そして、彼女たちは戦車に乗った。   作:kasyo

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治らぬもの

共同作戦が成功裏に終わり、数日が経過した。

基地の慌ただしさと喧騒はむしろ増していたが、ある種の平穏が戻りつつあった。

 

前線基地の片隅にあるエレーナの個室を、一人の男が訪れていた。

 

「もう傷口は塞がっておりますね、これなら抜糸しても問題ないでしょう」

 

エレーナの傷を見て、軍医が淡々と告げた。

 

「では、お願いするわ」

「中尉、少し痛みますよ」

 

軍医は鞄から器具を取り出すと、机に広げた布の上に手際よく並べていく。

 

ぱつり、ぱつり。

静かな個室に、糸を切る小さな音が響く。

エレーナは目を閉じ、身じろぎせず、その音をじっと聞いていた。

 

「終わりました。目をあけていただいて結構です」

 

エレーナはゆっくりと瞼をひらく。

 

「傷は塞がっていますが、力がかかればまたすぐに開きます。まだ数日は安静になさってください。」

 

軍医はそう言いながら、並べた器具を拭き清め、手際よく鞄へと戻していく。

 

「もし痛むようなら、薬を出しますのでおっしゃってください」

 

「ありがとう、大丈夫よ」

 

「それでは、私はこれで」

 

エレーナが短く礼を言うと、軍医は一礼して部屋を去っていった。

 

 

同じ頃、病棟の廊下を、エレーナの私服を抱えたアンナが歩いていた。

 

着替えを手伝うため、アンナは彼女の自室の扉を軽く叩いた。

 

「エレーナ様、お着替えのお手伝いに伺いました」

「アンナ? 開いているわ、入りなさい」

「失礼いたします」

 

そう言って部屋に足を踏み入れたアンナは、次の瞬間、目を見開いて愕然とした。

 

エレーナは軍服にその身を包み、ベッドの端に腰掛けていたのだ。

 

「アンナ、丁度よいところに来たわ」

 

平然と言い放ったエレーナの言葉に、アンナの頭は真っ白になった。

その場で固まってしまい、指先一つ動かせない。

 

「エレーナ様……その服を着て、一体どうなさるおつもりですか……?」

 

なんとかそれだけの声を絞り出す。

エレーナは当然と言わんばかりに、視線をアンナに向けた。

 

「決まっているわ」

 

「出撃よ」

 

「アンナ、来なさい」

 

そう告げると、エレーナはベッドから立ち上がり、歩き出した。

 

「エレーナ様、お待ちください!」

 

エレーナはドアを開け、廊下へと進み出る。

 

歩くたびに、傷が痛むのだろう。

時折、痛みに顔を歪ませるが、その歩みが止まることはなかった。

 

「エレーナ様! お待ちください! 軍医殿からはまだ、安静にするようにと言われております……!」

 

アンナが必死に背中に声をかけるが、エレーナは振り返りもしない。

うろたえながら追いかけていると、ひときわ大きな声がかけられた。

 

「エレーナ様! お待ちください!」

 

騒ぎを聞きつけ走ってきたのだろう。

息を切らせ、肩を大きく上下させたクラリスが、エレーナを呼び止めた。

 

「もう動けるわ、クラリス」

「あなたの戦車を借りるから、あと二人を呼んできて」

エレーナが振り返らず答えた。

 

「エレーナ様! お待ちください!」

 

「本日は、白百合中隊の出撃任務はありません!」

 

エレーナはまだ歩みを止めない。

 

「白百合中隊には、すでに司令部より別の任務が言い渡されております!」

 

「別の任務?」

 

そこまで聞いてエレーナはやっと歩みを止めた。

 

クラリスに案内された部屋には机が並び、中隊の面々が事務作業をしていた。

山に積まれた資料を読みながら紙の束に書き写している。

 

「先の共同作戦において、押収された資料の翻訳を行っております」

クラリスがエレーナの隣で状況を説明した。

 

「なるほど、そういうことなのね」

エレーナもやっと納得したようだった。

 

帝国の公用語と、敵国である連邦の言語、この二つの言語は似通っている。

そもそも連邦の文字は、かつて帝国の文字を拝借して成立したものだからだ。

 

文字体系そのもののは同じと言っていい。

もっとも、連邦は帝国の「文字」に独自の「音」を当てはめたため、口頭での直接会話は極めて困難だった。

 

さらに厄介なのは、現在連邦で使用されている文字とその文法が、二百年以上前の「帝国様式」を色濃く残しているという点だった。

それを読むということは、文字の形が変わってしまった現在では暗号解読にも等しい。

 

