機動戦士ガンダム Beyond the Axis 作:Hisa/Coco
Scene 1 作業灯の方
白い光が、背中の後ろへ遠ざかっていった。
さっきまでハルの周囲を満たしていた管理導線の明るさは、均一で、冷たく、どこにも影を作らないものだった。壁も床も白く、端末の表示も白く、透明パネルの向こうにいるはずの人間まで、何かの手順の一部に見えていた。
その光が、今は後ろにあった。
前方にあったのは、黄色がかった作業灯だった。
細い光が、通路の壁を斜めに照らしていた。照らされた場所だけが浮かび、そこから外れた部分は、すぐに暗く沈んでいた。足元も平らではなかった。床板の継ぎ目がずれ、金属の段差があり、壁の下を太い配管が這っていた。ケーブルが束になって固定され、いくつかは古い布のような保護材に巻かれていた。
空気が違った。
湿っていた。
金属の匂いがした。熱がこもっていた。どこかで空調が動いているのに、その音は管理導線のように整っていなかった。吸い込み、止まり、また吐き出す。そのたびに、通路の奥で薄い振動が揺れた。
ハルは一歩進んで、靴底の下に硬いものを踏みそうになった。
「そこ、足元」
短い声が前から飛んだ。
レナだった。
ハルは反射的に足を止めかけた。
「止まらないでね」
レナは振り返らなかった。作業灯を片手に持ち、もう片方の手で壁際を示した。ERSA装備の白い外装は、管理導線の白とは違っていた。汚れがあり、擦れがあり、光を受けたところだけが鈍く反射していた。識別タグが胸元で揺れた。
レナ・マーベット。
ハルは、さっき見た名前を思い出した。
「レオン先輩が、外に――」
「後で確認するよ」
レナの返事は早かった。
「今はこっちね」
「でも、外部同期は」
「それも後」
「ここは、確認範囲内ですか」
その問いを口にした瞬間、ハル自身も少しおかしいと思った。
ここが何の範囲なのか。
そもそも、さっきまでいた場所が本当に安全確認の範囲内だったのか。
それすら、もう分からなかった。
レナは少しだけ肩越しに視線を寄越した。怒ってはいなかった。だが、立ち止まって説明する気もなかった。
「頭、下げて」
ハルは言われた通りにした。
頭の上を、配管が通っていた。作業灯の光では奥行きが分かりにくく、少しでも背筋を伸ばしていたら額をぶつけていたかもしれなかった。
レナはその下を迷わず抜けた。
「走らない。急ぐけど、走らない」
「はい」
返事をした声が、自分のものではないように聞こえた。
ハルは記録端末を胸元に引き寄せた。手袋の内側で、指先が少し汗ばんでいた。端末はまだ動いていた。画面は落ちていなかった。ローカル記録の保存表示も残っていた。
ただ、外へ出ているかは分からなかった。
ハルは歩きながら、端末を確認した。
――――――――――――――――――――――
【記録端末状態】
外部同期:保留
ローカル記録:継続
位置情報:補助取得中
――――――――――――――――――――――
外部同期は、まだ戻っていなかった。
それでも、記録だけは続いていた。
ハルは短く入力した。
――――――――――――――――――――――
【ローカル記録】
白い管理導線側から、作業灯のある狭い通路側へ移動。
前方、ERSA装備の人物が先導。
外部同期、保留継続。
ローカル記録、継続。
レオン先輩との通信、未確認。
――――――――――――――――――――――
入力しながら歩くには、足元が悪すぎた。
ケーブルを避ける。低い配管をくぐる。壁から張り出した古い固定具に袖を引っかけないようにする。管理導線では、進むために足元を考える必要はなかった。床は平らで、導線は明るく、歩く場所は表示されていた。
ここでは、歩くこと自体に注意が必要だった。
「記録端末、持ってる?」
レナが聞いた。
「持っています」
「落とさないで」
「これは、監査局の記録端末です。まだローカルで動いています」
「分かってる。持ってて。後で必要になる」
説明は、それだけだった。
端末は、ただの荷物ではなかった。
ハルはそう受け取った。
だが、何のために必要になるのかは、まだ分からなかった。証拠なのか、接続なのか、確認なのか。判断できる材料はなかった。
だから、記録には書かなかった。
ハルは端末を握り直した。
