Beyond the Axis   作:Hisa/Coco

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第4話です。

前話から続きます。


第4話 通常監査対象外(前編)

Scene 1 残された覚書

 

数日が過ぎても、C-17の文字は消えなかった。

 

端末の通常画面には、もう表示されない。

 

業務割り振りにもない。

 

検索結果にも戻ってこない。

 

それでも、ハル・イルマの個人用覚書には、まだ残っていた。

 

 

――――――――――

【個人用覚書】

C-17。

サイド2外縁。

第七環境維持区画。

搬入実績、三か月空白。

環境維持装置、更新済み扱い。

定期応答、三か月前から減少。

――――――――――

 

短い言葉だけだった。

 

内部資料の写しではない。

 

画面を保存したものでもない。

 

外部に持ち出したものでもない。

 

業務中に確認した違和感を、忘れないために残した断片。

 

それだけのはずだった。

 

ハルは端末の前で、その文字を見つめていた。

 

第1監査局のフロアは、いつも通り静かだった。

 

白い照明。

 

低い声で交わされる確認。

 

資料の承認を知らせる短い電子音。

 

職員たちの視線は、それぞれの端末に落ちている。

 

何も起きていない。

 

C-17という文字が画面の端にあること以外は。

 

ハルは、通常業務の資料へ視線を戻した。

 

地方自治体補助金執行状況。

 

難民支援物資配分記録。

 

地球圏インフラ復旧予算。

 

どれも確認すべき仕事だった。

 

どれも、今のハルに割り振られた仕事だった。

 

だから、手順通りに進める。

 

資料を開く。

 

数字を追う。

 

前回報告との差異を見る。

 

必要な箇所だけ注記欄に残す。

 

監査官補としての仕事は、派手なものではない。

 

ひとつずつ照合し、確認し、残せる形に整える。

 

その繰り返しだった。

 

その数日間、ハルは通常業務をこなしながら、C-17そのものではなく、周辺から触れる手順を探していた。

 

ハルは何度も、その覚書を閉じようとした。

 

削除の文字に指が近づいたこともある。

 

けれど、そのたびに止まった。

 

消してしまえば、C-17が最初からなかったことに近づいてしまう。

 

そう思えてしまった。

 

レオンの声が、ふと頭に浮かんだ。

 

“消えている”はやめとけ。

 

あの時、レオンは笑っていた。

 

いつものように軽く、冗談めかしていた。

 

けれど、その目は笑っていなかった。

 

正しい違和感ほど、扱いを間違えるとこっちが潰れる。

 

ハルは、削除の文字から目を離した。

 

次に浮かんだのは、マカベの声だった。

 

気づいたことを、すべて口に出すな。

 

静かな声。

 

短い言葉。

 

余計な説明のない線引き。

 

記録が存在しないことと、お前に見えないことは違う。

 

それは、ハルを突き放す言葉にも聞こえた。

 

同時に、そこから先へ無防備に踏み込むなという警告にも聞こえた。

 

ハルにはまだ、そのどちらなのか判断できない。

 

アヤの声も残っていた。

 

そう表示されています。

 

その言葉は、冷たいようで、正確だった。

 

表示された事実の外へ出ない。

 

出られないのか、出ないようにしているのかはわからない。

 

そして、リアの言葉。

 

今日も届かない、という意味。

 

ハルは目を閉じた。

 

資料の端に添付されていた古い記録写真を思い出す。

 

薄暗い居住区の骨組み。

 

継ぎ接ぎの隔壁。

 

その手前に映っていた、小さな子供の背中。

 

C-17は、ただの文字ではなかった。

 

ただの案件番号でもなかった。

 

そこには、人がいる。

 

少なくとも、いた。

 

ハルは目を開けた。

 

覚書は、まだそこに残っている。

 

保存先も変えない。

 

外へ出さない。

 

誰かに送らない。

 

ただ、そこに残す。

 

それ以上のことを、今のハルがしていいのかはわからなかった。

 

だが、何もしないまま通常業務に戻ることもできなかった。

 

「まだ見てるのか」

 

隣から声がした。

 

ソウマ・ナギだった。

 

ハルは画面を少しだけ伏せるように角度を変えた。

 

隠すためではない。

 

ただ、反射的にそうしていた。

 

「見てるだけだ」

 

