機動戦士ガンダム Beyond the Axis 作:Hisa/Coco
Scene 1 出発の朝
いつもより早く起きたはずだった。
それでも、ハル・イルマは玄関脇の棚の前で、もう一度だけ荷物を確認していた。
公務出張用の小型バッグ。
記録端末。
通信端末。
認証カード。
条件付き承認通知の控え。
出張者用の簡易身分証。
予備の充電ユニット。
多くはない。
だが、ひとつ忘れれば、そのひとつだけで足を止められるものばかりだった。
ハルはバッグの口を閉じ、もう一度だけ認証カードを指で確かめた。
「認証カード」
背後から声がした。
「ある」
「通信端末」
「ある」
「記録端末」
「ある」
「承認通知の控え」
「ある」
「朝食」
ハルは一瞬だけ黙った。
ベルトーチカ・イルマは、食卓の方からこちらを見ていた。
湯気の立つコーヒー。
焼いたパン。
いつもより少し早く用意された皿。
ハルは玄関に立ったまま、視線だけをそちらへ向ける。
「食べた」
「半分ね」
「十分だろ」
「宇宙へ行く朝の十分は、信用しないことにしてるの」
「宇宙って言っても、公務出張だよ」
「地球を出ることに変わりはないわ」
ベルトーチカの声は、いつもの母親の声だった。
小言に近い。
けれど、その奥に、昨夜より少しだけ硬いものがある。
ハルはそれに気づいたが、深く拾わなかった。
拾えば、玄関から出るまでに余計な言葉が増える気がした。
確認に行くだけだよ。
昨夜、そう言った。
その時の、ベルトーチカの「だけ」という言葉への返しが、まだ少し耳に残っている。
便利な言葉。
たしかに、便利だった。
確認。
出張。
同行。
案内。
安全確認。
どれも、正しい言葉だった。
だからこそ、その言葉だけで済ませていいのか、少しだけ分からなくなる。
ハルはバッグの持ち手を握り直した。
「母さん」
「何」
「忘れ物はない」
「そうね」
「今日は起きてる」
「それは見れば分かるわ」
「なら、心配するところないだろ」
ベルトーチカは短く笑った。
「心配するところしかないわね」
「母さん」
「普通の母親の感想よ」
ハルが言い返そうとした時、玄関の通知音が鳴った。
――――――――――――――――――――――
外部車両到着。
来訪者認証。
FAB監査局、レオン・クラーク。
――――――――――――――――――――――
表示された名前を見て、ハルは少しだけ背筋を伸ばした。
ベルトーチカも画面を見た。
「来たわね」
「うん」
「ちゃんと挨拶しないと」
「俺が?」
「私が」
ハルは、少しだけ嫌な予感がした。
「普通でいいから」
「普通にするわよ」
それが一番信用できなかった。
玄関を開けると、朝の空気が流れ込んできた。
家の前には、公用車両が一台停まっていた。
派手なものではない。
白と灰色を基調にした、連邦政府公用の小型移動車両だった。
その横に、レオン・クラークが立っていた。
いつもの職場より少しだけ整えた制服。
片手には資料パッド。
もう片方の手には、出張用の小型バッグ。
軽い雰囲気はそのままだったが、今日はどこか、職場の先輩というより同行責任者に近い立ち方をしていた。
「おはよう、ハル」
「おはようございます」
ハルが返すと、レオンは少しだけ目を細めた。
「ちゃんと起きてるな」
「今日は起きてます」
「今日は、か」
その言い方に、ハルが眉を寄せた時、ベルトーチカが玄関から一歩出てきた。
レオンはすぐに姿勢を正した。
「おはようございます。FAB監査局のレオン・クラークです。いつもイルマには世話になっています」
ベルトーチカも静かに頭を下げる。
「ベルトーチカ・イルマです。こちらこそ、息子がお世話になっています」
「母さん、その言い方やめて」
「普通の挨拶よ」
「普通って言われても」
レオンは少しだけ笑った。
「大丈夫です。職場でも、だいたい真面目にやってます」
「だいたい?」
ハルとベルトーチカの声が重なった。
