Scene 4 ベルトーチカが知っていたアムロ

 

その言葉は、しばらくリビングの灯りの下に残っていた。

 

ハル・イルマは、すぐには返事をしなかった。

 

父の名前は、さっきから何度も頭の中に浮かんでは沈んでいる。

アムロ・レイ。

その名前は軽くない。

 

けれど、今のベルトーチカの言い方は、記録映像や教科書の中にある名前とは少し違って聞こえた。

 

英雄でも、象徴でもない。

ただ、一人の人間。

 

そう言われると、かえってどう受け取ればいいのか分からなかった。

 

「父さんのことを」

 

ハルは少し言葉を探した。

 

「母さんは、そういうふうに覚えてるの」

 

ベルトーチカはカップを見た。

もう冷めているはずなのに、両手で包んだままだった。

 

「全部を知っているわけじゃないわ」

 

「うん」

 

「私が知っているのは、私が見た分だけ」

 

その言い方は、思っていたより慎重だった。

 

ベルトーチカは、アムロのすべてを語ろうとしていない。

それが、ハルには少し意外で、少し安心でもあった。

 

「強い人、で片づけられる人じゃなかった」

 

ベルトーチカは静かに言った。

 

「強かったんじゃないの」

 

「強いところはあったわ」

 

「じゃあ」

 

「でも、それだけじゃない」

 

ベルトーチカの声は、少しだけ低くなった。

 

「迷うし、黙るし、言葉を間違えることもあった。ちゃんと説明しないまま、勝手に背負って、勝手に遠くへ行こうとすることもあった」

 

ハルは黙って聞いていた。

 

その言葉の中のアムロは、あまり格好よくなかった。

 

少なくとも、歴史の中で語られるような人ではなかった。

 

「目の前にあるものから目を逸らすのが、下手だったと思う」

 

ベルトーチカは続けた。

 

「見えてしまうものを、見なかったことにするのが下手だった」

 

ハルの指が、膝の上で少しだけ動いた。

 

それは、さっき自分が言ったことに近い気がした。

 

書類に書かれていないもの。

処理状況の奥にある、待っていた誰かの時間。

記録になっていないもの。

 

見えてしまう、というより、放っておけない。

 

ベルトーチカは、ハルの反応に気づいていた。

けれど、すぐに結論へは持っていかなかった。

 

「でもね」

 

彼女は言った。

 

「いつも正しかったわけじゃない」

 

ハルは顔を上げる。

 

「父さんが?」

 

「そう」

 

ベルトーチカは頷いた。

 

「見えてしまうから正しい、ということではないの。放っておけないから、必ず救えるわけでもない」

 

その言葉は、優しいだけではなかった。

 

ハルは少しだけ息を詰めた。

 

「それは」

 

「厳しい言い方に聞こえる?」

 

「少し」

 

「なら、少し厳しいのね」

 

ベルトーチカは薄く笑った。

 

「でも、大事なことよ」

 

ハルは黙った。

 

見える。

気になる。

放っておけない。

 

それだけでは、記録にならない。

それだけでは、照会は通らない。

それだけでは、誰かを救ったことにはならない。

 

職場で言われた言葉と、家の中で聞く母の言葉が、少し違う角度から同じ場所に触れている気がした。

 

「父さんも、そうだったの」

 

ハルは聞いた。

 

「見えてしまって、でも、どうにもできないことがあった?」

 

ベルトーチカはすぐには答えなかった。

 

リビングの灯りの下で、彼女は少しだけ遠いものを見るような目をした。

けれど、それは長い回想に入るための目ではなかった。

 

短い沈黙のあと、ベルトーチカは答える。

 

「あったと思う」

 

「思う?」

 

「本人が全部を話してくれたわけじゃないもの」

 

その答えは、少しだけ苦かった。

 

「でも、分かる時はあった。見えているのに言えない。言っても届かない。届いたとしても、どうにもならない。そういうものを抱えている時の顔は、覚えている」

 

