Scene 1 休日の朝
朝の光は、仕事の日より少しだけ遅れて部屋に入ってきた。
ハル・イルマは、布団の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。
眠っていなかったわけではない。
むしろ、いつもより長く寝たはずだった。
それでも、頭の奥だけがまだ起ききっていない。
枕元の私用端末には、通知が二件残っている。
仕事用端末は、机の端に伏せて置かれていた。
昨夜帰ってきてから、そのままだ。
開いてはいない。
けれど、そこにあるだけで、昨日の言葉が少し戻ってくる。
確認。
記録の有無。
ハルは小さく息を吐いた。
休日の朝にまで持ち込むものではない。
そう分かっているのに、頭の片隅から完全には消えてくれなかった。
階下から、鍋のふたが小さく鳴る音がした。
「起きなさい。休日を寝て潰す気?」
いつもの調子だった。
ハルは天井を見たまま返事をする。
「起きてる」
「返事だけじゃ起きたことにならないのよ」
正論だった。
ハルは顔をしかめてから、ようやく体を起こした。
髪が寝癖で跳ねている。
着替える前から、もうベルトーチカに何か言われる未来が見えた。
階段を下りると、食卓には簡単な朝食が並んでいた。
卓上端末からは、低い音量で朝のニュースが流れている。
天気と交通情報のあとに、行政発表の見出しが画面の端を流れた。
ハルは、そこだけ意識して見ないようにした。
ベルトーチカは台所でカップを拭きながら、ちらりとハルを見た。
「休みの日まで、そんな眉間しないの」
「してない」
「してるわよ。寝起きなのに仕事中みたい」
「それは嫌だな」
「でしょうね」
ハルは反論を諦めて、椅子に座った。
食卓の空気は、昨日の夜より少し軽かった。
それでも、ベルトーチカは何も聞かない。
昨日の続きも、仕事の詳しい中身も、問いたださない。
その代わり、いつものように朝食を置く。
それがありがたくもあり、少しだけ居心地が悪くもあった。
ハルはスープを一口飲む。
温かい。
それだけで、職場の白い照明や端末の表示が、少し遠くなる気がした。
「ソウマ君たちとの約束、忘れてないでしょうね」
ベルトーチカが言った。
ハルは一瞬、何のことか分からなかった。
「……あ」
「少し前から決まってたでしょう。たまには外に出ろって、ソウマ君が言い出したんじゃなかった?」
「それは覚えてる」
「リアさんが集合時間と店候補まで整理してくれてるのに?」
「……時間を確認してなかっただけ」
「それを世間では、半分忘れてたって言うのよ」
言い返す言葉が出なかった。
ハルは私用端末を手に取る。
通知を開くと、ソウマからのメッセージが表示されていた。
――――――――――――――――――――――
『集合、忘れてないよな?』
――――――――――――――――――――――
その下に、リアからも短い追記が入っている。
――――――――――――――――――――――
『店候補、三つまで絞った。遅れたら決定権なし』
――――――――――――――――――――――
ハルは、思わず小さく笑った。
「何?」
ベルトーチカが聞く。
「ソウマとリア。集合忘れるなって」
「忘れてたんでしょう」
「忘れてはいない」
「はいはい」
ベルトーチカはあっさり流した。
その雑さが、妙に日常だった。
ハルはパンをかじりながら、もう一度私用端末を見る。
集合時間までは、まだ余裕がある。
だが、油断しているとすぐに迫ってくるくらいの時間だった。
仕事用端末の方へ、視線が一度だけ流れる。
黒い画面。
閉じたままの端末。
開けば、昨日の続きがある。
状態表示も、下書きも、あの中に残っている。
けれど、今日は休みだった。
「それは置いていきなさい」
ベルトーチカが言った。
ハルは顔を上げる。
「まだ何も言ってない」
「手がそっちに行きかけた」
見ると、たしかに指先が机の方を向いていた。
「……癖だよ」
「知ってるわ」