そこで、彼女たちが呼ばれたのだ。

 

帝国の貴族子女は、教養として幼少期から古典を学ぶ。

 

そして古典を学ぶためには、かつて帝国で使われていた、いわゆる「古代語」の素養が必須であった。

必然的に、彼女たちはみな古代語の扱いに長けている。

今回のような翻訳作業において、彼女たちはまさにこれ以上ない適材だった。

 

「まさか、戦場で役に立つとは思わなかったわ」

 

脳裏をよぎるのは、幼い頃に学んだ家庭教師の姿だ。

来る日も来る日も、古典を読み込む毎日。

 

周囲の貴族たちから、エレーナは「古典に造詣が深い」と思われている。

必要とあらば、古代詩をいくつも暗唱してみせることもできた。

 

だが、エレーナは古代語が苦手だった。

 

しかし、侯爵家の長女として、古典の習得から逃げることは許されない。

だからこそ彼女は、血のにじむような努力を重ね、古代語と古典を身につけたのだ。

 

「理解」するのではない。読み方と内容を、すべて「暗記」するという力技によって。

 

帝都の屋敷の一室、本棚にうずたかく積まれた夥しい数の古書。

それを頭に叩き込むという苦行。

 

古典の授業に比べれば、先生から受けたあの訓練の方が、よほど楽だった。

決して口に出すことはないが、エレーナの本音だった。

 

「私にも資料を頂戴」

 

エレーナはクラリスから資料の束を受け取るとページをめくった。

一行一行、たどたどしく翻訳を進めてゆく。

 

どうやら連邦軍の前線における補給物資の目録のようだった。

 

『弾薬』

『燃料』

『***修理』

『食料』

『生活物資』

 

「……凄まじい量の物資ね」

書き写された数字の羅列を見つめ、エレーナは素直に感心した。

 

戦場は底の抜けた樽のようなものだ。

どれほどの物資を注ぎ込もうとも、決して満たされることはない。

 

帝国側は、この中央回廊まで帝都から鉄路を敷き、物資を輸送している。

毎日、物資を満載した貨車が次々と到着し、戦線を支えていた。

 

しかし、連邦側がこの戦線の付近まで鉄路を敷いたという情報はない。

鉄路を敷けば、帝国軍にそれを利用され、逆侵攻を許す引き金になりかねないからだ。

司令部も、連邦がそれを恐れて鉄路の延伸を躊躇っているのだと推測していた。

 

だが、鉄路という大量輸送手段を持たないにも関わらず、連邦は帝国に劣らぬ規模の膨大な物資を、この中央回廊の最前線まで運び込み、維持している。

どれほどの人員をつぎ込んでいるのか。

途方もない距離を輸送して、車両や人員の消耗は計り知れない。

 

この戦争にかける、連邦という国家の底知れない執念の一端を、エレーナは見た気がした。

 

「エレーナ様、少しこちらをご覧になっていただけますか?」

 

一人の隊員が自分が翻訳していた報告書を、おずおずとエレーナに差し出してきた。

「この報告書、私たちのことではないでしょうか?」

 

エレーナは手渡された報告書に目を通す。

 

「……2ヶ月前……報告……発見された、かしら」

文字は追えるが、すぐには意味が繋がらない。

 

「『花の……****』その次は『黒い……高貴な花』? ……それと『雷の……車』……?」

 

たどたどしく指先で文字を追うエレーナの様子を見て、報告書を出した隊員は、みるみるうちに顔色を悪くした。

 

「エレーナ様…… まだ体調がすぐれないでしょうか? 心労をおかけしてしまい申し訳ございません……」

 

「いや、大丈夫、問題ないわ」

古代語を苦手としているなどとは言えないエレーナは、平然を装い、必死に報告書を読み解いてゆく。

 

高貴な花。雷の車。黒い。

それらの単語を組み合わせ、ひとつの解答を導き出した。

 

「黒百合戦車部隊」

 

「やっぱり! 確かにそう読めますよね!」

その言葉を聞いた隊員はやっと息ができるとばかりに、ぱあっと顔色を明るくした。

 

2か月前に発見された黒百合戦車部隊

 

自分たちの存在は、すでに敵に知られている。

敵の触手は、少し手を伸ばせば自分たちのすぐ足元にまで届いているのだ。

 

「私たちだけじゃない。向こうも、こちらを見つめているのよね」

 

エレーナは静かに呟いた。

考えてみれば、あまりにも当たり前のことだ。

敵の情報も知らずに戦う者など存在しない。

 

連邦も私たちのことを知っている。

敵の視線、エレーナはあらためてそれを肌で感じた。

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