通路の奥で、工具の音がした。
高い音ではない。金属を叩くような、短く抑えた音だった。続いて、低い声がした。言葉の内容までは分からない。けれど、人の声だった。通信音声でも、端末読み上げでもない。狭い通路の空気を震わせて、こちらまで届く声だった。
ハルは立ち止まりそうになった。
「止まらないで」
レナの声が、また飛んだ。
「聞こえてる?」
「聞こえています」
「呼吸できる?」
ハルはそこで初めて、自分の呼吸が浅くなっていたことに気づいた。
「できます」
「なら、進むよ」
レナはそう言って、作業灯を少し低く向けた。
光の先で、誰かが動いたように見えた。
はっきりとは見えなかった。人影と言い切れるほどでもなかった。白い外装か、布か、金属面の反射かも分からなかった。ただ、通路の奥に動きがあった。整った端末表示ではなく、記録欄の応答でもなく、誰かがそこにいて、何かを動かしている気配だった。
ハルは、その音を聞いた。
工具の音。
短い声。
足場を踏み替える振動。
遠くで何かを引きずるような低い響き。
それらは安全を意味してはいなかった。
むしろ、危険が近いことを示していたのかもしれなかった。ここは避難場所ではなかった。きれいに保たれた退避導線でもなかった。湿った空気と熱と古い配管に囲まれた、管理されきっていない場所だった。
それでも、そこには人の動きがあった。
ハルは記録端末を見た。
表示は、変わらなかった。
外部同期、保留。
ローカル記録、継続。
その無機質な文字の向こうで、工具の音がした。
短い声がした。
誰かが通路の奥で、何かを動かしていた。
ハルは、初めて思った。
ここには、少なくとも、音があった。
声があった。
誰かが、まだ動いていた。
◇ ◇ ◇
Scene 2 断片の通信
工具の音は、通路の奥で一度止まり、すぐにまた動き出した。
ハルは、レナの後ろを離れないように進んだ。
白い管理導線側の光は、もう背後の角の向こうに隠れていた。振り返れば見えるかもしれない。そう思っても、レナは振り返らなかった。
「後ろは見なくていいよ」
短い声だった。
「前だけ見てて」
ハルは返事をしようとして、足元のケーブルに気づいた。黒い束が床を斜めに横切っている。固定具の一部が外れかけ、踏めば足を取られそうだった。
「そこ、右」
レナの手が、壁際を示した。
ハルはケーブルをまたいだ。記録端末を持った手が少し揺れ、反射的に胸側へ寄せる。
「端末、胸側に寄せて」
「はい」
「落としたら拾いに戻れない」
冗談ではなかった。
通路は、戻ることを前提に作られていないように見えた。少なくとも、いまのハルにはそう見えた。床には段差があり、壁沿いには古い配管が走っている。頭上にも細い管が渡り、そこから時々、水ではない何かが流れるような低い音がした。
作業灯の光は一定ではなかった。
レナが動くたびに、黄色い光が壁を滑った。配管の影が伸び、ケーブルの束が一瞬だけ太い生き物のように見えた。遠くで、金属を叩く音がした。すぐ近くではない。だが、確かに同じ導線の奥から響いていた。
「走らないで。滑るから」
レナが言った。
ハルは足を止めずに頷いた。
「外部同期は、まだ戻っていません」
言いながら、ハルは端末を確認した。
――――――――――――――――――――――
【記録端末状態】
外部同期:保留
ローカル記録:継続
位置情報:補助取得中
音声記録:断続
――――――――――――――――――――――
音声記録の欄だけが、断続的に明滅していた。
拾えていたのか、拾えていなかったのか。
それすら、今のハルには判断できなかった。
「レオン先輩とは、繋がっていないままです」
口にすると、胸の奥が少し重くなった。
レオンは外にいる。
そう思っても、声は届かなかった。透明パネルの向こうで見えていた姿も、今はもう見えない。端末の外部同期欄は、まだ保留のままだった。
「後で確認するよ」
レナは歩きながら答えた。
「今は質問より移動ね」
「ここは、管理導線ではないんですか」
ハルは、ほとんど反射で聞いていた。
レナは足を止めなかった。
「説明は止まってからね」
それだけだった。
ハルは、返す言葉を飲み込んだ。
管理導線ではないのか。
それとも、管理導線の外側にある何かなのか。