「見なくても分かるのか」
「見なくても分かるくらい、いつもやってるってこと」
ハルは少しだけむっとした。
「そんなに?」
「ええ。家の中にいるのに、急に局へ戻ろうとする」
「戻ってない」
「半分くらい戻ってたわよ」
ベルトーチカはカップを置き、声を柔らかくした。
「考えるなとは言わない。でも、今日は外に出なさい。前から決めてたんでしょう」
ハルは返事をしなかった。
仕事のことを考えない。
それは、たぶん無理だ。
けれど、仕事の言葉だけを見続けるのも、たぶんよくない。
昨日、ベルトーチカが言ったことを思い出す。
何を消さないか。
それは、机に向かっている時だけの話ではないのかもしれない。
「そのまま家にいられると、こっちが落ち着かないのよ」
ベルトーチカは、雑に付け足した。
「結局それか」
「それもあるわ」
「正直だな」
「親子で遠慮しても仕方ないでしょう」
ハルはスープを飲み干した。
言い返す言葉はいくつか浮かんだが、どれも朝から使うには面倒だった。
だから、黙って頷く。
「行ってくる」
「まだ着替えてもいないでしょ」
「今から」
「寝癖も直しなさい」
「分かってる」
「分かってる人は、今のまま玄関に行こうとしないの」
「母さん、今日うるさい」
「今日も、でしょ」
ハルは少しだけ笑って、食器を流しへ運んだ。
その途中で、もう一度仕事用端末を見た。
持っていく理由は、ない。
持っていかない理由は、いくらでもある。
ハルは端末を手に取った。
一瞬だけ、重さを確かめる。
それから、机の上に戻した。
私用端末だけをポケットに入れる。
それだけで、少しだけ身軽になった気がした。
もちろん、問いまで置いていけるわけではない。
昨日見た言葉も。
自分が残した問いも。
まだどこにも届いていない照会文も。
すべて、頭のどこかには残っている。
けれど今日は、その問いを持ったままでも、少しだけ違う場所へ行く日だった。
身支度を終えて玄関に向かうと、ベルトーチカが台所から言った。
「仕事の言葉ばかり見てると、普通の言葉を忘れるわよ」
ハルは靴を履きながら、少しだけ振り返った。
普通の言葉。
昨日から頭の中に残っているのは、どれも普通ではない言葉ばかりだった。
けれど、ソウマの軽口や、リアの短い文面や、ベルトーチカの雑な小言は、たしかに普通の言葉だった。
それが少しだけ、今はありがたかった。
「忘れないようにする」
「なら、ちゃんと楽しんできなさい」
「仕事じゃないんだけど」
「だから言ってるのよ」
そう返されて、ハルは肩の力を抜いた。
玄関を開ける。
休日の街の音が、外から流れ込んできた。
私用端末が短く震える。
ソウマからだった。
――――――――――――――――――――――
『遅刻したら置いてくぞ』
――――――――――――――――――――――
ハルは小さく笑って、歩き出した。
◇ ◇ ◇
Scene 2 待ち合わせ
駅前の商業区は、平日の朝とは違う音をしていた。
行政区へ向かう連絡通路では、靴音も、案内放送も、端末の通知音も、どこか急いでいる。
けれど休日の商業区では、人の流れが少しだけ緩い。
子どもを連れた家族。
買い物袋を持つ老夫婦。
店先の表示を見ながら足を止める若者たち。
飲食店の前に並ぶ短い列。
同じ都市の中にあるのに、仕事の日とは別の場所に来たようだった。
ハル・イルマは、待ち合わせ場所へ向かいながら、頭の中で時間を確かめた。
遅刻ではない。
ぎりぎりでもない。
少し余裕がある。
そう思ってから、自分がまた数字を拾っていることに気づいた。
時間。
表示。
人の流れ。
案内板。
休日の朝に家を出たはずなのに、目が勝手に情報を拾っている。
駅前広場の中央には、大きな案内表示が立っていた。
――――――――――――――――――――――
本日の混雑状況。
飲食フロア、一部混雑。
西側連絡通路、通常通行可。
屋外イベント、十一時開始予定。
――――――――――――――――――――――