レオンは、そこで少しだけ考えるふりをした。
「そこは先輩として正確に。真面目すぎるところはありますけど、監査官補向きです」
「褒めてるんですか、それ」
「八割くらいは」
「残り二割は」
「朝です」
ベルトーチカが小さく笑った。
「やっぱり、朝は職場でも少し弱いんですね」
「母さん」
「この子、仕事には真面目なんですけど、朝はあまり信用できないので」
「今日は起きてるって言っただろ」
「起きてることと、信用できることは別よ」
レオンは笑いすぎない程度に口元を緩めた。
「そこは、こちらでも把握しています。出張中は、確認項目に入れておきます」
「レオン先輩まで」
「実務上、必要な確認だ」
軽い会話だった。
その数秒だけ、出発の朝はいつもの朝に近づいた。
小言。
軽口。
母親の視線。
先輩の余裕。
けれど、公用車両の白い車体が朝の光を反射している。
その先には、連邦政府公用軌道連絡港がある。
さらにその先に、サイド2がある。
ハルは、笑いかけていた表情を少し戻した。
ベルトーチカも、それに気づいたのかもしれない。
彼女はレオンへ視線を向け直した。
「レオンさん」
「はい」
「仕事だとは分かっています」
その一言で、空気が少しだけ変わった。
重くはない。
けれど、軽くもない。
ベルトーチカは、ハルを止める言葉を選ばなかった。
ただ、短く言った。
「お願いします」
レオンは、軽く返さなかった。
少しだけ姿勢を正し、ベルトーチカを見る。
「任せてください。一人にはしません」
ハルは視線を落とした。
その言葉は、強すぎない。
だが、軽くもなかった。
レオンは続けた。
「絶対、とは軽く言えません。でも、勝手に一人で走らせるつもりはありません」
ベルトーチカは、しばらくレオンを見ていた。
その目は、記者の目ではなかった。
誰かの言葉の裏を探る目でもない。
ただ、息子を送り出す母親の目だった。
「それで十分です」
ベルトーチカはそう言った。
ハルはバッグを肩にかけ直した。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
いつもの言葉だった。
だが、今日は玄関の中だけで終わらない。
ベルトーチカはもう一度、ハルの襟元へ視線を向けた。
「認証カード」
「ある」
「端末」
「二つともある」
「無理は」
そこで、ハルは先に答えた。
「しない」
ベルトーチカは少しだけ目を細める。
「その返事が一番信用できないのよね」
「じゃあどう言えばいいんだよ」
「覚えておく、くらいでいいわ」
ハルは少しだけ息を吐いた。
「覚えておく」
「よろしい」
レオンが横で小さく言った。
「今のも出張前確認項目に入れとくか」
「入れないでください」
「口頭確認、完了」
ベルトーチカが、少しだけ笑った。
その笑みが消える前に、ハルは家の外へ出た。
朝の空気は、思ったより冷たかった。
住宅地の道はまだ静かで、清掃ドローンが歩道の端をゆっくり進んでいた。
街路樹の葉には、夜の湿り気が少し残っていた。
いつもの朝と変わらない景色だった。
だが、その先に向かう場所だけが、いつもと違う。
連邦政府公用軌道連絡港。
地球を離れるための、公用出張者用の導線。
ハルは車両の扉の前で、一度だけ家を振り返った。
ベルトーチカは玄関先に立っていた。
手を振るわけではない。
泣くわけでもない。
ただ、そこにいて、見送っていた。
ハルは短く頷いた。
レオンが車両の扉を開けた。
「行くぞ、ハル」
「はい」
「まずは連絡港だ。そこで引っかかると、アヤに怒られる」
「昨日、三回確認されました」
「なら通る」
ハルは車両に乗り込んだ。
扉が閉まる直前、ベルトーチカの声が届いた。
「ハル」
ハルは振り向いた。
「行ってらっしゃい」
もう一度、同じ言葉。
けれど、二度目の方が少しだけ長く残った。
「行ってきます」
ハルが答えると、扉が静かに閉まった。
