Beyond the Axis   作:Hisa/Coco

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続きです。


第16話 訪ねてくる人(前編)

Scene 1 翌日の職場

 

翌朝のFABフロアは、いつも通りだった。

 

端末の起動音。

短い業務連絡。

認証ゲートを抜ける職員の足音。

共有端末の前で、誰かが前日の処理結果を確認している声。

 

昨日の夜に聞いた言葉は、そこにはない。

 

父の名前も、

家の灯りの下で聞いた母の声も、

この白い照明の下では、遠くなる。

 

ハル・イルマは自席に着き、鞄を足元に置いた。

 

仕事用端末を立ち上げる。

 

――――――――――――――

認証。

未処理一覧。

通常案件の通知。

――――――――――――――

 

いつもの画面だった。

 

何かが変わったわけではない。

 

それでも、昨日とまったく同じでもなかった。

 

ハルは一度だけ息を吐き、今日の通常案件を開こうとした。

 

「お、生きて帰ってきた」

 

斜め後ろから、ソウマの声がした。

 

ハルは振り返る。

 

ソウマ・ナギは端末の認証待ちをしながら、こちらを見ていた。

朝から妙に楽しそうだった。

 

「何の話だ」

 

「昨日の飯だよ。レオン先輩とマカベ主任付きだったんだろ」

 

「付きって言い方はやめろ」

 

「いや、だって普通の飯じゃないだろ」

 

ソウマは椅子に半分だけ腰を下ろしながら続けた。

 

「マカベ主任と飯って、味した?」

 

ハルは少し考えた。

 

「した」

 

「即答じゃないのが怖いんだけど」

 

「いや、普通にうまかった」

 

「普通に?」

 

ソウマは疑わしそうに目を細める。

 

「マカベ主任がいて、普通に飯がうまい空気になるのか」

 

「店がよかった」

 

「主任じゃなくて店の力か」

 

「主任も、食事の邪魔はしなかった」

 

「その言い方、逆に何があったのか気になるな」

 

ハルは答えなかった。

 

言えば、どこかに触れる。

触れれば、ここで続けることになる。

 

昨日の食事会で何があったかを、ここで話すつもりはなかった。

 

父の名前のことも。

母と話したことも。

 

ここは職場で、隣にはソウマがいて、少し離れた席にはリアがいる。

 

それでいい。

 

リア・セレスは、自席で書類を開きながら、二人の会話を聞いていた。

声を挟まないまま、ハルの方を見る。

 

「顔」

 

ハルは眉を寄せた。

 

「また顔か」

 

「昨日よりは戻ってる」

 

リアは淡々と言った。

 

ソウマが振り向く。

 

「昨日の顔、そんなにひどかったのか?」

 

「昨日の終業前は特に」

 

「へえ」

 

「今は、少し違う」

 

ハルは端末画面へ目を戻しかけて、やめた。

 

「寝不足に見える?」

 

「寝不足とは違う」

 

リアは少し間を置いた。

 

「何かを持って帰って、少し置いてきた感じ」

 

ソウマが首をかしげる。

 

「詩的だな」

 

「観察」

 

「いや、観察でもだいぶ詩的だぞ」

 

ハルは返事に困った。

 

リアはそれ以上踏み込まなかった。

 

「聞かれたくないなら聞かない」

 

「助かる」

 

「なら、いつも通りでいい」

 

そう言って、リアは自分の端末へ視線を戻した。

 

いつも通り。

 

その言葉は、思っていたよりありがたかった。

 

いつも通りにしていい。

何があったのかを説明しなくてもいい。

昨日の食事会で出た名前を、ここへ持ち込まなくていい。

 

ハルは小さく頷いた。

 

「昨日は、説教コースじゃなかったのか?」

 

ソウマはまだ少し食い下がる。

 

「説教ではなかった」

 

「じゃあ何」

 

「食事」

 

「それは知ってる」

 

「なら、それでいいだろ」

 

「よくない。こっちはマカベ主任と飯っていう未知の状況を知りたいんだよ」

 

「普通の店だった」

 

「普通じゃない相手と行って、普通に終わるのか?」

 

「なることもある」

 

ソウマはしばらくハルを見てから、肩をすくめた。

 

「まあ、生きて帰ってきたならいいか」

 

「だから何の生還確認だ」

 

「職場の先輩後輩としての気遣い」

 

「雑だな」

 

「雑でいいんだよ、朝は」

 

その軽さで、少しだけフロアの音が戻ってきた。

 

ハルは通常案件のファイルを開いた。

 

――――――――――――――――

受付処理。

予算区分。

報告書の添付確認。

形式不備の有無。

――――――――――――――――

 