ハルは、何気なくその表示を読んだ。
混雑。
通常。
開始予定。
どれも普通の言葉だった。
少なくとも、ここでは。
「お、来た」
柱の近くで、ソウマ・ナギが片手を上げていた。
軽い上着に、少し崩した襟。
職場で見るよりも、ずっと年相応に見える。
その隣には、リア・セレスが立っていた。
こちらは休日でも、あまり印象が変わらない。
無駄のない服装。
手には私用端末。
表情は静かだが、待ちくたびれた様子はない。
ソウマはハルが近づくなり、にやりと笑った。
「忘れてなかっただけ偉い」
「忘れてない」
「その返し、家でも言っただろ」
ハルは少しだけ眉を寄せた。
「何で分かる」
「分かるだろ。今も案内板の方、見てたし」
「目に入っただけだ」
「そういうところだよ」
ソウマは笑って、広場の案内表示を指差した。
「端末を置いてきても、読むもの探してるみたいな目してる」
「どんな目だよ」
「仕事の続きが、まだ画面の外に残ってると思ってる目」
「……そこまで言うか」
「言う。休日にその目は重い」
ハルは言い返そうとして、やめた。
完全に外れているなら、すぐ否定できた。
けれど、さっき案内表示の待ち時間を読んでいたのは事実だった。
リアが私用端末の画面を確認しながら言った。
「遅刻はしていない。ぎりぎりでもない」
「ほら」
ハルが安心すると、リアは続けた。
「ただし、集合時間は昨日送ってある」
「見た」
「今朝も見たなら、なおよし」
「監督されてるな」
「必要だと思った」
ソウマが吹き出した。
「そこ、否定しないんだ」
「否定する根拠がない」
「リアまで」
ハルは少しだけ肩を落とした。
リアは、それ以上からかわずに端末を差し出した。
「候補は三つ」
画面には、飲食店の一覧が整理されていた。
――――――――――――――――――――――
一つ目。
駅前食堂。
安い。
量が多い。
待ち時間短め。
二つ目。
北口の喫茶店。
落ち着いて話せる。
値段はやや高い。
席数少なめ。
三つ目。
商業棟三階の評判店。
混雑。
味は良い。
待ち時間、十五分から二十分。
――――――――――――――――――――――
ソウマは画面をのぞき込み、即答した。
「一つ目」
「理由は」
リアが聞く。
「量」
「予想通り」
「予想通りなら聞くなよ」
「一応」
「休日まで一応とか言うな」
ハルは思わず笑った。
リアは次にハルを見た。
「ハルは?」
「どこでもいい」
ソウマがすぐに顔をしかめる。
「出た。休日の敵みたいな答え」
「何でだよ」
「どこでもいいは、どこでもよくない時に言うやつだろ」
「俺は本当にどこでもいい」
「じゃあ一つ目」
「それはお前が行きたいだけだろ」
「量は正義だ」
リアが短く言う。
「ソウマの“どこでもいい”は信用しないことにしてる」
「俺だけかよ」
「今の流れでは、そう」
ハルはもう一度、候補を見る。
駅前食堂。
喫茶店。
評判店。
どれも悪くない。
どれかを選ばなければならないほどの理由もない。
だが、三つ目の欄に出ている待ち時間の表示に、目が止まった。
十五分から二十分。
短い。
普通の待ち時間だ。
昼時なら、むしろ短い方かもしれない。
それでも、待ち時間という言葉を見て、ほんの一瞬だけ思考が別の場所へ行きかけた。
ソウマが、すぐにそれを拾った。
「おい、看板まで点検するなよ」
「してない」
「今、待ち時間のところで止まっただろ」
「見えたから読んだだけだ」
「休日に言う台詞じゃないな」
リアも画面から顔を上げる。
「休みの日まで表示文を読むの、癖?」
「読むだろ。目に入ったら」
「全員は読まない」
「そうなのか」
ソウマが大げさにため息をついた。
「重症だな」
「監査局の教育が行き届いている」
リアの一言に、ソウマが吹き出した。
「嫌すぎる褒め方」
ハルも少しだけ笑った。
笑うと、肩のあたりが少し軽くなった気がした。
駅前広場の人の流れは途切れない。