さっきカーンが説明していた言葉の中に、この場所はなかった。少なくとも、ハルが聞いた範囲にはなかった。確認ブース。旧応答ログ。安全確認。保護手順。どの言葉も、この湿った空気や、壁に沿って走る配管や、床を横切るケーブルとは結びつかなかった。
だが、それは判断ではなかった。
見えているのは、狭い通路。
作業灯。
古い配管。
床のケーブル。
工具音。
短い声。
ハルは、その範囲だけを残すことにした。
――――――――――――――――――――――
【ローカル記録】
白い管理導線ではない狭い通路を移動継続。
足元にケーブルあり。
壁沿いに古い配管。
作業灯、複数。
遠方より工具音。
短い声あり。
外部同期、保留継続。
――――――――――――――――――――――
記録しながら、ハルはまた段差に足を取られかけた。
「頭、下げて」
レナの声が飛んだ。
ハルは身を縮めた。頭上の配管が、髪のすぐ上を通り過ぎた。金属の冷たさが、触れていないのに分かるほど近かった。
その時、どこかで空気が抜けるような音がした。
短く、鋭い音だった。
ハルは思わず足を止めかけた。
「止まらないで」
「今の音は」
「後で話すよ」
レナは作業灯を奥へ向けた。
「まだ出られる」
大丈夫、とは言わなかった。
安全だ、とも言わなかった。
まだ出られる。
その言い方だけで、ここが安全な場所ではないことは分かった。
ハルは端末を握り直した。
「記録は、まだ残せます」
「なら、消さないでね」
レナは、短く返した。
「見えたものだけ覚えてて」
「見えた範囲だけでも、残します」
ハルの声は、自分で思ったより硬かった。
レナはそれ以上、何も言わなかった。
通路の奥から、誰かの短い声がした。内容までは聞こえない。応答なのか、指示なのか、確認なのかも分からない。ただ、そこに人がいることだけは分かった。工具を置く音がし、すぐに何かを引きずるような低い音が続いた。
ハルは、レナの肩元で小さな通信音が鳴るのを聞いた。
レナが片手を通信機に寄せた。
「第三区画、まだ落とさないで。こっちは一人拾った」
返答は、ハルには聞こえなかった。
通信機の奥で、ノイズだけが短く揺れた。
レナは少しだけ間を置いた。足は止めない。視線も前から外さなかった。
「エイルに回して。追加は一班でいい」
エイル。
聞き慣れない名前だけが、ハルの耳に残った。
意味は分からなかった。
それでも、レナの通信はどこかへ届いていた。
ハルは端末を見た。
音声記録の表示は、まだ断続だった。
今の通信がどこまで記録されていたのか、判断できなかった。返答側の内容は聞こえていなかった。聞こえていなかったものは、残せなかった。
ハルは、聞こえた範囲だけを入力した。
――――――――――――――――――――――
【ローカル記録】
レナ・マーベット、肩部通信機使用。
聞取範囲:
「第三区画、まだ落とさないで」
「こっちは一人拾った」
「エイルに回して」
「追加は一班でいい」
返答側、聞取不可。
通信状態、ノイズあり。
――――――――――――――――――――――
入力の途中で、また作業灯の光が揺れた。
「前だけ見てて」
レナが言った。
ハルは端末から視線を上げた。
通路の奥で、人影のようなものが動いた。今度も、はっきりとは見えなかった。作業灯の光が壁に跳ね、影だけが伸びたのかもしれない。だが、音は近くなっていた。
工具を置く音。
誰かが短く返事をする声。
金属の上を靴底が滑るような音。
それらは、整った作業ではなかった。誰も安全確認済みの導線を歩いていたわけではなかった。何かを押さえ、何かを避け、何かを保たせながら動いていた。
ハルには、それ以上のことは分からなかった。
分からないまま、記録だけが増えていった。
「この先に、人がいるんですか」
「いる」
レナは即答した。
それから、少しだけ言葉を足した。
「でも、見に行く場所を間違えないで」
「どういう意味ですか」
「今は進むよ」
レナはそう言って、低い段差を先に越えた。
ハルも続いた。
足元の金属板がわずかに沈んだ。小さな音がした。ハルは端末を胸側に押さえ、もう片方の手で壁に触れないようにバランスを取った。壁には細い結露があり、指が触れれば滑りそうだった。
「もう少し」