ハルは、返事ができなかった。

 

父の顔を、ハルは知らない。

写真や映像では見たことがある。

記録としては知っている。

 

けれど、ベルトーチカが今言った顔は、そういうものではなかった。

 

一緒にいた人だけが知っている顔だった。

 

「名前で見られることにも、疲れていたと思う」

 

ベルトーチカは言った。

 

「アムロ・レイだから、こうするはずだ。アムロ・レイなら、見えるはずだ。分かるはずだ。背負えるはずだ」

 

ハルは、無意識に視線を落とした。

 

その言い方は、少し重かった。

 

「そういうふうに見られるのは、たぶん、疲れる」

 

「たぶん?」

 

「本人が、疲れたって素直に言う人じゃなかったから」

 

ベルトーチカは少しだけ笑った。

 

「だから、たぶん」

 

ハルはその笑いを見た。

 

そこにあるのは、懐かしさだけではなかった。

苛立ちの名残のようなものも、少しだけある。

それでも、嫌っている言葉ではなかった。

 

「母さんは、父さんを・・」

 

ハルは言いかけて、止まった。

 

聞き方が分からなかった。

 

好きだったのか。

大事だったのか。

今もどう思っているのか。

 

どれも、この場で聞くには少し違う。

 

ベルトーチカは、ハルが言い切らなかったことに気づいたようだった。

けれど、そこは拾わなかった。

 

「あなたと似ているところは、あるかもしれない」

 

ハルは少し身構えた。

 

「そう言われるのも、少し困る」

 

「そうね」

 

ベルトーチカは、あっさり認めた。

 

「困るわよね」

 

「似てるって言われると、そこに戻される気がする」

 

「父の名前に?」

 

「うん」

 

ハルは頷いた。

 

「俺が気にしたことも、俺が拾った空白も、結局そこに戻されるみたいで」

 

ベルトーチカは静かに聞いていた。

 

そして、少し間を置いてから言った。

 

「似ているところは、あるかもしれない」

 

ハルは何も言わない。

 

「でも、あなたはあの人じゃない」

 

その言葉は、否定ではなかった。

 

突き放す言葉でもなかった。

 

ただ、線を引く言葉だった。

 

「見えてしまうことと、背負わされることは違うわ」

 

ハルは、ゆっくり顔を上げた。

 

ベルトーチカは、まっすぐにハルを見ていた。

 

「見えてしまうことはある。放っておけないこともある。似ているところがあるかもしれない。でも、それを誰かの名前で背負わされる必要はない」

 

ハルはすぐには返せなかった。

 

胸の奥に残っていた名前が、少しだけ位置を変えた気がした。

 

軽くなったわけではない。

消えたわけでもない。

 

ただ、自分の上にまっすぐ乗っていた重さが、少し横へずれたような感じだった。

 

「あなたが見ているものは、あなたのものよ」

 

ベルトーチカは言った。

 

名言のようには言わなかった。

静かに、当たり前のことのように置いた。

 

「それをどう扱うかも、あなたのもの」

 

「……俺のもの」

 

ハルは小さく繰り返した。

 

言葉にしても、まだ完全には飲み込めない。

 

「でも、父さんに似ているところがあるなら」

 

「親子なんだから似てて当然よ、だけど似ているところがあることと、同じものを背負うことは違う」

 

ベルトーチカはすぐに言った。

 

「似ていることを、否定しなくてもいい。でも、それであなたが決まるわけじゃない」

 

ハルは黙った。

 

その言葉は、職場で言われた「名前ではなく事実」と少し似ていた。

 

ただ、マカベの言葉とは違う温度だった。

 

業務上の線引きではない。

母が、家の中で引いてくれた線だった。

 

「父さんは」

 

ハルは、少しだけ声を落とした。

 

「あの人は、自分が見ているものを、自分のものにできてたの」

 

ベルトーチカは、しばらく黙った。

 