画面の中の言葉は、いつも通り硬い。

だが、昨日の夜ほど遠くはなかった。

 

少しずつ、仕事へ戻っていく。

 

それでいい。

 

午前の業務が始まってしばらくして、レオン・クラークがフロアの通路を通った。

 

片手に端末、もう片方の手には紙の書類を数枚持っている。

相変わらず、軽い足取りに見えて、無駄な動きは少ない。

 

ハルは少しだけ席を立った。

 

「レオン先輩」

 

「おう」

 

レオンは足を止める。

 

「昨日はありがとうございました」

 

短く言った。

 

それ以上は言わなかった。

 

食事のこと。

父の名前が出たこと。

踏み込みすぎたこと。

その後で、名前だけで片づけないと言ってくれたこと。

 

どれも、ここで言葉にするものではない。

 

レオンも、それを分かっているようだった。

 

「飯くらいで礼を言うな」

 

いつもの軽さで返す。

 

それから、ハルの様子を少し見た。

 

「昨日よりはマシだな」

 

「それ、褒めてますか」

 

「観察結果」

 

「リアと同じことを言いますね」

 

「優秀な観察者が二人いるってことだ」

 

「やりにくいです」

 

レオンは笑った。

 

「仕事に戻れ。昨日の分まで、とは言わない」

 

「はい」

 

「あと、昼までに通常案件二件は片づけとけ」

 

「それは普通に言うんですね」

 

「普通に仕事だからな」

 

レオンは書類を持ち直し、そのまま通路を進んでいった。

 

軽い。

 

だが、軽いだけではない。

 

昨日の話を蒸し返さない。

けれど、なかったことにもしない。

 

そういう距離の取り方だった。

 

ハルは席に戻る前に、少し離れた主任席へ視線を向けた。

 

コウイチ・マカベは、端末を見たまま、隣の職員に短く指示を出していた。

声はいつも通り低い。

言葉は短い。

 

ハルはタイミングを待ち、指示が切れたところで歩み寄った。

 

「マカベ主任」

 

マカベは画面から目を離さない。

 

「何だ」

 

「昨日は、ありがとうございました」

 

マカベは一拍置いてから、ようやく視線を上げた。

 

「礼は不要だ」

 

予想通りの返答だった。

 

「食事に対して、です」

 

「それでも不要だ」

 

「……分かりました」

 

「昨日の話を職場で広げるな」

 

「分かっています」

 

「なら、通常業務に戻れ」

 

「はい」

 

マカベは再び端末へ視線を戻しかけて、短く付け足した。

 

「回答待ちの件は、手順を崩すな」

 

ハルは少しだけ背筋を伸ばした。

 

「了解しました」

 

それ以上は何もなかった。

 

名前の話も。

食事の席の空気も。

 

マカベはそこへ戻さない。

 

冷たくて、短い。

 

けれど、その短さがハルにはありがたかった。

 

業務上不要な情報は、ここには持ち込まない。

持ち込まないまま、必要な手順だけを残す。

 

ハルは自席に戻った。

 

通常案件のファイルを開き直す。

処理欄を確認し、添付書類を照合する。

 

午前の時間は、ゆっくりと進んだ。

 

ソウマは途中で一度、隣の席から小声で言った。

 

「結局、何食ったんだよ」

 

「煮込みと出汁巻き」

 

「そこだけ急に普通だな」

 

「普通の飯だったから」

 

「主任は何食ってた?」

 

「同じもの」

 

ソウマは少し想像したらしく、妙な間を置いた。

 

「マカベ主任が出汁巻き」

 

「食べてた」

 

「なんか、安心した」

 

「何に」

 

「人間なんだなって」

 

ハルは思わず少し笑った。

 

「本人の前で言うなよ」

 

「言わない。命は惜しい」

 

リアが横から短く言った。

 

「命までは取られない」

 

「評価は下がる?」

 

「下がる」

 

「それは困るな」

 

その会話に、ハルはもう一度小さく笑った。

 

職場は、いつも通りだった。

 

昨日の食事会で出た名前は、ここでは出ない。

出さない。

それでいい。

 

午前の通常案件を二件終え、短い休憩に入ったところで、私用端末が小さく震えた。

 

業務中に開くものではないが、今は短い休憩に入っている。

 

ハルは一度、周囲を確認した。

緊急の通知ではない。

だが、送信者名を見た瞬間、指が止まった。

 

ベルトーチカ。

 

短いメッセージだった。

 

――――――――――――――――――――――

『今度の休み、昼は空けておいて』

――――――――――――――――――――――

 

ハルは眉を寄せた。

 

今度の休み。

 