誰かが待ち合わせ相手を探して手を振る。
小さな子どもが飲み物をこぼし、親が慌てて拭く。
店の前で、案内係が番号札を渡している。
全部、何でもない休日の景色だった。
その当たり前さが、少しだけ眩しかった。
「で、どうする?」
ソウマが聞いた。
「一つ目でいいんじゃないか」
ハルが言うと、ソウマは満足げに頷いた。
「ほらな。やっぱり量だ」
「ハルは量で選んでない」
リアがすぐに訂正した。
「じゃあ何で」
「近いから」
ハルは自然に答えていた。
ソウマとリアが、同時にこちらを見る。
「……いや、近いのは事実だろ」
「今、待ち時間って言いそうだったな」
「言ってない」
「言いそうだった」
ソウマが肩をすくめる。
「今日は監査禁止な」
「別に、監査してない」
「今のは六割くらいしてた」
「数値化するな」
リアは私用端末を閉じた。
「一つ目にする。移動距離も短いし、席も空いている可能性が高い」
「ほら、リアもそういう見方してるだろ」
ハルが言うと、リアは平然と返した。
「私は段取り。ハルは観察癖」
「差があるのか」
「ある」
「あるな」
ソウマまで頷いた。
ハルは不満だったが、言い返すほどではなかった。
三人は駅前広場を抜け、食堂街へ向かった。
商業区の通路には、新しいチェーン店と古い個人店が並んでいる。
明るい看板。
少し色あせた暖簾。
自動注文端末の前で迷う客。
紙のメニューを店先に貼っている小さな店。
行政区の白さとは違う。
整っていない。
けれど、その分だけ、人の手の跡が見えた。
ソウマは歩きながら、左右の店を見比べる。
「こういうとこ、久しぶりだな」
「そうなのか」
「最近、昼は庁舎の食堂か、端末片手に栄養バーだったし」
「それはソウマが朝ぎりぎりだから」
リアが言う。
「朝は人類に厳しい」
「ソウマにだけでは」
「ハルも人のこと言えないだろ。今日だって家出る前に端末持つか迷っただろ」
ハルは黙った。
ソウマが目を細める。
「図星かよ」
「持っては来てない」
「迷ったんだな」
「持っては来てない」
「そこだけ二回言うな」
リアが短く続ける。
「置いてきたなら、今日は勝ち」
「勝ちなのか」
「少なくとも、負けではない」
ハルは少しだけ笑った。
「もう端末の話やめないか」
「じゃあ休日の話にしようぜ」
ソウマは少し前を歩きながら言った。
「休みの日、普段何してんの」
ハルはすぐに答えられなかった。
何をしているか。
家の修理を手伝う。
本を読む。
簡単な買い物をする。
寝る。
仕事の資料を見ないようにして、結局少しだけ考える。
それを休日の過ごし方と呼んでいいのか分からない。
「……普通に」
「普通って何だよ」
「普通は普通だろ」
「出た。監査官補の曖昧回答」
リアが少しだけ首を傾げる。
「普通を定義できないのに、普通と言った」
「休日にそこまで詰めるな」
ハルが言うと、リアは小さく頷いた。
「今日は詰めない」
その言い方が妙に真面目で、ソウマが笑った。
「よし。じゃあ今日は普通に飯食って、普通に歩いて、普通に帰る日だな」
「それでいいのか」
「雑でいいんだよ、休日は」
ソウマはそう言って、先に店の前へ向かった。
駅前食堂は、リアの予想通り、まだ席に余裕があった。
入口には小さな案内表示がある。
ただいま待ち時間:約五分。
人数確認後、順番にご案内します。
ハルがそれを読んでいると、ソウマが横から覗き込んできた。
「また読んでる」
「読める場所に書いてあるからだ」
「今日は本当に休みだぞ」
リアが先に受付端末へ向かった。
「二人とも、置いていくよ」
ハルは小さく息を吐き、歩き出した。
仕事の言葉は、まだ頭のどこかに残っていた。
けれど今は、
ソウマの雑な後ろ姿と、
リアの淡々とした案内に従って、
昼の店へ向かうことにした。
◇ ◇ ◇
Scene 3 帰り道
食堂を出る頃には、駅前の人通りが少し増えていた。
昼食の時間帯を過ぎても、商業区のざわめきは途切れない。