「その見てるだけって顔じゃないんだよな」

 

ソウマは椅子を少し寄せた。

 

端末画面を覗き込む位置までは来ない。

 

その距離の取り方が、数日前より少し慎重になっていた。

 

「消した方が安全だと思うか」

 

ハルは、自分でも少し意外なことを聞いたと思った。

 

ソウマは一瞬、返事に詰まった。

 

「俺に聞くなよ」

 

「だよな」

 

「安全策なら消す」

 

ソウマはそこで言葉を切った。

 

「でも、気になるなら残す」

 

ハルは横目で見る。

 

ソウマは少しだけ肩をすくめた。

 

「お前は後者の顔してる」

 

「どんな顔だよ」

 

「面倒なものを見つけたって顔」

 

いつもの軽口だった。

 

だが、そこには茶化しきれない何かが残っていた。

 

ハルは短く息を吐いた。

 

「面倒なものかどうかも、まだわからない」

 

「じゃあ、面倒になりそうなもの」

 

「余計悪いだろ」

 

「だな」

 

ソウマは小さく笑った。

 

その笑いはすぐに消えた。

 

「でも、無茶はするなよ」

 

ハルは答えなかった。

 

ソウマは続ける。

 

「レオンさんも主任も、止め方は違うけど、たぶん同じこと言ってる。いきなり突っ込むなって」

 

「わかってる」

 

「本当に?」

 

ハルは少しだけ黙った。

 

「わかってるつもりだ」

 

ソウマはその答えに、苦笑した。

 

「その言い方、わかってない奴の言い方だな」

 

「うるさい」

 

少しだけ、空気が緩んだ。

 

だが、C-17の文字は消えない。

 

ハルは覚書を閉じ、代わりに監査手順一覧を開いた。

 

画面に、標準手順の項目が並ぶ。

 

 

――――――――――

【監査手順一覧】

通常監査対象。

追加照会申請。

上位分類確認。

通常監査対象外案件。

関連支援計画照会。

――――――――――

 

どれも、見慣れた言葉だった。

 

研修でも扱った。

 

業務でも何度か見た。

 

正しい手順。

 

ハルは、その言葉に頼ろうとしている自分を感じた。

 

正規の手順で確認する。

 

そうでなければ、何も通らない。

 

通る形にしなければ、誰にも読まれない。

 

レオンも、アヤも、マカベも、違う言い方でそれを示していた。

 

ハルは、監査手順一覧の中から、関連支援計画照会の項目に視線を止めた。

 

C-17そのものを正面から追うのではない。

 

旧式居住区支援計画として。

 

サイド2外縁居住区として。

 

第七環境維持区画として。

 

それなら、通常手順の範囲に入るかもしれない。

 

いや、入ってほしい。

 

ハルは覚書を残したまま、照会申請の画面を開いた。

 

 

◇◇◇◇

Scene 2 照会申請

 

照会申請の画面は、思っていたより簡素だった。

 

余計な装飾はない。

 

説明も少ない。

 

白い背景に、整った入力欄と選択項目だけが並んでいる。

 

それは、ただの業務画面だった。

 

正しい手順を踏むための入口。

 

少なくとも、そう見えるものだった。

 

ハル・イルマは、端末の前で一度だけ息を整えた。

 

無断で追うわけではない。

 

外部へ出すわけでもない。

 

誰かに告発するわけでもない。

 

ただ、監査官補として、確認できる範囲を確認する。

 

そのための申請だった。

 

画面には、項目が並んでいた。

 

 

――――――――――

【照会申請】

対象区分を選択してください。

通常監査対象。

関連支援計画。

上位分類確認。

通常監査対象外案件。

その他。

――――――――――

 

ハルは、まず通常監査対象を選んだ。

 

 

――――――――――

【入力欄】

対象案件番号。

対象区画。

関連支援計画名。

――――――――――

 

順に入力欄が開く。

 

ハルは、覚書を見ずに入力した。

 

 

――――――――――

【対象案件番号】

C-17。

――――――――――

 

検索を実行する。

 

画面が一度だけ白く切り替わり、すぐに短い表示を返した。

 

 

――――――――――

【検索結果】

対象案件が確認できません。

――――――――――

 

ハルは指を止めた。

 

予想していなかったわけではない。

 

それでも、正規の申請画面で同じ文字を見ると、胸の奥が少しだけ沈んだ。

 