車両がゆっくりと動き出した。
窓の外で、イルマ家が少しずつ後ろへ下がっていった。
日常の音が、ドア一枚分ずつ遠くなっていった。
ハルはバッグの中の認証カードを、もう一度だけ指先で確かめた。
家を出た。
まだ現地確認は始まっていない。
それでも、戻る場所を背にして、ハルは地球を離れる朝の中へ進んでいった。
◇ ◇ ◇
Scene 2 連邦政府公用軌道連絡港/FABブース
連邦政府公用軌道連絡港に、旅行の匂いはなかった。
車両の窓越しに見えた建物は、白と灰色で整えられていた。
大きな広告も、観光客向けの案内表示もない。
出発を祝うような音楽も、土産物の看板もない。
壁面に並んでいるのは、機関名、搭乗区分、認証状態、携行資料照合といった文字ばかりだった。
宇宙へ行く場所というより、別の管轄へ移されるための巨大な認証端末の中に入るような場所だった。
ハル・イルマは、公用車両を降りてから、少しだけ足を止めた。
イルマ家の玄関先にあった朝の空気は、もう遠い。
焼いたパンの匂い。
ベルトーチカの小言。
レオン・クラークの軽い挨拶。
「お願いします」と短く沈んだ声。
それらはまだ耳の奥に残っている。
だが、目の前にあるのは、連邦政府公用軌道連絡港の冷えた壁だった。
「ここが、公用連絡港ですか」
ハルが言うと、レオンは車両の後部から自分のバッグを取り出しながら頷いた。
「一般客用じゃない。公用便の導線だ」
「一般の宇宙港とは、だいぶ違うんですね」
「驚くほど、旅行って感じはしないぞ」
レオンは軽く言った。
「監査局も、たまには地球を出る」
「たまには、ですか」
「慣れるほど出たくはないな」
そう言って、レオンは施設入口へ歩き出した。
ハルも後に続く。
入口には、一般旅客の列はなかった。
代わりに、政府機関ごとの認証ゲートがいくつか並んでいる。
外務連絡局。
資源管理庁。
復興調整局。
監査局。
表示はすべて淡々としていた。
人はいる。
だが、声は少ない。
職員たちは必要な分だけ会話をし、端末を示し、認証音を受け取って先へ進んでいく。
旅行者の高揚ではなく、書類が別の部署へ回される時のような静けさがあった。
ハルは自分のバッグの中を一度だけ確かめた。
記録端末。
通信端末。
条件付き承認通知の控え。
携行資料一覧。
認証カード。
すべてある。
それでも、足元が少しだけ硬くなる。
FAB庁舎の認証ゲートには、もう慣れていた。
毎朝、職員証をかざし、端末に向かい、閲覧記録が保存されることにも慣れている。
だが、ここは違う。
同じ認証でも、これは地球を離れるための認証だった。
「こっちだ」
レオンが、監査局用の表示を指した。
壁面の案内に、小さく文字が浮かぶ。
――――――――――――――――――――――
【FAB出張者用確認ブース】
――――――――――――――――――――――
ハルはその表示を見て、思わず言った。
「FAB用の搭乗ゲートがあるんですね」
「FABが宇宙港を持ってるわけじゃない。公用連絡港の中に、監査局用の業務導線があるだけだ」
「それでも、専用導線なんですね」
「現地確認、宇宙側監査、緊急照合。たまに必要になる」
レオンは認証カードを取り出した。
「まあ、必要にならない方が平和なんだけどな」
その軽さの奥に、少しだけ硬いものが混じっていた。
ハルは答えず、確認ブースの前に立った。
ブースといっても、窓口ではなかった。
白い壁に埋め込まれた無人ゲートと、透明な遮断パネル。
足元には立ち位置を示す細い光の線。
正面の表示パネルには、認証項目が縦に並んでいる。
レオンが先にカードをかざした。
短い電子音。
――――――――――――――――――――――
【職員認証:確認済】
【同行者情報:確認済】
――――――――――――――――――――――
表示が緑に変わる。
「次、イルマ」
「はい」
ハルは認証カードをかざした。
すぐに、表示が切り替わる。