レナの声が、短く前から届いた。
「止まらないで」
外部同期は、まだ戻らなかった。
レオンの声も、カーンの説明も、ここには届かなかった。
代わりに、別の音があった。
通信機のノイズ。
作業灯の低い唸り。
通路の奥で誰かが工具を置く音。
レナが短く口にした、エイルという知らない名前。
ハルは記録端末を握り直した。
何が動いているのかは、まだ分からなかった。
けれど、ここでは何かが動いていた。
止まった記録の外側で、
誰かが、まだ動かしていた。
◇ ◇ ◇
Scene 3 端末内の記録
レナの後ろを追ううちに、通路はわずかに曲がっていた。
まっすぐに見えていた作業灯の列が、途中から壁の影に隠れていた。足元には古い金属板が敷かれていたが、すべてが同じ高さではなかった。踏む場所によって、沈む感触が少しずつ違った。
記録端末を持つ手に、力が入った。
外部同期は、まだ戻っていなかった。
そのことを、ハルは何度も確認していた。確認したところで状況は変わらない。それでも、見ずにはいられなかった。レオンの声が届かないこと。外側の状態が分からないこと。自分の記録が外へ出ていない可能性があること。
全部、端末の小さな表示に押し込められていた。
「止まって」
レナが言った。
ハルは反射的に足を止めた。
完全に立ち止まったわけではなかった。レナは通路の壁際に身を寄せ、ハルにも同じようにするよう手で示した。前方で、誰かが何かを動かす音がした。金属が床に触れ、短く擦れる。続いて、低い声がひとつ聞こえた。内容は分からなかった。
「ここ、狭い。端末、落とさないで」
レナの声は低かった。
ハルは記録端末を胸側に寄せた。
「まだ動いています」
「表示は?」
「確認します」
ハルは端末の画面を開いた。
作業灯の黄色い光が、画面の端を斜めに照らした。白い管理導線側で見ていた端末画面とは、同じ機械のはずなのに違って見えた。光が安定していなかっただけで、表示の文字まで少し揺れているように思えた。
――――――――――――――――――――――
【記録端末状態】
外部同期:保留
ローカル記録:継続
音声記録:断続
位置情報:補助取得中
記録保存先:端末内一時領域
――――――――――――――――――――――
外部同期は、戻っていなかった。
それでも、記録は止まっていなかった。
端末の中だけで、細く続いていた。
「ローカルは?」
レナが聞いた。
「生きています。音声は、断続です。位置情報も、補助取得中のままです」
「なら、残しておいて」
「何を記録すれば」
ハルがそう聞くと、レナは少しだけ間を置いた。
通信機の奥で、短いノイズが跳ねた。
レナはそれには答えず、先に通路の奥を見た。次に、ハルの端末へ視線を落とした。手が一度、端末の方へ伸びかけて、途中で止まった。
「見えたものだけでいいよ」
短い言葉だった。
「分からないところは、分からないままでいいよ」
ハルは、指を入力欄の上に置いたまま動かさなかった。
その言い方は、FABで教わった記録の仕方と似ていた。
だが、レナは監査局の人間ではない。
同じ言葉で考えているわけではないはずだった。
それでも、見えたものだけを残せ、という言い方には迷いがなかった。
言葉だけでは通らない場所を知っている人間の声に、ハルには聞こえた。
「聞こえなかったところは、書かないでね」
レナが続けた。
「分からないなら、分からないって残して」
「……はい」
ハルは短く答えた。
それ以上、レナは説明しなかった。
通路の奥で、工具音がまた鳴った。短く二度。続いて、足音のような振動が床板から伝わった。近づいているのか、離れているのかまでは分からない。壁沿いの配管の中で、空気か液体か判別できないものが低く流れていた。
ハルは入力を始めた。
――――――――――――――――――――――
【ローカル観察記録】
外部同期:保留継続。
ローカル記録:継続。
音声記録:断続。
位置情報:補助取得中。
記録保存先:端末内一時領域。
――――――――――――――――――――――
白い管理導線ではない狭い通路を移動中。
作業灯あり。
壁面配管あり。
仮設ケーブル複数。
遠方で工具音。
人声らしき音あり。
複数の足音または作業振動あり。
ERSA識別装備の人物により誘導中。