昨日の夜の会話が、すぐに頭の奥でつながった。

 

ハルは短く返した。

 

――――――――――――――――

『何かあるの?』

――――――――――――――――

 

少し間があった。

 

画面の上で、返信中の表示が一瞬だけ出て、消える。

 

次の文が届いた。

 

 

――――――――――――――――――――――

『昨日話した件で、少し人が来る』

――――――――――――――――――――――

 

昨日話した件。

 

その言葉だけで、ハルは背筋を正した。

 

父の名前。

母が知っていた父の話。

見えてしまうことと、背負わされることは違う、という言葉。

 

職場の白い照明の下で、それらが一瞬だけ家の灯りの色を取り戻す。

 

ハルは少し迷ってから、尋ねた。

 

―――――――――――

『誰?』

―――――――――――

 

返事は短かった。

 

―――――――――――――――――

『ブライトさん』

―――――――――――――――――

 

ハルは、その表示をしばらく見ていた。

 

驚きではない。

 

ブライト・ノアという名前を知らないわけではない。

完全な初対面でもない。

子どもの頃に何度か会った記憶はある。

母の古い知人として、顔も存在も知っている。

 

だが、親しいわけではない。

 

そして、その名前が今この流れで出てくる意味は、軽くはなかった。

 

ハルは画面を閉じた。

 

ソウマが横からちらりと見た。

 

「私用?」

 

「うん」

 

「何かあった?」

 

ハルは一瞬だけ考えた。

 

「今度の休みの予定」

 

「へえ。珍しいな、お前の予定」

 

「失礼だな」

 

「事実だろ」

 

リアが端末から目を離さずに言う。

 

「予定は予定。勤務中は業務」

 

「はい」

 

ハルは私用端末を伏せた。

 

通常業務の画面へ戻る。

 

次の休みが、ただの休みではなくなったことは分かった。

 

だが、今はまだ職場の朝だった。

 

目の前には、処理すべき通常案件がある。

 

ハルはカーソルを戻し、確認欄へ視線を落とした。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

Scene 2 休日の昼前

 

その連絡から数日後の休日、イルマ家のリビングには昼前の光が入っていた。

 

職場の白い照明とは違う。

夜の家の灯りとも違う。

 

窓から落ちる光は柔らかく、テーブルの上に並んだ来客用のカップを淡く照らしている。

 

ベルトーチカ・イルマは、いつもより少しだけテーブルの上を片づけていた。

 

余計なものを端に寄せる。

カップを並べる。

小皿を出す。

キッチンの方で湯を沸かす。

 

動きに迷いはない。

 

来客がある家の、普通の準備だった。

 

普通の準備。

 

そう見えるからこそ、ハル・イルマは少し落ち着かなかった。

 

「そんなに見なくても、カップは逃げないわよ」

 

ベルトーチカが言った。

 

ハルはテーブルの脇に立ったまま、視線を上げる。

 

「見てた?」

 

「見てたわね」

 

「別に、カップを見てたわけじゃ」

 

「じゃあ何を見てたの」

 

ハルは返事に詰まった。

 

カップを見ていたわけではない。

テーブルを見ていたわけでもない。

 

たぶん、これから来る人の気配を、まだ来ていないうちから見ていた。

 

「本当に来るんだね」

 

ハルが言うと、ベルトーチカは小皿を置きながら答えた。

 

「来るわよ。約束したもの」

 

「ブライトさんが、家に」

 

「そう」

 

「……家に来る感じの人だったっけ」

 

ベルトーチカは目を細めた。

 

「来る時は来るわ」

 

「それ、説明になってる?」

 

「休日の来客に、そんなに説明はいらないでしょう」

 

「相手によると思う」

 

「そうね」

 

ベルトーチカは、あっさり認めた。

 

そのあっさりした返事で、かえってハルは少し困る。

 

ブライト・ノア。

 

名前は知っている。

顔も知っている。

完全な初対面ではない。

 

子どもの頃に何度か会った記憶がある。

母の古い知人として、少し離れた場所にいた人。

大人同士の会話の中にいて、ハルは挨拶をして、少しだけ話して、それで終わるような距離だった。

 

親しいわけではない。

 

だからこそ、今こうして休日の昼前に家へ来るということが、うまく位置づけられなかった。

 

「俺、何を話せばいいの」

 

ハルは聞いた。

 

ベルトーチカは来客用のカップを二つ並べ、少し迷って三つ目を置いた。

 

「全部話す必要はないわ」

 

「でも、母さんが呼んだんだろ」

 

「呼んだというより、来てもらうことにしただけ」

 

「同じじゃない?」

 

「少し違うわね」

 

「分からない」

 

「でしょうね」

 