――――――――――――――――――――――
【職員認証:確認済】
【条件付き承認通知:確認済】
【申請目的:支援受領実績および現地応答状況の補足確認】
【記録端末:登録済】
【通信端末:登録済】
【携行資料一覧:確認済】
【同行者:レオン・クラーク】
【現地管理調整官:ユリウス・カーン】
【確認範囲:申請目的内】
【搭乗区分:連邦政府公用連絡便】
――――――――――――――――――――――
ハルは、表示の途中で視線を止めた。
ユリウス・カーン。
現地管理調整官。
書類の中で見た名前だった。
条件付き承認の中にあった、現地側の同行者。
サイド2側で合流する相手。
ここには本人はいない。
それでも、その名前はすでにゲートの照合項目になっていた。
「カーン調整官の名前も、ここで出るんですね」
「同行条件に入ってるからな」
レオンは、表示を見ながら短く言った。
「向こうで合流だ。ここには来ない」
「はい」
ハルは頷いた。
昨日までは、条件欄の文字だった。
今は、地球を出るための照合項目になっている。
現地へ行けることと、現地を自由に見られることは違う。
その言葉は、まだ地球側のゲートの前から始まっていた。
ゲートは次の確認へ進む。
――――――――――――――――――――――
【携行資料照合中】
【持ち出し範囲:申請目的内】
【未登録資料:なし】
【外部記録媒体:なし】
【端末同期状態:確認済】
――――――――――――――――――――――
ハルは少しだけ息を止めた。
引っかかるはずはない。
アヤ・ミナセに、前日のうちに何度も確認されている。
記録端末。
通信端末。
承認通知控え。
携行資料一覧。
現地確認範囲。
除外範囲。
すべて確認した。
それでも、画面の「照合中」という文字を見ると、背筋がわずかに硬くなる。
レオンが横から言った。
「ここで引っかかると、アヤに怒られるぞ」
「怒られません」
「そうか?」
「昨日、三回確認されました」
「なら通る」
レオンはあっさり言った。
「アヤの確認を三回通った資料は、だいたいここのゲートより堅い」
「それ、本人に言ったら怒られますよ」
「言わないから生きてる」
最後の項目が緑に変わった。
――――――――――――――――――――――
【照合完了】
【搭乗許可:確認済】
――――――――――――――――――――――
透明なパネルが、音もなく開く。
レオンは顎で先を示した。
「通ったな。じゃあ、次は搭乗口だ」
ハルはゲートを抜けた。
抜けた先も、やはり静かだった。
窓の外には、連絡シャトルの発着区画が見える。
通常旅客用の大型機ではなく、公用連絡便用の細い機体が、白い整備アームに囲まれて停まっていた。
あれに乗る。
そう思った瞬間、ハルはようやく少しだけ実感した。
サイド2は、端末上の地名ではなくなっていく。
出張先になっていた。
搭乗口の前には、公用便担当職員が一人立っていた。
職員は端末を確認し、ハルとレオンへ視線を向けた。
「FAB監査局、現地確認出張者二名ですね」
レオンが答える。
「はい」
職員は端末上の表示を確認した。
「条件付き承認通知、確認済みです。記録端末、通信端末、ともに登録済み。同行者、レオン・クラーク」
そこで一度、表示を送る。
「現地管理調整官、ユリウス・カーン。現地側合流予定、サイド2側連絡ポート」
その名前に、ハルの視線がまた少しだけ止まった。
レオンが横から低く言う。
「向こうで合流だ」
「分かっています」
「今のうちに名前だけで構えすぎるなよ」
「構えてません」
「構えてる返事だな」
ハルは反論しようとして、やめた。
実際、構えていないとは言い切れなかった。
職員は淡々と続ける。
「サイド2方面公用連絡便、搭乗口はこちらです。搭乗後、シャトル側で最終確認があります」
「ありがとうございます」
ハルがそう言うと、職員は軽く会釈した。
手続きは、驚くほど滑らかだった。