検索画面に出ない。

 

業務割り振りにもない。

 

そして、照会申請の対象案件としても確認できない。

 

ハルは、入力欄を消した。

 

次に、対象区画で試す。

 

サイド2外縁居住区。

 

第七環境維持区画。

 

今度は候補がいくつか出た。

 

 

――――――――――

【検索結果】

サイド2外縁居住区 環境維持統計。

第七環境維持区画 共用設備保守記録。

旧式居住区支援計画 関連予算資料。

環境維持装置更新 進捗一覧。

――――――――――

 

関連項目はある。

 

だが、C-17ブロックの案件本体は出てこない。

 

ハルは、関連支援計画を選んだ。

 

旧式居住区支援実績監査。

 

候補は表示された。

 

だが、その下に小さな注記が出る。

 

 

――――――――――

【画面表示】

対象案件を選択してください。

――――――――――

 

ハルは一覧をスクロールする。

 

 

――――――――――

【検索結果】

C-16。

C-18。

C-21。

――――――――――

 

見慣れてしまった隣接区画だけが、また並んだ。

 

C-17の場所だけが、空いたままだった。

 

ハルは、そこで画面を閉じそうになった。

 

けれど、指を止める。

 

ここで閉じれば、何も残らない。

 

通常検索で出ない。

 

割り振りにない。

 

照会申請でも選べない。

 

それだけが、また曖昧なまま残る。

 

ハルは、申請区分を変えた。

 

上位分類確認。

 

画面に、新しい入力欄が開く。

 

 

――――――――――

【上位分類確認】

対象案件番号または関連区分を入力してください。

申請理由を入力してください。

――――――――――

 

ハルは、もう一度C-17と入力した。

 

数秒後、表示が返る。

 

入力された案件番号は、現在の業務範囲に存在しません。

 

存在しない。

 

小さく呟きかけて、ハルは言葉を飲み込んだ。

 

存在しない、ではない。

 

今の業務範囲に存在しない。

 

その違いは、たぶん大きい。

 

けれど、画面に向かっているハルには、同じように冷たかった。

 

ハルは関連区分に切り替えた。

 

サイド2外縁居住区。

 

第七環境維持区画。

 

旧式居住区支援実績監査。

 

関連資料は開ける。

 

だが、照会対象としてC-17を選ぶことはできない。

 

まるで、周囲の廊下だけが残されていて、肝心の部屋の扉だけが壁になっているようだった。

 

ハルは申請理由欄に指を置いた。

 

ここに何を書くか。

 

それだけで、手が止まった。

 

不正。

 

そう書けば、簡単だった。

 

だが、その二文字は、端末に入力した瞬間に記録として残る。

 

誰が書いたのか。

 

いつ書いたのか。

 

どの案件に対して書いたのか。

 

すべて、監査記録になる。

 

消えた、とも書けない。

 

削除された、とも書けない。

 

隠された、とも書けない。

 

レオンの声がよみがえる。

 

“消えている”はやめとけ。

 

マカベの声も続いた。

 

気づいたことを、すべて口に出すな。

 

ハルは、申請理由欄に短く打った。

 

支援記録の再照合。

 

少し眺めて、消す。

 

再照合では弱い。

 

いや、弱いというより、違う。

 

次に入力する。

 

搬入実績確認。

 

これも間違いではない。

 

C-17で気になったのは、生活物資の搬入実績だった。

 

だが、それだけではない。

 

環境維持装置の更新済み扱い。

 

定期応答の減少。

 

支援継続という言葉と、そこにあるはずの生活の気配のなさ。

 

ハルはまた消した。

 

記録差異確認。

 

指が止まる。

 

どの言葉も正しく見えた。

 

そして、どの言葉も足りなかった。

 

ハルが見た空白には届いていない。

 

それでも、申請理由には言葉が必要だった。

 

強すぎる言葉は使えない。

 

弱すぎる言葉では届かない。

 

その間にあるはずの言葉を、ハルはまだ知らなかった。

 

ハルは最終的に、もう一度入力した。

 

 

――――――――――

【申請理由入力】

対象区画情報の照会。

支援実績記録の再確認のため。

――――――――――

 

慎重すぎるほど、無難な文だった。

 

問題提起ではない。

 

告発でもない。

 