それから、少しだけ首を横に振る。

 

「いつもできていたわけじゃないと思う」

 

「そうなんだ」

 

「だから人間だったのよ」

 

その答えは短かった。

 

でも、ハルには不思議と残った。

 

人間だった。

 

それは、今まで父の名前に貼りついていたものとは少し違う言葉だった。

 

ハルは息を吐いた。

 

「俺、父さんのこと、あまり知らない」

 

「そうね」

 

ベルトーチカは否定しなかった。

 

「今夜だけで知る必要もないわ」

 

「うん」

 

「必要なら、少しずつでいい」

 

「母さんが話せる範囲で?」

 

「私が話したい範囲で」

 

ハルは少しだけ笑った。

 

「そこは譲らないんだ」

 

「当然でしょう」

 

その短いやり取りで、リビングの空気が少しだけ日常に戻った。

 

父の名前は、まだある。

 

だが、それだけではなくなった。

 

アムロ・レイ。

名前で見られることに疲れていた人。

目を逸らすのが下手だった人。

強いだけではなかった人。

迷い、黙り、間違えることもあった人。

 

そして、ハルとは違う人。

 

「少し、分かった気がする」

 

ハルは言った。

 

「全部じゃないけど」

 

「全部分かったら、むしろ怖いわ」

 

「そう?」

 

「人間の話なんだから」

 

ベルトーチカはカップを持ち上げ、ようやく冷めきったことに気づいたように小さく息を吐いた。

 

「入れ直すわ」

 

「俺がやる」

 

ハルは立ち上がりかけた。

 

ベルトーチカは首を振る。

 

「今日はいい。あなたは部屋に戻って、少し休みなさい」

 

「まだ寝ないけど」

 

「分かってるわ。でも、今日はもう仕事の言葉を増やさない方がいい」

 

ハルは言い返そうとして、やめた。

 

たしかに、今日はもう十分に言葉を増やした。

 

名前の話。

見方の話。

父の話。

 

どれも軽くはない。

 

「分かった」

 

ハルは椅子から立ち上がった。

 

「母さん」

 

「なに?」

 

「ありがとう」

 

短い言葉だった。

 

それ以上うまく言えなかった。

 

ベルトーチカは少しだけ目を細める。

 

「どういたしまして」

 

ハルは鞄を持ち、リビングを出る。

 

廊下に出ると、家の中の灯りが背中に残った。

 

父の名前は、まだ胸の奥にある。

 

けれど、それはもう、ハルの見ているものを奪うための名前ではなかった。

 

少なくとも今夜は、そう思えた。

 

◇ ◇ ◇

 

Scene 5 軽い連絡

 

廊下を歩く足音が遠ざかった。

部屋の扉が開く音。

少し間を置いて、閉まる音。

 

それで、リビングは静かになった。

 

ベルトーチカはしばらく、閉じた扉の方を見ていた。

 

もうそこにハルはいない。

けれど、彼の言葉はまだ残っている。

 

(俺の見方まで、そこに結びつけられそうになった気がして。)

 

その声は、食事の席で出た名前そのものよりも、ベルトーチカには重く残っていた。

 

あの人の名前が出た。

それだけなら、いつか来る話ではあった。

 

ハルがアムロ・レイの子であることは、完全な秘密ではない。

だが、誰にでも話してきた話ではない。

 

知っている人は知っている。

知らない人は知らない。

 

その曖昧な場所に、長く置かれてきた。

 

けれど、曖昧なものは、時々、思わぬところで形を持つ。

 

名前。

年齢。

見方。

そして過去の自分・・

 

それらが誰かの中でつながった時、ハルは父の名で見られる。

 

そして、見てしまうものまで、その名で説明されそうになる。

 

ベルトーチカはカップを手に取った。

 

冷めていた。

 

さっき入れ直すと言ったまま、まだ何もしていない。

飲み物は、すっかり温度を失っていた。

 