誰も急かさない。
誰も止めない。
ただ、認証され、照合され、次の場所へ送られていく。
便利だった。
便利な分、すべてが記録に残る。
レオンが、まるでハルの思考を読んだように言った。
「便利だろ」
ハルは横を見る。
レオンは搭乗口の表示を見ていた。
「便利な分、全部記録に残る」
ハルは短く頷いた。
「監査局らしいですね」
「連邦らしいとも言う」
その言い方は軽かった。
だが、軽いだけではなかった。
搭乗口の向こうには、連絡シャトルへ続く通路が伸びている。
白い壁。
細い床灯。
無駄のない案内表示。
その先は、地球の外へ続いていた。
ハルは一度、足元の線を見た。
ここを越えれば、次はシャトルの中だ。
まだ現地確認は始まっていない。
C-17の入口に立ってもいない。
カーン調整官とも会っていない。
それでも、条件付き承認は、もう紙の上の話ではなくなっていた。
ゲートを通り、端末を照合し、搭乗口を示される。
進むたびに、条件は手続きの形でハルの周囲に組み込まれていく。
レオンが軽く顎を上げた。
「行くぞ」
「はい」
ハルは頷き、搭乗口の先へ進んだ。
背後で、確認音が短く鳴った。
地球を離れるための手続きが、ひとつ終わった。
◇ ◇ ◇
Scene 3 シャトル内/地球を離れる
公用連絡シャトルの機内は、思っていたより狭く、静かだった。
一般旅客便のような賑わいはない。
座席に荷物を押し込む声も、窓側を取り合うような会話もない。
搭乗しているのは、政府機関の職員や、公用便利用者らしい人間ばかりだった。
白と灰色の内装。
座席横に埋め込まれた認証パネル。
前方の小さな案内表示。
各席の足元に固定された荷物収納。
宇宙へ行くための乗り物というより、別の管轄へ職員を運ぶための移動端末のようだった。
ハル・イルマは指定された席に座り、バッグを足元の固定具に収めた。
記録端末。
通信端末。
認証カード。
もう何度目か分からない確認をしてから、ようやく背もたれに身体を預ける。
隣の席で、レオン・クラークが慣れた手つきで資料パッドを収納していた。
「固い顔してるな」
「してますか」
「してる」
「手続きは通りました」
「顔の手続きはまだだな」
ハルは返事に困って、窓の外へ視線を逃がした。
機体の外には、白い整備アームと、発着区画の灰色の床が見えている。
その先に、空があった。
地上から見上げるのと同じ青だった。
だが、この数分後には、その青の外へ出る。
その事実が、まだうまく身体の中に入ってこない。
前方の案内表示が切り替わった。
――――――――――――――――――――――
【連邦政府公用連絡便】
【サイド2方面】
【出発前確認中】
――――――――――――――――――――――
続いて、淡々とした音声案内が流れる。
「本便は、連邦政府公用連絡便、サイド2方面行きです。出発前確認を開始します。座席固定具、端末収納、通信制限設定を確認してください」
ハルは座席横の表示を見た。
――――――――――――――――――――――
記録端末:収納確認。
通信端末:制限設定済。
搭乗者認証:確認済。
――――――――――――――――――――――
すべて緑になっている。
それでも、緊張は消えなかった。
レオンが横から言った。
「ほら、ハル。ベルトーチカさんに、出発の連絡しなくていいのか」
「さっき言いました」
「言葉と連絡は別だろ」
「レオン先輩、初対面に近いのに分かったようなこと言いますね」
「初対面でも、心配してるのは分かる」
ハルは少しだけ黙った。
玄関先のベルトーチカの顔が浮かぶ。
手を振るでもなく、泣くでもなく、ただ見送っていた姿。
「お願いします」と言った時の短い声。
ハルは通信端末を開き、短い文を送った。
出発します。
それだけだった。
すぐに返信は来なかった。
けれど、それでよかった。
ベルトーチカなら、たぶんそれだけで分かる。
レオンは画面を覗き込まなかった。