店先の呼び込み。
小さな子どもの笑い声。
案内表示の切り替わる音。
通路の端で、誰かが買ったばかりの飲み物をこぼして、友人に笑われている。
どれも、仕事の日にはあまり耳に残らない音だった。
ハル・イルマは、ソウマ・ナギとリア・セレスの少し後ろを歩いていた。
食堂では、ソウマが予想通り量の多い定食を選び、途中で少し後悔した。
リアは最初から食べ切れる量だけを選び、最後まで表情を変えなかった。
ハルはその中間くらいのものを頼んだつもりだったが、ソウマに「安全策すぎる」と言われた。
何が安全策なのかは、最後までよく分からなかった。
「いや、量は正義だけどさ」
ソウマは腹のあたりを軽く押さえながら言った。
「正義にも限度があるな」
「食べる前に気づくべきだった」
リアが淡々と言う。
「写真と実物が違ったんだよ」
「写真にも大盛りと書いてあった」
「文字を信じすぎるのもよくないだろ」
「都合の悪い時だけそう言う」
ハルは少しだけ笑った。
朝より、笑うまでの距離が短くなっている。
仕事のことを忘れたわけではない。
けれど、食堂の騒がしさや、ソウマのどうでもいい主張や、リアの容赦ない訂正を聞いていると、頭の中に張り付いていた硬い言葉が、少しだけ遠くなる。
完全には消えない。
ただ、距離ができる。
それだけでも、息がしやすかった。
商業棟を抜けると、屋外広場に出た。
昼を過ぎた光は、朝より少し柔らかい。
広場の端では、小さな屋外イベントの準備が進んでいる。
簡易ステージの前に椅子が並べられ、係員が案内板を立てていた。
ソウマがそれを見て、足を止める。
「ちょっと見てくか?」
「開始まで二十分」
リアが即座に言った。
「調べたのか」
「表示されてる」
ハルは思わず案内板を見た。
――――――――――――――――――――――
屋外ミニ演奏会。
開始予定、十四時十分。
観覧自由。
――――――――――――――――――――――
ソウマがすかさず指を差す。
「ほら、ハルも読んだ」
「表示されてたから」
「今日は本当に休みだって言ったよな」
「読むくらいならいいだろ」
「読む時の目が仕事なんだよ」
リアが少しだけハルを見た。
「朝よりは薄い」
「何が」
「仕事」
ソウマが大げさに頷く。
「そうそう。朝は七割くらい仕事だったけど、今は三割くらい」
「数値化するな」
「監査局っぽいだろ」
「休日にまで寄せるな」
ハルがそう返すと、ソウマは満足そうに笑った。
リアも、ほんの少し口元を緩めたように見えた。
演奏会はまだ始まっていない。
だが、準備中のステージの横で、楽器を調整する音が少しだけ聞こえる。
誰かが弦を弾く。
短い音が広場に落ちる。
すぐに、人の話し声や足音に混じって消える。
ハルはその音を聞いた。
ただ、そこにある音だった。
しばらく三人で広場の端に立っていたが、ソウマが最初に伸びをした。
「やっぱ帰るか。俺、満腹で立ち見はきつい」
「食べすぎ」
リアが言う。
「それはもう認める」
「珍しく早い」
「今日の俺は成長してる」
「成長というより反省」
「厳しいな」
そんなやり取りをしながら、三人は駅へ向かった。
帰りの連絡通路に入ると、人の流れは行きよりも少し落ち着いていた。
午前中の浮ついた空気が、夕方へ向けてゆっくり畳まれていくようだった。
分岐点に差しかかると、リアが端末を確認した。
「私はここで別方向」
「相変わらず無駄がないな」
ソウマが言う。
「帰り道を先に決めておくと楽」
「休日も段取り」
「休日だから段取り」
ハルはその言い方に少し笑った。
リアはハルを見た。
「次は、集合時間を前日にもう一度送る」
「信用されてないな」
ソウマが笑う。
ハルは肩をすくめる。
「助かる」
「否定しろよ」
「実際、助かる」
リアは頷いた。
「では次回も送る」
「次回あるのか」
ハルが言うと、ソウマがすぐに返した。
「あるだろ。お前、休むの下手だし」
「今日で分かったのか」