ベルトーチカは淡々と答えた。

 

ハルは軽く息を吐く。

 

「母さんは普通にしてるけど」

 

「普通にしてるわよ」

 

「俺だけ変に身構えてるみたいじゃないか」

 

「身構えてるもの」

 

否定しなかった。

 

ハルは黙る。

 

ベルトーチカは、そこで少しだけ声を柔らかくした。

 

「そんなに身構えなくていいわ」

 

「無理がある」

 

「そう?」

 

「ある。ブライトさんだよ」

 

「ええ」

 

「母さんの古い知り合いで、父さんのことも知ってて、俺のことも昔から少しは知ってる人で」

 

「うん」

 

「その人が、この前話した件で来る」

 

「そうね」

 

「普通の休日の来客じゃないと思う」

 

ベルトーチカは小さく笑った。

 

「たしかに、完全に普通ではないわね」

 

「そこは認めるんだ」

 

「認めるところは認めるわ」

 

ベルトーチカはカップの向きを整えた。

 

「でも、ブライトさんは答えを持ってくる人じゃない」

 

ハルはその言葉に、顔を上げた。

 

「答え?」

 

「あなたが何を聞けばいいのか、何をすればいいのか、そういうものを教えに来るわけじゃない」

 

「じゃあ、何のために」

 

「会って話すため」

 

「それだけ?」

 

「それだけ」

 

ベルトーチカは短く言った。

 

「あなたが全部を説明しきる必要もない。ブライトさんが全部を話す必要もない。ただ、会って話す。それでいいの」

 

ハルには、それが分かるようで分からなかった。

 

会って話すだけ。

 

それだけで何かが変わるのか。

変わらないのか。

 

そもそも、変えるために呼んだのではないのか。

 

「母さん」

 

「なに?」

 

「俺、答えを期待してるように見える?」

 

ベルトーチカはハルを見た。

 

少し考えるように、手を止める。

 

「期待しているというより、何かを渡されるんじゃないかと身構えているようには見えるわ」

 

「何かって」

 

「父親のこと。昔のこと。あなたがこれから見るものについて」

 

ハルは視線を落とした。

 

当たっている気がした。

 

答えを欲しいとは思っていない。

それでも、何かを聞かされるのではないかとは思っている。

 

重いもの。

古いもの。

自分の今に、勝手につながってくるもの。

 

「ブライトさんは、あなたをアムロの代わりとして見に来るわけじゃない」

 

ベルトーチカの声は、静かだった。

 

ハルはすぐには返せなかった。

 

その言葉は、思っていたより近いところに落ちた。

 

「そう見える?」

 

「少し」

 

「……そうか」

 

「でも、それはあなたが悪いわけじゃない」

 

ベルトーチカは言った。

 

「父の名前が出たあとなら、そう思って当然よ」

 

ハルは椅子を引いた。

座るつもりはなかったのに、気づけば腰を下ろしていた。

 

テーブルの上には、三つのカップがある。

 

その数が、妙に現実味を持っていた。

 

「俺、ブライトさんと何を話したことあったかな」

 

ハルは呟いた。

 

「子どもの頃?」

 

「うん」

 

「挨拶と、少しだけでしょうね」

 

「だよね」

 

「あなたはたぶん、きちんとしすぎていたわ」

 

「子どもの頃から?」

 

「ええ。誰に似たのかしらね」

 

ベルトーチカはそう言って、小さく笑った。

 

ハルは返しに困る。

 

父に似たのか。

母に似たのか。

 

そこへ戻すには、まだ少し早い気がした。

 

「ブライトさんは、俺のことをどう見てるんだろう」

 

ハルは言った。

 

「ハル・イルマとして」

 

ベルトーチカはすぐに答えた。

 

早かった。

 

「そんなに断言できる?」

 

「少なくとも、そう見ようとする人よ」

 

「それは、母さんが信じてるから?」

 

「信じているというより、知っているから」

 

ベルトーチカは湯の音を聞いて、キッチンの方へ一度目を向けた。

 

「ブライトさんは、古い名前の重さを知っている。だから、その名前で人を雑に扱う怖さも知っている」

 

ハルは黙った。

 

古い名前の重さ。

 

父の名前。

母の名前。

そして、今日来る人の名前。

 

どれも、ハル一人のものではない。

けれど、今はハルの周りに集まっている。

 

「ただし」

 

ベルトーチカは戻ってきて、ティーポットを用意しながら言った。

 

「ブライトさんは優しいだけの人でもないわ」

 

「それは分かる気がする」

 

「甘いことは言わないと思う」

 

「それも分かる」

 

「あなたが聞きたいことを、きれいに言葉にして返してくれるわけでもない」

 