「送ったか」
「送りました」
「よし。母親向け確認、完了」
「それも確認項目なんですか」
「同行者の精神安定には関係ある」
「俺のですか」
「お前のも、向こうのも」
軽い口調だった。
だが、少しだけ真面目だった。
機内の照明がわずかに落ちた。
案内表示が、出発準備完了へ変わる。
低い振動が床から伝わってきた。
ハルは無意識に座席の肘掛けを握った。
レオンが横目で見る。
「初めてじゃないんだろ」
「宇宙へ出たことはあります」
「公務出張では?」
「初めてです」
「なら、少し緊張するくらいで正常だ」
「多い場合は?」
「顔に出る」
ハルは窓の外を見たまま、短く息を吐いた。
「今は?」
「まだ少しだ」
機体がゆっくりと動き始めた。
発着区画の白い線が後ろへ流れる。
整備アームが離れ、外の景色が少しずつ広がっていく。
次の瞬間、身体が座席へ押しつけられた。
強すぎる加速ではない。
だが、確かに地上を離れていく圧だった。
公用連絡便は、大気圏を離脱していく。
機内の音が低く変わる。
床から伝わる振動が、細かく、深くなる。
ハルは窓の外を見た。
連絡港の施設が下へ沈んでいく。
白と灰色の建物。
発着区画。
細い道路。
それらが、すぐに面になった。
雲の層が近づき、すぐに後ろへ流れる。
窓の外の青は、思っていたより早く薄くなった。
白い雲が遠ざかり、空の色が藍色へ沈む。
青の向こうに、黒が滲み始める。
ハルは言葉を失った。
出張経路。
公用連絡便。
サイド2方面。
端末の中では一行で済んでいた言葉が、身体ごと座席に押しつけられる感覚になっている。
地球を離れる。
それは、書類の中にもあった。
出張日程の中にも、承認通知の中にもあった。
だが、窓の外の色が変わっていくと、その言葉は手続きではなくなった。
やがて、黒が広がった。
完全な暗さではない。
細い光があり、機体の外装に反射する白い線がある。
その下に、地球の曲面が見えた。
海も、陸も、雲も、細部ではなく面として見えた。
ハルが今朝までいた家も、FAB庁舎も、連邦政府公用軌道連絡港も、その曲面のどこかにある。
だが、もう見えない。
見えないのに、そこにある。
その感覚は、少しだけ記録に似ていた。
一覧にはない。
詳細には出てこない。
けれど、消えたわけではない。
ハルは目を閉じかけ、すぐに開いた。
今はまだ、考えすぎるな。
そう自分に言い聞かせる。
レオンが、座席の背に肩を預けたまま言った。
「本当に地球を離れるんですね、って顔だな」
「言ってません」
「言ってない顔だ」
「また顔ですか」
「便利だからな」
ハルは少しだけ息を吐いた。
「書類だと、出張経路の一行だったんですけど」
「窓で見ると違うか」
「違います」
「それでいい」
レオンは、少しだけ声を落とした。
「現地も同じだ」
ハルは窓から視線を戻した。
レオンの表情は、軽すぎなかった。
「書類で見た場所と、実際に見る場所は違う。だから行く」
「はい」
「でも、見たものをそのまま思い込みにするな」
その言葉に、ハルは背筋を少し伸ばした。
レオンは続ける。
「現地では、案内されたものをそのまま確認済みにするな」
「説明と記録を分ける、ですね」
「そういうこと」
レオンは短く頷いた。
「見たものと、説明されたものは、分けて残せ」
その言葉は、強い言い方ではなかった。
けれど、残った。
案内。
確認。
説明。
記録。
分けて見る。
マカベ主任も、アヤも、違う言い方で同じことを言っていた。
判断を書くな。
確認目的に落とせ。
見えないものを埋めるな。
見えているものから外すな。
ハルは頷いた。
「疑うために見るんじゃない」
レオンが言った。
「記録するために見るんだ」
「はい」
「重く受け取りすぎるな。でも、軽くも見るな」
「難しいですね」
「面倒な現場は、だいたいそうだ」
ハルは、もう一度窓の外を見た。
地球の青は、もう遠い。