「前から分かってたけど、今日で確定した」
リアも淡々と続ける。
「休みの日に休むのも、仕事のうちだと思う」
「それ、仕事の理屈じゃないか」
「ハルにはその方が通じる」
ソウマが笑った。
「言われてるぞ」
「分かってる」
ハルは苦笑した。
分かっている。
自分が休むのがうまくないこと。
仕事の言葉を、家にも、休日にも、少しずつ持ち込んでしまうこと。
完全に切り替えるには、まだ時間がかかること。
それでも今日は、朝よりは少しだけましだった。
リアは短く手を上げて、別の通路へ向かった。
「また明日」
「また明日」
ハルが返す。
ソウマも軽く手を振った。
「じゃあ俺もこっち。ハル、今日は帰って寝ろよ」
「まだ夕方前だぞ」
「じゃあ、寝る準備をしろ」
「早すぎる」
「休みの使い方、初心者っぽいからな。基礎からだ」
「うるさい」
ソウマは笑いながら、別の出口へ歩いていった。
少し進んだところで振り返る。
「次は、もうちょっと休みっぽく来いよ」
ハルは言い返そうとして、やめた。
代わりに、軽く手を上げる。
ソウマはそれで満足したように、雑に手を振って去っていった。
一人になると、周囲の音が少しだけ変わった。
さっきまで三人分だった歩く速さが、自分ひとりの速さになる。
ソウマの軽口も、リアの短い突っ込みもない。
駅の案内放送と、人の足音だけが残る。
ハルは私用端末を見た。
仕事の通知は来ていない。
当たり前だった。
仕事用端末は家に置いてきている。
私用端末には、ソウマから新しいメッセージが入っていた。
――――――――――――――――――――――
『次は量より味で選ぶ』
――――――――――――――――――――――
続いて、リアからも短く届く。
――――――――――――――――――――――
『次回候補、暫定で二件』
――――――――――――――――――――――
ハルは思わず笑った。
次回。
その言葉が、少しだけ柔らかく見えた。
まだ終わっていない仕事はある。
明日になれば、また端末を見る。
また状態を見る。
また、言葉を選ばなければならない。
けれど、今はその前だった。
今日の帰り道には、昼に食べた定食の重さと、ソウマの雑な笑い声と、リアの整った予定表が残っている。
それだけで、朝より少しだけ歩きやすかった。
家に着く頃には、空の色が少し変わっていた。
玄関の灯りは、まだついていない。
ハルは鍵を開けて中に入る。
「ただいま」
奥から、ベルトーチカの返事があった。
「おかえり」
短い言葉だった。
それだけで、家に戻ったのだと分かる。
ベルトーチカは台所から顔を出し、ハルを見た。
「少しは休めた?」
ハルは靴を脱ぎながら、少し考えた。
楽しかった、とすぐ言うには、少し照れくさい。
疲れた、と言うには、悪い疲れではない。
何でもなかった、と言うには、思ったより意味があった。
だから、少し遅れて答えた。
「……休めた、と思う」
ベルトーチカは、それ以上聞かなかった。
「なら十分」
それだけ言って、台所へ戻る。
ハルは廊下を歩き、自分の部屋に入った。
机の上には、仕事用端末がある。
朝、置いていったままの位置だった。
ハルはその前で一度だけ足を止めた。
開けば、明日のことが頭に戻ってくる。
まだ終わっていないこと。
まだ届いていない問い。
まだ確かめなければならないもの。
けれど、手は伸びなかった。
問いが消えたわけではない。
明日になれば、また見る。
また考える。
また、言葉を選ぶ。
それでも今日は、
閉じたままでもいいと思えた。
ハルは上着を椅子にかけ、私用端末だけを机に置いた。
画面には、ソウマとリアのメッセージがまだ残っている。
――――――――――――――――――――――
次は量より味。
次回候補、暫定で二件。
――――――――――――――――――――――
ハルは小さく笑った。
仕事の言葉は、完全には消えていない。
けれど今日は、
普通の言葉も、そこに残っていた。
後編へ続きます