「……それは少し困る」

 

「困るくらいでいいのよ」

 

ベルトーチカは、来客用の皿に軽い菓子を移した。

 

「今日は、答えをもらう日じゃない」

 

「じゃあ、何の日」

 

ハルが聞くと、ベルトーチカは少しだけ考えた。

 

「昔を知っている人が、今のあなたを少し見る日」

 

「それ、余計に身構えるんだけど」

 

「そう?」

 

「そう」

 

「でも、責めに来るわけじゃないわ」

 

「それも分かってる」

 

「なら、座っていればいいの」

 

「もう座ってる」

 

「じゃあ、そのままでいい」

 

ハルは小さく息を吐いた。

 

ベルトーチカの言い方は、いつも少し雑だ。

けれど、雑に見えて、外してはいない。

 

全部話す必要はない。

答えを期待しなくていい。

父の代わりとして見られるわけではない。

 

それでも、身構えが消えるわけではなかった。

 

ただ、少しだけ形は変わった。

 

知らない大物を待つ緊張ではない。

親しい知人を迎える気楽さでもない。

 

昔を知る人を、今の自分の家で待つ。

そういう、少し説明しにくい緊張だった。

 

「母さん」

 

「なに?」

 

「ブライトさんには、どこまで話してるの」

 

ベルトーチカは湯を注ぐ手を止めなかった。

 

「ハルが、名前のことで少し引っかかっている。そう伝えただけよ」

 

「この前のことは?」

 

「詳しいことは話していないわ」

 

「それだけ?」

 

「それだけ」

 

ハルは目を伏せた。

 

それは助かった。

同時に、これから自分で話す部分が残っているということでもある。

 

「俺が話すのか」

 

「話したいことだけでいいわ」

 

「話したくないことは?」

 

「話さなくていい」

 

「それでいいの」

 

「いいわよ。ここは職場じゃないもの」

 

その一言で、ハルは肩の力を抜いた。

 

職場ではない。

 

書面にしなくていい。

確認項目に分けなくていい。

結論を急がなくていい。

 

それでも、言葉にしなければ伝わらないことはある。

 

「難しいな」

 

ハルが言うと、ベルトーチカは笑わなかった。

 

「ええ」

 

短く、認めた。

 

その時だった。

 

玄関の呼び出し音が鳴った。

 

軽い電子音が一度だけ、リビングに届く。

 

ハルは反射的に背筋を伸ばした。

 

ベルトーチカは慌てなかった。

ポットを置き、手元を整える。

 

「来たみたいね」

 

「……うん」

 

「深呼吸くらいはしておきなさい」

 

「そんなに分かりやすい?」

 

「分かりやすいわよ」

 

ベルトーチカはそう言って、玄関へ向かった。

 

ハルは一度だけ息を吸った。

 

テーブルの上には、三つのカップが並んでいる。

 

休日の昼前。

家の中。

まだ開いていない玄関の向こう。

 

ブライトさんが来る。

 

その事実だけが、静かにリビングの空気を変えていた。

 

◇ ◇ ◇

 

Scene 3 ブライトさん訪問

 

玄関の呼び出し音が、もう一度鳴る前に、ベルトーチカ・イルマはリビングを出た。

 

慌てた足取りではない。

来ると分かっていた人を迎えに行く、いつもの歩幅だった。

 

ハル・イルマは、すぐには立ち上がらなかった。

 

テーブルの上には、三つのカップが並んでいる。

まだ中身は入っていない。

来客用の小皿も、茶葉を入れたポットも、整えられたまま待っている。

 

普通の休日の昼前。

 

そう思おうとした。

 

だが、玄関の向こうにいる名前を考えると、どうしても普通の来客とは言い切れなかった。

 

ブライト・ノア。

 

母の古い知人。

父の時代を知る人。

 

それだけなら、家の中に置ける名前だった。

 

だが、ブライト・ノアの名前は、ハルにとって家の中だけのものではなかった。

 

公的な記録にも、連邦軍史にも、何度も残っている名前だった。

監査局の研修で扱う過去の文書や年表の中でも、その名前を目にすることがある。

 

昔話の中だけの人ではない。

今も健在で、外側の世界に輪郭を持っている人。

 

その人が、休日の自宅の玄関に立っている。

 

そのことが、少し落ち着かなかった。

 

「ハル」

 

玄関の方から、ベルトーチカの声がした。

 

「来て」

 

ハルは一度だけ息を吸い、椅子から立ち上がった。

 

廊下へ出る。

家の空気はいつも通りなのに、玄関の方だけ少し違う密度を持っているように感じた。

 