そこまで入力して、ハルは手を止めた。
ERSA識別装備の人物。
その書き方で足りるのか、少し迷った。
レナ・マーベット。
名前は見ている。識別タグにも表示されていた。だが、彼女がここで何をしているのか、どの権限で動いているのか、ハルには分からない。救助活動なのか、点検なのか、復旧なのか。あるいは、そのどれでもあるのか。
判断には、まだ届かなかった。
ハルは追記欄を開いた。
――――――――――――――――――――――
【追記】
誘導者識別タグに「レナ・マーベット」の表示を確認済み。
活動目的、確認不可。
通信相手、確認不可。
通路名称、確認不可。
――――――――――――――――――――――
入力してから、ハルはもう一度読み返した。
確認不可。
その言葉ばかりが並ぶ。
けれど、分からないものを分かったことにはできなかった。
レオン先輩なら、外側で記録を残している。
そう思いたかった。
ハルが切り離された時、レオンは外にいた。見えていた。声も届いていた。記録を残す、と言っていた。あの人が何もしていないはずはない。
単独行動扱いにはされていないはずだった。
けれど、今のハルに確認できるのは、端末の表示だけだった。
外部同期、保留。
ローカル記録、継続。
それだけだった。
「手、止まってる」
レナが言った。
ハルは小さく息を吸った。
「判断を書きそうになりました」
「書かないでね」
即答だった。
「見たものだけでいいよ」
「……はい」
「今は、それでいいよ」
レナはそう言って、先に一歩ずれた。足元のケーブルを避けるためだった。ハルも同じ場所を避けて進んだ。床板が少し鳴る。端末の画面が揺れた。
ハルは記録欄を閉じず、保存だけを押した。
――――――――――――――――――――――
【ローカル記録】
保存済み
――――――――――――――――――――――
保存表示が、小さく点いた。
外部同期は、まだ保留。
レオンの声も、外側の説明も、ここまでは届かない。
けれど、端末内には残った。
作業灯。
配管。
仮設ケーブル。
工具音。
断続する通信。
ERSA識別装備の人物による誘導。
それだけだった。
それ以上は、書かなかった。
聞こえなかった部分は、空欄のままにした。
分からないことは、分からないまま残した。
「それでいいよ」
レナの声が、短く落ちた。
ハルは記録端末を握り直した。
外にはまだ届かなかった。
けれど、消えてはいなかった。
◇ ◇ ◇
Scene 4 聞こえなかった返答
「進むよ」
レナはそう言って、壁際から離れた。
ハルも記録端末を胸側に寄せたまま、彼女の後に続いた。保存表示は消えていたが、端末の画面はまだ生きていた。外部同期は戻らなかった。ローカル記録だけが、端末の中で細く続いていた。
通路はさらに狭くなった。
作業灯の光が、低い天井と壁沿いの配管を斜めに照らしていた。足元では、仮設ケーブルが金属板の継ぎ目をまたぐように伸びていた。遠くで工具音がした。何かを締める音。何かを置く音。誰かが短く声を出し、それに別の音が重なって消えた。
言葉にはならなかった。
ただ、人が動いている気配だけがあった。
レナが肩元の通信機に指を当てた。
ハルは無意識に端末を持ち直した。
「第三区画、応答だけ」
レナの声は短かった。
返答は、ハルには聞こえなかった。
通信機の奥で、乾いたノイズが跳ねた。短く、途切れ、すぐに沈む。レナはそのまま足を止めず、少し先の段差を越えた。
「こっちは一人拾った。管理導線側」
またノイズが走った。
ハルは、その言葉を聞きながら足元のケーブルを避けた。
一人。
管理導線側。
それが自分のことを指していたのは分かった。だが、その言葉が通信の向こう側でどう受け取られたのかは分からなかった。
「怪我は確認中」
レナは続けた。
そこで一瞬だけ黙った。
返答を聞いているのかもしれなかった。だが、ハルには何も聞こえなかった。通信機の奥で、低いノイズだけが揺れていた。
レナの通信は、どこかへ届いていた。
けれど、ハルの端末からは、まだレオン先輩の声は返ってこなかった。
同じ現地にいるはずの外側だけが、遠かった。
「ノエル、聞こえる?」
聞き慣れない名前が、通信の中に混じった。
ノエル。
ハルは端末の入力欄を開いた。