それを見て、少しだけ苦笑する。

 

「私も、言葉ばかり増やしてるわね」

 

誰に向けた言葉でもなかった。

 

リビングの灯りは変わらない。

伏せていた端末も、テーブルの上にある。

読みかけの資料も、そのままだ。

 

いつもの夜に戻っているはずだった。

 

だが、今夜は少しだけ違う。

 

ハルが父の名前の重さに触れた。

それだけなら、母として受け止めればいい。

 

けれど、旧い名前が、今のハルの周りに届き始めている。

 

それは、家の中だけで抱えていれば済む話でもないのかもしれない。

 

ベルトーチカは、端末を起こした。

 

画面が淡く光る。

 

仕事用の資料ではなく、私用の連絡先を開く。

古い名前が並ぶ一覧の中で、少しだけ指が止まった。

 

ブライト・ノア。

 

その名前を見ただけで、少しだけ昔の空気が戻る。

 

艦の照明。

通信の声。

言えなかったこと。

言わずに残ったこと。

 

そういうものが、一瞬だけ胸の奥をよぎった。

 

ベルトーチカは、すぐにそれを追わなかった。

 

今夜は昔話をするために連絡するのではない。

 

ハルのために、答えを探すわけでもない。

資料を求めるわけでもない。

道を作ってもらうわけでもない。

 

ただ、必要になるかもしれない場所へ、細い橋を架けておくだけだ。

 

ベルトーチカは新規メッセージ欄を開いた。

 

最初の一文を打つ。

 

『久しぶりね』

 

そこで一度、手を止めた。

 

短すぎる。

けれど、長くする必要はない。

 

続けて打つ。

 

『ハルのことで、少し話したいことがあるの』

 

そこまで打って、また止まる。

 

ハルのことで。

 

その言葉は便利だった。

便利すぎるとも思う。

 

だが、今ここで父の名前を出す必要はない。

食事の席でその名前が出たことも、ハルが何を感じたかも、メッセージで並べる話ではなかった。

 

ベルトーチカは、さらに短く続けた。

 

『急ぎではないわ。でも、近いうちに話せる?』

 

全文を読み返す。

 

――――――――――――――――――――――

久しぶりね。

ハルのことで、少し話したいことがあるの。

急ぎではないわ。

でも、近いうちに話せる?

――――――――――――――――――――――

 

それだけだった。

 

軽すぎるかもしれない。

重すぎるよりはいい。

 

ベルトーチカは送信ボタンの上で一度指を止めた。

 

急ぐ話ではない。

 

そう思う。

 

だが、放っておく話でもない。

 

ハルは、自分が見ているものを自分のものとして持とうとしている。

それを、父の名前で奪われたくないと思っている。

 

なら、その名前の重さを知っている人間が、どこかにいてもいい。

 

ただし、前に出すためではない。

答えを渡すためでもない。

 

必要になった時に、話を聞ける場所として。

 

ベルトーチカは、送信を押した。

 

小さな送信表示が、画面の端に灯る。

 

それだけだった。

 

警告音もない。

特別な回線でもない。

秘密めいた表示もない。

 

ただの私用端末から送った、短い連絡だった。

 

ベルトーチカは端末を伏せなかった。

そのままテーブルに置いた。

 

返事は、まだ来ない。

 

それでよかった。

 

今夜は、返事を待つ夜ではない。

 

ハルは自分の部屋に戻った。

父の名前は、家の中で一度受け止めた。

その名前をどう扱うかは、まだ決まっていない。

 

ベルトーチカにも、答えがあるわけではない。

 

ただ、細い橋を一本、架けておいただけだった。

 

リビングは、また静かになった。

 

冷めたカップを見下ろして、ベルトーチカはようやく立ち上がる。

 

今度こそ、飲み物を入れ直すために。

 

夜はまだ終わっていない。

だが、今夜話すべきことは、これ以上なかった

 




次話へ続きます。
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