ベルトーチカは扉の前に立ち、ロックを解除する。

 

扉が開いた。

 

昼前の光が、外から細く入ってくる。

 

その向こうに、ブライト・ノアが立っていた。

 

軍服ではない。

休日の来客として、落ち着いた服装をしている。

 

それでも、姿勢にはどこか軍人らしさが残っている。

背筋が自然に伸びていて、無駄な動きが少ない。

 

威圧するための立ち方ではない。

ただ、長くそうしてきた人の癖が、まだ身体に残っているようだった。

 

「ブライトさん、久しぶり」

 

ベルトーチカの声は、思っていたより普通だった。

 

親しげすぎるわけではない。

事務的でもない。

 

長い間、必要な時だけ言葉を交わしてきた相手に向ける声だった。

 

ブライトは目を細めた。

 

「久しぶりだな、ベルトーチカ」

 

それから、玄関の内側へ視線を向ける。

 

「急ぎではない、と言われた時点で、気にはなった」

 

「急ぎではないわ」

 

ベルトーチカは答えた。

 

「でも、軽い話でもない」

 

「相変わらず、分かりやすいようで分かりにくいな」

 

「分かりにくく言ったつもりはないんだけど」

 

「昔からそう言う」

 

二人の間に、短い沈黙が落ちた。

 

気まずい沈黙ではなかった。

言葉を多くしなくても、互いに足りるものがある沈黙だった。

 

ハルは、その距離感を少し離れたところで見ていた。

 

母がブライトさんと話している。

ただそれだけのことなのに、そこには、ハルの知らない時間があった。

 

ベルトーチカは身体を少し引いて、玄関の内側へ促した。

 

「入って。外で話すことでもないでしょう」

 

「邪魔する」

 

ブライトは短く言い、家の中へ入った。

 

その時、視線がハルに向いた。

 

ハルは反射的に背筋を伸ばした。

 

「ご無沙汰しています、ブライトさん」

 

そう言って、頭を下げる。

 

自分でも少し硬い声だと思った。

 

ブライトは、そんなハルをしばらく見た。

 

値踏みするような目ではない。

懐かしさだけの目でもない。

 

今ここにいるハルを、まず確認するような目だった。

 

「ハル君、久しぶりだな」

 

低く、穏やかな声だった。

 

「はい」

 

「大きくなった、という言い方は失礼か」

 

ハルは少し返事に迷った。

 

「……たぶん、少し」

 

ベルトーチカが横で小さく笑った。

 

ブライトも、わずかに表情を緩める。

 

「そうだな。もう子どもではない」

 

その言葉に、ハルは肩の力を抜いた。

 

子どもの頃に会ったことがある。

だが、今はその時のまま扱われているわけではない。

 

それはありがたかった。

 

「仕事をしていると聞いている」

 

ブライトが言った。

 

「はい。監査局で」

 

「そうか」

 

そこで、ブライトは少し間を置いた。

 

「固くならなくていい。今日は、君を詰問しに来たわけではない」

 

ハルはすぐに答えられなかった。

 

分かっている。

分かっているはずだった。

 

それでも、言葉として聞くと、胸の奥がほどける。

 

「……分かっています」

 

「分かっている顔には見えなかったが」

 

「すみません」

 

「謝る必要はない」

 

ブライトは淡々と言った。

 

責めている声ではなかった。

 

ハルは少しだけ視線を落とし、それから言った。

 

「ブライトさんは、家で会う人というより、記録で見る名前の印象が強かったので」

 

言ってから、少し失礼だったかもしれないと思った。

 

だが、ブライトは怒らなかった。

 

むしろ、苦いような笑みを浮かべた。

 

「それは、あまり楽しい印象ではなさそうだな」

 

「楽しい、とは少し違います」

 

「だろうな」

 

ブライトは、玄関の床に視線を落とし、靴を揃えた。

 

「記録の中の名前は、たいてい扱いにくい」

 

その言い方は、軽く聞こえた。

けれど、軽いだけではなかった。

 

ハルは思わず顔を上げる。

 

ブライトは続けない。

 

それ以上、歴史の話にも、自分の話にも広げなかった。

 

ベルトーチカが間に入るように言った。

 

「中で話しましょう、ブライトさん」

 

「そうだな」

 

ブライトは頷いた。

 

「今日は、話を聞きに来ただけだ」

 

ブライトはハルの方を見た。

 

「はい」

 

ハルは短く答えた。

 

ブライトはそれ以上、何も言わなかった。

 

ベルトーチカがリビングの方へ歩き出す。

 

「お茶、入れるわ」

 

「すまない」

 

「来客用の準備くらいはしてあるわよ」

 

「それを聞くと、少し安心する」

 