意味は分からなかった。
ただ、レナが誰かに呼びかけていることだけは分かった。
「ログは後で合わせる。今は導線を開けて」
返答は、また聞こえなかった。
通信機の向こう側は、ハルの耳には空欄のままだった。
レナは、通信機から指を離さないまま、左手で足元を示した。
「そこ、踏まないで」
ハルは一歩ずれた。
床の金属板の一部が、わずかに浮いていた。レナはそれを見ずに避けていた。ハルには、指示されなければ踏んでいたかもしれなかった。
「エイルにはまだ上げないで」
レナの声が、また短く落ちた。
エイル。
前にも聞いた名前だった。
それが何なのか、やはり分からなかった。船なのか、場所なのか、班なのか。ハルの中で候補だけが増え、答えは増えなかった。
「こっちで確認してから」
通信機の奥で、ノイズが少し長く続いた。
レナはそこで足を止めた。
ほんの一呼吸分だけだった。
作業灯の光が、彼女の肩元の通信機を照らした。通路の奥では、工具音が一度止まり、すぐにまた動き出した。
「返事は後でいいよ」
レナはそう言って、通信機から指を離した。
「前、狭いよ」
ハルに向けた言葉だった。
「はい」
ハルは短く返し、端末に目を落とした。
――――――――――――――――――――――
【音声記録状態】
入力音声:断続
発話者識別:不安定
返答側音声:確認不能
記録保存:端末内一時領域
――――――――――――――――――――――
返答側音声、確認不能。
その表示は、ハルが聞いたものと一致していた。
レナの声は残った。
だが、通信の向こう側は、記録の中でも空欄だった。
ハルは、聞こえた範囲だけを入力した。
――――――――――――――――――――――
【ローカル観察記録】
通信音声:断続。
発話者:レナ・マーベット。
聞取範囲:
「第三区画、応答だけ」
「こっちは一人拾った」
「管理導線側」
「怪我は確認中」
「ノエル、聞こえる?」
「ログは後で合わせる」
「今は導線を開けて」
「エイルにはまだ上げないで」
「こっちで確認してから」
返答側音声:確認不能。
名称「ノエル」:詳細不明。
名称「エイル」:詳細不明。
――――――――――――――――――――――
入力しながら、ハルは何度か指を止めた。
第三区画。
ノエル。
エイル。
導線。
ログ。
どれも、単語としては残せる。
だが、それ以上は書けなかった。
ノエルが誰なのかは分からない。
エイルが何なのかも分からない。
第三区画がこの先の場所なのか、別の通路なのか、作業範囲なのかも分からない。
分からないことを、分かったことにはできなかった。
「今の、誰と」
ハルは小さく聞いた。
レナは前を見たまま答えた。
「後で話すよ」
「ノエル、というのは」
「名前だけでいいよ」
短い返答だった。
「聞こえた分だけ残して」
ハルは端末を見る。
「返答側は、拾えていません」
「聞こえてないなら、聞こえてないでいいよ」
レナは言った。
「それでいいよ」
それだけ言うと、レナはまた進み始めた。
ハルは後を追った。
通路の奥から、別の作業音が近づいてきた。工具を置く音とは違う。金属を引くような、重い音だった。その間に、誰かの短い声が挟まる。言葉は聞き取れない。だが、声量だけで、そこに複数の人間がいたらしいことは分かった。
らしい。
ハルは、その言葉を頭の中で選び直した。
いた、と断定するには、まだ足りなかった。
人声らしき音。
複数の作業音。
通信断片。
確認できるのは、そこまでだった。
ハルは追記した。
――――――――――――――――――――――
【追記】
通路奥より作業音、複数。
人声らしき音あり。
通信相手側の発話、確認不能。
通信先、詳細不明。
外部同期、未回復。
――――――――――――――――――――――
保存を押す。
画面の端に、小さく保存表示が点いた。
レナの通信は、どこかへ届いていた。
ハルの端末は、外部同期保留のままだった。
レオン先輩の声は、まだ届かなかった。
カーン調整官の説明も、ここにはなかった。
あるのは、断続する通信と、作業灯の下で続く音だけだった。
それでも、誰かがいた。
通信の向こうにも。
この導線の奥にも。
ハルは、聞こえたものと聞こえなかったものを分けたまま、記録を保存した。
後編に続く。