不正の指摘でもない。

 

ただの確認。

 

それなのに、その文を見ていると、その空白がどんどん遠くなるような気がした。

 

ハルは送信ボタンに指を近づけた。

 

その前に、画面が切り替わった。

 

 

――――――――――

【画面表示】

対象案件が確認できません。

申請対象を選択してください。

――――――――――

 

理由欄に入力した文だけが、白い画面の下に残っている。

 

対象がなければ、理由も申請にならない。

 

ハルは、もう一度区分を変えた。

 

通常監査対象外案件。

 

その項目を選んだ瞬間、画面の表示が変わった。

 

 

――――――――――

【画面表示】

通常監査対象外。

照会権限がありません。

――――――――――

 

ハルは、しばらくその二行を見つめた。

 

正しい手順で確認しようとしている。

 

それなのに、その手順の入口が、

 

静かに閉じていた。

 

その時、背後から静かな声がした。

 

 

◇◇◇◇

Scene 3 アヤの助言

 

「その区分では、先に進めません」

 

アヤ・ミナセの声は、いつも通り静かだった。

 

責めるでもない。

 

驚くでもない。

 

ただ、端末に表示された結果を、そのまま言葉にしたような声だった。

 

ハル・イルマは、画面へ視線を戻した。

 

 

――――――――――

【画面表示】

通常監査対象外。

照会権限がありません。

――――――――――

 

白い画面の上に、短い文字列だけが残っている。

 

その下には、ハルが入力しかけた申請理由があった。

 

対象区画情報の照会。

 

支援実績記録の再確認のため。

 

慎重に選んだ言葉だった。

 

強すぎず、弱すぎず、業務上の確認として通るように削った言葉。

 

それでも、画面は先へ進まなかった。

 

「区分、ですか」

 

ハルが聞くと、アヤは小さく頷いた。

 

「通常監査対象外の案件は、通常照会では扱えません」

 

「でも、昨日は見られました」

 

言ってから、ハルは少しだけ息を止めた。

 

昨日見られた。

 

その言葉も、どこか危うい気がした。

 

アヤは表情を変えなかった。

 

「昨日見られたことと、今日照会できることは別です」

 

正しい言い方だった。

 

そして、正しいぶんだけ冷たかった。

 

ハルは画面の申請理由欄を見た。

 

「それは……おかしくないですか」

 

アヤはすぐには答えなかった。

 

端末の縁を押さえる指先が、わずかに動いた。

 

「おかしい、という言葉も、申請理由には向きません」

 

ハルは口を閉じた。

 

言葉が、また止められた。

 

消えた。

 

削除された。

 

隠された。

 

不正。

 

おかしい。

 

どれも、ハルの中にはある。

 

だが、申請欄には置けない。

 

置いた瞬間、それはただの感覚ではなくなる。

 

誰が、いつ、どの案件に対して、何を疑ったのか。

 

すべて記録になる。

 

アヤはハルの画面を見たまま言った。

 

「現在の業務範囲に存在しない案件には、照会理由をつけられません」

 

「現在の業務範囲に存在しない案件?」

 

ハルは反射的に聞き返した。

 

アヤは、そこで少しだけ言葉を選んだ。

 

「正確には、あなたの業務範囲では照会対象として確認できない案件です」

 

その言い方は、前にも聞いた線引きに似ていた。

 

記録が存在しないことと、

 

自分に見えないことは違う。

 

マカベの声が頭の中で重なる。

 

ハルは画面に視線を戻した。

 

「でも、実際には――」

 

「実際、という言葉も慎重に使ってください」

 

アヤの声が、ほんの少しだけ硬くなった。

 

「ここでは、記録に残ります」

 

ハルは、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 

実際には、見た。

 

実際には、空白があった。

 

実際には、搬入実績が三か月止まっていた。

 

そう言いたかった。

 

だが、それを証明できる公式画面は、今のハルには開けない。

 

自分の覚書はある。

 

記憶もある。

 

けれど、申請画面が求めているのは、記憶ではなかった。

 

区分。

 

対象案件。

 

照会理由。

 

権限。

 

その枠の中に入らないものは、言葉にした瞬間、余計なものになる。

 

「じゃあ、何と書けばいいんですか」

 

ハルは静かに聞いた。

 

声は荒れていない。

 

だが、自分でも硬くなっているのがわかった。

 