「どういう意味?」

 

「君が本当に急ぎなら、準備などしないだろう」

 

ベルトーチカは少しだけ振り返った。

 

「そういうところは、昔から変わらないのね」

 

「お互い様だ」

 

そのやり取りに、親密すぎる甘さはなかった。

 

けれど、余計な説明のいらない旧知の距離があった。

 

ハルは二人の後に続いた。

 

リビングへ戻ると、三つのカップがそのまま並んでいる。

さっきまでただの来客準備だったものが、今は少しだけ意味を持って見えた。

 

ブライトはテーブルの前で一度立ち止まる。

 

家の中を見回すわけではない。

ただ、その場の空気を確かめているようだった。

 

それから、席の位置に視線を落とした。

 

ベルトーチカがポットを手に取り、静かに言った。

 

「座って、ブライトさん」

 

ブライトは頷く。

 

「では、失礼する」

 

ハルも、少し遅れて椅子に手をかけた。

 

休日の昼前。

イルマ家のリビング。

三つのカップ。

 

そこに、記録の中で何度も見た名前の人が座ろうとしている。

 

それでも、その人は今、答えを持ってきた上官ではなく、

ベルトーチカに呼ばれて話を聞きに来た、古い知人だった。

 

ハルはそのことを、まだ完全には飲み込めないまま、席についた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

Scene 4 茶の席

 

ブライト・ノアが席につくと、リビングの空気が少しだけ変わった。

 

重くなった、というほどではない。

けれど、ただの来客の席になったわけでもなかった。

 

テーブルの向こうには、休日の来客としてのブライトがいた。

 

母の古い知人。

そして、記録の中で何度も見てきた名前。

 

その両方が、ひとつの席に収まっている。

 

 

ベルトーチカ・イルマは、ポットに湯を注いでいる。

茶葉の香りが、ゆっくりとリビングに広がった。

 

「お茶でいいかしら、ブライトさん」

 

「構わない」

 

ブライトは短く答えた。

 

ベルトーチカは三つのカップに茶を注ぎ、まずブライトの前に置いた。

 

「どうぞ」

 

「すまない」

 

「ハル」

 

「うん」

 

ハルの前にもカップが置かれる。

 

湯気が上がっていた。

 

それだけで、少しだけ息がしやすくなる。

会議室の机ではない。

監査局の端末もない。

目の前にあるのは、ただの茶だった。

 

それでも、向かいにいる人の重さは消えない。

 

ハルはカップに手を伸ばしかけて、やめた。

 

「すみません、休日に」

 

口から出たのは、少し硬い言葉だった。

 

ブライトはカップを手に取る前に、ハルを見る。

 

「謝るのは私の方だろう」

 

「いえ、来ていただいた側なので」

 

「そういうところは、きちんとしているな」

 

ハルは返事に迷った。

 

褒められたようにも聞こえる。

ただの確認にも聞こえる。

 

ベルトーチカが横から言った。

 

「固くならなくていいわ」

 

「そう言われても」

 

「言われても無理なのは分かってるわ」

 

「なら言わなくても」

 

「言うだけ言っておくのよ」

 

ブライトが茶に視線を落とし、低く言った。

 

「ベルトーチカは、昔からそういうところがある」

 

「ブライトさんも、昔からそういう言い方をするわ」

 

二人の言葉は短い。

だが、そこに角はなかった。

 

ハルはカップを持った。

 

熱い。

指先に伝わる熱で、ようやく自分が少し力を入れすぎていたことに気づく。

 

「何を話せばいいのか、少し分からなくて」

 

ハルは言った。

 

言ってから、視線を落とす。

 

「母から、来るとは聞いていました。でも、答えを聞くつもりで待っていたわけではありません」

 

「それでいい」

 

ブライトはすぐに言った。

 

早すぎるくらいだった。

 

「今日は、答えを持ってきたわけではない」

 

玄関で聞いた言葉に近い。

だが、茶の席で聞くと少し違って響いた。

 

玄関で緊張を外すための言葉ではなく、

今この場の前提を置くための言葉だった。

 

「君の仕事を、私が代わることもできない」

 

ブライトは続けた。

 

「君が見ているものを、私が代わりに記録することもできない」

 

ハルは黙って聞いていた。

 

その言葉は、突き放しているようにも聞こえる。

けれど、不思議と冷たくはなかった。

 

「ただ、話を聞くことはできる」

 

ブライトはカップを置いた。

 

「それ以上でも、それ以下でもない」

 

ベルトーチカは、ハルの前に小皿を置く。

 

「だから、まず座って話しなさい」

 

「座ってる」

 

「固まっているだけでしょう」

 