黒い空の中に、機内表示の淡い光が映り込んでいる。
前方の案内表示が切り替わった。
――――――――――――――――――――――
【中継軌道進入】
【サイド2方面航路確認】
【到着予定:サイド2側連絡ポート】
――――――――――――――――――――――
サイド2。
その文字を見て、ハルは静かに息を吸った。
端末上の地名。
照会文の対象。
支援関連記録の先にあった場所。
それが、航路表示の中で少しずつ近づいている。
カーン調整官とは、サイド2側で合流する。
現地管理側の説明を受ける。
確認範囲の中で、見えるものを見る。
それだけだった。
それだけのはずだった。
窓の外には、もう地球の青はなかった。
黒い空を映した窓に、細い航路表示が淡く重なっていた。
ハルは、その表示を見た。
書類の中にあった場所が、少しずつ、窓の外の距離になっていく。
◇ ◇ ◇
Scene 4 サイド2接近
機内表示が、静かに切り替わった。
――――――――――――――――――――――
【サイド2方面連絡航路】
【中継軌道通過】
【サイド2側連絡ポート:接近予定】
――――――――――――――――――――――
淡い文字が、座席前の小さな表示に並んでいる。
ハル・イルマは、その文字を見ていた。
サイド2。
照会文の中で見た名前。
申請書案の中で何度も入力した名前。
条件付き承認通知にも、出張経路にも、端末表示にもあった名前。
文字だけなら、もう何度も見ている。
だが今、その行き先は画面の中だけにはなかった。
窓の外には、黒い宇宙が広がっている。
地球の青は、もう見えない。
その代わりに、黒い空間の奥に細い光の列が見え始めていた。
最初は星と区別がつかなかった。
だが、近づくにつれて、それが自然の光ではないことが分かってくる。
点ではなく、列だった。
ばらばらではなく、規則がある。
細い光が、一定の間隔で並んでいる。
「見えてきたな」
レオン・クラークが隣で言った。
ハルは窓の外から目を離さなかった。
「あれが、サイド2ですか」
「まだ外側だ」
レオンは表示と窓の外を軽く見比べた。
「手前の光は航路標識。奥の明るいところが連絡ポートだな」
「星じゃないんですね」
「星なら、もう少し勝手に光る」
レオンの言い方は軽かった。
けれど、その軽さが、少しだけハルの呼吸を戻した。
ハルはもう一度、窓の外を見た。
光の列の奥に、別の明るさがある。
白ではない。
少し黄味を帯びた、人工照明の集まり。
さらにその奥に、巨大な影があった。
最初は、ただの暗い壁のように見えた。
だが、近づくにつれて、影の中に直線が見えてくる。
曲面。
接続アーム。
補修ドックの輪郭。
外縁部に伸びる古い構造体。
ひとつの建物ではない。
巨大な生活圏だった。
サイド2。
コロニー群の外縁部。
書類の中では、対象地域の欄に置かれていた名前。
画面上では、検索結果や照会範囲として表示されていた名前。
その名前が、黒い宇宙の中で形を持ち始めている。
「書類で見るのとは、違いますね」
ハルは小さく言った。
「そりゃ違う」
レオンは座席の背に肩を預けたまま答えた。
「書類は、見える範囲を整える。現地は、整ってないものもそのまま見える」
ハルは黙った。
その言葉は、説明というより、注意に近かった。
サイド2は、美しい宇宙観光の目的地には見えなかった。
規則正しい航路標識。
管理された連絡ポートの光。
その奥に沈む、古い構造体の影。
管理されている。
だが、新しくはない。
整っている。
だが、軽くはない。
ハルは、窓に映る自分の顔を見た。
緊張している。
自分でも分かった。
だが、それは地球を離れる時の緊張とは少し違っていた。
地球を離れる時は、距離が変わる感覚だった。
今は、書類の中で何度も見てきた場所が、実際の大きさを持って近づいてくる感覚だった。
端末上では、一行だった。
サイド2外縁居住区。
第七環境維持区画。