アヤは少しだけハルを見た。

 

「何を書くかの前に、どの区分で出すかです」

 

「その区分が選べません」

 

「はい」

 

「なら、申請できないということですか」

 

「その形では」

 

その形では。

 

ハルは、その短い言葉を頭の中で繰り返した。

 

できない、とは言っていない。

 

通らない、だけでもない。

 

その形では、進めない。

 

アヤは、端末の申請理由欄を指さした。

 

「疑義、消失、不正。そういう言葉を使えば、申請理由としては目立ちます」

 

「でも、使うなと」

 

「使うな、ではありません」

 

アヤは淡々と言った。

 

「使った記録が残ります」

 

正式な面談でも、休憩中の雑談でもない。

 

ただの端末前の短いやり取りだった。

 

それなのに、ハルは息苦しさを覚えた。

 

「まずいかどうかではありません」

 

アヤは続ける。

 

「残るかどうかです」

 

その言葉で、ハルはようやく理解した気がした。

 

アヤは、C-17の真相を話しているのではない。

 

ハルの疑問が正しいかどうかを判断しているのでもない。

 

彼女は、ハルが残そうとしている言葉の形を見ている。

 

この言葉は通るか。

 

誰に読まれるか。

 

どの部署へ回るか。

 

後から、誰の記録として参照されるか。

 

その先に何があるのかを、アヤは知っているのかもしれない。

 

あるいは、知らないからこそ、線の手前で止めているのかもしれない。

 

どちらなのか、ハルにはわからなかった。

 

「それでも、確認は必要だと思います」

 

ハルは言った。

 

アヤは否定しなかった。

 

「確認が不要だとは言っていません」

 

その返事に、ハルは少しだけアヤを見た。

 

「では」

 

「正面から照会する形ではありません」

 

アヤは、すぐに線を引いた。

 

「C-17ブロックそのものを対象案件として申請しようとしても、今の区分では入口で止まります」

 

「入口で」

 

「はい」

 

アヤは画面に表示された文字を見る。

 

通常監査対象外。

 

照会権限がありません。

 

「入口に立った記録だけが残ります」

 

その言い方は、静かだった。

 

しかし、冷たいほど明確だった。

 

ハルは送信ボタンから指を離した。

 

申請は、まだ送っていない。

 

だが、入力した言葉は画面に残っている。

 

対象区画情報の照会。

 

支援実績記録の再確認のため。

 

間違ってはいない。

 

けれど、足りない。

 

そして、そのままでは入口で止まる。

 

「正しい言葉でも、出す場所を間違えると、あなたの記録になります」

 

アヤが言った。

 

ハルは黙った。

 

正しい言葉。

 

出す場所。

 

自分の記録。

 

レオンやマカベの言葉とは違う。

 

もっと事務的で、もっと細い刃のような助言だった。

 

「それは、止めているんですか」

 

ハルは聞いた。

 

アヤは少しだけ目を伏せた。

 

「止めているように見えるなら、そうかもしれません」

 

曖昧な答えだった。

 

「でも、確認するなとは言っていません」

 

ハルはアヤを見る。

 

「少なくとも、その案件を正面から照会する形ではありません」

 

アヤはそれだけ言った。

 

そして、自分の端末を閉じる。

 

会話は終わりだと、その動作が示していた。

 

「アヤさん」

 

ハルが呼ぶと、アヤは振り返らずに止まった。

 

「どうして、そこまで言うんですか」

 

少しだけ、間があった。

 

アヤは振り返らないまま答えた。

 

「照会申請は、消せません」

 

それだけだった。

 

優しさではない。

 

説明でもない。

 

脅しでもない。

 

ただ、業務上の事実。

 

アヤは自分の席へ戻っていった。

 

ハルは、端末画面に残った申請欄を見る。

 

 

――――――――――

【画面表示】

対象案件が確認できません。

通常監査対象外。

照会権限がありません。

――――――――――

 

そして、その下に残る、自分が選んだ無難な言葉。

 

対象区画情報の照会。

 

支援実績記録の再確認のため。

 

ハルは、その文を消さずに、送信もしなかった。

 

ただ、画面を閉じた。

 

正面からは進めない。

 

その事実だけが、またひとつ、

 

書類の外側に置かれた気がした。

 




次話へ続きます。
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