ハルは返事に困った。

 

ブライトが小さく息を吐く。

 

笑った、というほどではない。

ただ、場の角が少しだけ取れたような息だった。

 

「構えすぎると、聞ける話も聞けなくなる」

 

ハルは顔を上げた。

 

「すみません」

 

「謝る必要はない。構える理由はある」

 

その言葉に、ハルは少しだけ動きを止めた。

 

ブライトは続ける。

 

「私の名前は、君にとって扱いやすいものではないだろう」

 

ハルはすぐには答えられなかった。

 

正直に言えば、その通りだった。

 

母の旧知。

父の時代を知る人。

記録に残る人。

今も健在で、目の前に座っている人。

 

どれかひとつなら、もう少し受け止めやすかったかもしれない。

 

「……はい」

 

ハルは短く答えた。

 

「記録で見る名前の人が、家にいるのは、少し落ち着きません」

 

ブライトは頷いた。

 

「それでいい」

 

「いいんですか」

 

「落ち着かないものを、落ち着いているふりで扱う方が危うい」

 

その言い方は、思っていたより実務的だった。

 

説教ではない。

励ましでもない。

ただ、状態をそのまま認める言葉だった。

 

ベルトーチカは、茶の湯気を見ながら言った。

 

「ブライトさんは、話を聞きに来てくれただけよ」

 

「ええ」

 

ハルは答えた。

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「……分かろうとはしています」

 

「それならいいわ」

 

ベルトーチカはそれ以上、言わなかった。

 

ブライトは少しだけ視線を伏せ、カップの縁に触れた。

 

「ベルトーチカから、詳しいことは聞いていない」

 

ハルは顔を上げる。

 

「はい」

 

「聞いていたとしても、ここで私が決めつけて話すことではない」

 

ブライトの声は低く、平らだった。

 

「君が何を話すかは、君が決めればいい。話さないことも、君が決めていい」

 

それは、玄関で聞いた「話を聞きに来ただけだ」という言葉の続きだった。

テーブル越しに改めて置かれると、初めて現実味を持った。

 

ここは職場ではない。

照会文でもない。

確認項目に分けて提出する場でもない。

 

話すことも、話さないことも、自分で決めていい。

 

それは簡単なようで、思ったより難しいことだった。

 

「全部話す必要はないわ」

 

ベルトーチカが言った。

 

「でも、何も話さないために呼んだわけでもない」

 

「母さん」

 

「分かってる。急かしてはいないわ」

 

「急かしてるように聞こえる」

 

「少しだけね」

 

ブライトは、二人のやり取りを黙って聞いていた。

 

口を挟まない。

評価もしない。

ただ、その場の言葉を聞いている。

 

それだけで、少しだけ席が整っていくようだった。

 

「仕事の話を急ぐ必要はない」

 

ブライトが言った。

 

「父の名前の話も、急ぐ必要はない」

 

父の名前。

 

その言葉が出ると、ハルの指先が少しだけカップに触れたまま止まった。

 

その名を直接は言わなかった。

だが、十分だった。

 

ベルトーチカも何も言わない。

 

ブライトは続けない。

父の話にも、昔の話にも、まだ入らない。

 

ただ、そこに言葉を一つ置いただけだった。

 

「今日は、まず茶を飲むところからでいい」

 

その言い方に、ハルは意外な気持ちになった。

 

重い話を避けているわけではない。

けれど、急いで踏み込もうともしていない。

 

ブライトは、答えを持ってきた人ではない。

席に座り、茶を飲み、話を聞くために来た人だった。

 

ハルはようやくカップを持ち上げた。

 

茶の香りが近くなる。

 

熱い茶を一口だけ飲むと、喉の奥に残っていた硬さが少し薄れた。

 

「……分かりました」

 

ハルは言った。

 

ブライトは頷いた。

 

ベルトーチカは、小皿を少し押し出す。

 

「食べて。話は逃げないわ」

 

「母さん、今それを言う?」

 

「言うわよ。茶の席なんだから」

 

ブライトは、また小さく息を吐いた。

 

「変わらないな」

 

「ブライトさんもね」

 

短いやり取りに、古い時間の気配が少しだけ混じる。

 

けれど、昔話にはならない。

 

テーブルの上には、三つのカップ。

昼前の光。

茶の湯気。

 

そして、まだ始まっていない話があった。

 

ハルはカップを置き、向かいに座るブライトを見た。

 

答えをもらうためではない。

命じられるためでもない。

父の代わりを探すためでもない。

 

話を聞いてもらうために、この人は来た。

 

そう思えたところで、ようやく少しだけ、ハルは席に入れた気がした

 




後編へ続く
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