対象区域。
一行で済んでいた言葉の向こうに、これだけの距離と、これだけの構造物があった。
機内案内が流れた。
「本便は、サイド2側連絡ポートへの接続進入準備に入ります。到着後、該当機関職員は現地管理側確認ブースへ移動してください。端末一時登録、同行者確認、現地管理調整官との合流は、到着後の案内に従ってください」
表示が続く。
――――――――――――――――――――――
【到着後導線】
【現地管理側確認ブース】
【端末一時登録】
【同行者確認】
【現地管理調整官:ユリウス・カーン】
――――――――――――――――――――――
その名前に、ハルの視線が止まった。
ユリウス・カーン。
地球側のゲートで見た名前。
条件付き承認通知の中で見た名前。
サイド2側で合流する、現地管理調整官。
ここでも、まだ文字だけだった。
だが、その文字が表示される場所は変わっている。
地球側では、出発前の照合項目だった。
今は、到着後の導線になっている。
レオンが横から言った。
「カーン調整官とは、連絡ポート側で合流だ」
「はい」
「挨拶は俺からする。お前は紹介されたら名乗れ」
「分かりました」
「変に構えるな。向こうも仕事で来てる」
ハルは少しだけ間を置いた。
「構えているように見えますか」
「少しな」
「少しなら正常ですか」
「その返しができるなら、まだ大丈夫だ」
レオンは軽く笑った。
それ以上、カーンについては言わなかった。
その沈黙が、かえってちょうどよかった。
今ここで分かるのは、名前と役割だけでいい。
現地管理調整官。
現地管理側確認ブース。
端末一時登録。
同行者確認。
条件は、もう紙の上だけではなかった。
サイド2が近づくにつれて、それは到着後の導線へ変わっていく。
ハルは窓の外へ視線を戻した。
連絡ポートの灯りが、さっきよりも大きく見える。
航路標識の光が、機体の進む方向に沿って流れていく。
補修ドックの影が、少しずつ輪郭を持つ。
接続アームの先端に、誘導灯が点滅している。
その奥にあるコロニー群は、まだ全体を見せない。
ただ、巨大な影として、そこにあった。
ハルはその影を見ながら、端末の中に並んでいた言葉を思い出した。
現地。
対象区域。
外縁居住区。
支援関連記録。
確認範囲。
どれも、書類の中では扱える大きさだった。
だが、窓の外に置かれると、急に大きすぎる。
自分が確認しに来たものは、その中のほんの一部でしかない。
そう分かっているのに、視線はなかなか外れなかった。
「ハル」
レオンが言った。
「はい」
「着いたら、まず確認ブースだ。すぐに現地へ出るわけじゃない」
「分かっています」
「端末登録、同行者確認、現地側の説明。その後で移動だ」
「はい」
「急ぐなよ」
その言葉に、ハルは小さく頷いた。
急ぐな。
何度も聞いてきた言葉だった。
けれど、ここでは少し違う意味を持って聞こえる。
急がなければ、見えるものがある。
だが、急がないことが、閉じることになってはいけない。
ハルは窓の外の光を見た。
サイド2側連絡ポートの灯りが、もう星には見えない距離まで近づいていた。
機内の振動がわずかに変わる。
シャトルが接続進入に入ったのだと分かった。
前方表示が切り替わる。
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【サイド2側連絡ポート】
【接続進入開始】
【到着後、現地管理側確認ブースへ】
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文字だけなら、何度も見た。
けれど今、その行き先は画面の向こうではなく、窓の外にあった。
黒い宇宙の奥で、連絡ポートの灯りが大きくなっていく。
そのさらに奥に、サイド2の外縁部が、古い巨大な影として近づいていた。
対象区域という言葉の向こう側が、ようやく形を持って近づいてきた。
後編に続く。