白百合中隊の作業室、その机の上には、押収された資料がうず高く積まれていた。
ひとりの少女が、翻訳を終えた資料を封筒に入れて机に戻す。
そして新たな一冊を手に取ると、自らの席へと戻り、また翻訳作業を始める。
紙をめくる音、ペンを走らせる音だけが、静かな部屋に響いていた。
その静寂の中、ひとり、自らの内から湧き上がる「騒音」に悩まされている者がいた。
「はぁ……」
エレーナは大きなため息をついた。
苦手な古代語を相手にしている疲れだけではない。
自分でもわからない「何か」が溜まっていた。
作業室には、相変わらず静かな音だけが響いている。
まるで帝都にいた頃、家庭教師と向き合っていた時のような日常の音が、そこにはあった。
「……エレーナ様、お疲れでしょうか? 自室でお休みになられては……?」
普段と様子の違うエレーナを心配し、アンナがそっと声をかけた。
「いえ、大丈夫よ。問題ないわ」
心配そうに見つめるアンナから資料に向き直り、エレーナは翻訳を再開した。
そのやり取りを見ていた何人かの隊員たちも、心配げにエレーナを見つめる。
「早く作業を終わらせて、いつもの任務に戻りましょう」
エレーナがそう告げると、隊員たちは休めていた手を、再び動かし始めた。
さりさり、とペン先が紙を掻く静かな音が響く作業室。
だが、その静寂を破るものがあった。
「エレーナ中尉はここにいるか!」
作業室の扉が勢いよく開かれ、聞き覚えのある野太い声が響き渡った。
先生、エルンスト中尉だった。
驚いた隊員たちが手を止め、一斉に起立する。
「エレーナ中尉!」
エレーナの姿を見つけた先生が、もう一度その名を呼びかけた。
「あなたたちは作業を続けなさい」
それは、いつもと変わらない、沈着冷静な中隊長としての声であった。
「クラリス、あとは任せたわよ」
威厳のある声。それもいつも通り、クラリスに向けられる言葉だった。
「先生、私の執務室でお話を伺います」
努めて冷静な声で先生へ告げる。それもまた、いつもの声のようであった。
しかし。
それはどこか、歓喜の感情が混ざり込んでいるような。
クラリスとアンナは、確かにそう感じた。
だが、二人の視線に気づかぬまま、エレーナは先生を伴って作業室を後にした。
「エレーナ中尉! もう体はいいのか!?」
執務室に足を踏み入れるなり、先生の声が響いた。
「ええ、先生。もう大丈夫ですわ」
エレーナは澄ました顔で答えるが、その額には、生々しい傷の縫い跡が残っている。
「まったく、無理をするなと言っただろう。ご令嬢が顔に傷を作ってどうするんだ……」
「あら? 先生なら『戦場美人になった』とお褒めいただけると思っていましたのに」
エレーナがくすくすと笑う。
「本当に困った奴だ」
先生は、大袈裟に頭を振って大きなため息をついた。
「それにしても、うまくやったもんだな。お前たちのおかげで作戦はうまくいった」
先生が白百合中隊を率直に賞賛する。
しかし。
「だがな」と前置きをして、先生のお説教が始まった。
「エレーナ、あんな無茶はするもんじゃない。あんな戦い方じゃ生きて帰れんぞ」
「あら? わたくしは先生に教わった通りにしただけですわ?」
先生が優秀でしたの、とエレーナはふふふと笑う。
「全く……俺だって、あんな無茶なやり方は一度あるか無いかだぞ」
先生は「本当に困った奴だ」と、もう一度繰り返した。
「それにしても、あの状態でよく動かしているな。来るときにへ寄ってきたが、戦車の状態は最悪だぞ」
ちらりと、窓の向こうにの整備場へ目をやった。
「うちの子たちは扱いが上手ですから」
エレーナはにこりと微笑む。
「……ですが、もう流石に限界ですね」
整備を待つ車両を見た感想だけは、先生と同じだった。
白百合中隊が中央回廊に持ち込んだ第三世代戦車は、計15台。
そのうち、3号車と6号車を敵の攻撃で失った。
4号車はエンジン火災により破棄。
2台が故障により修理待ちで、1台は部品取りのために分解されている。
そして先日の共同作戦では、さらに2台が失われ、1台が修理待ちとなった。
現在、稼働できる台数はたったの6台。
白百合中隊は12台を定数としているため、現在はその半分しかない状態だった。
その残った6台の状態もひどいものだ。
整備は受けているものの、運用できる最低限の処置に過ぎない。
エンジンは不機嫌を口にし、装甲には痘痕が目立ち、履帯は金切り声を上げる。
「この状態では満足に戦えません。早々に修理が必要でしょう」
エレーナはそう言い切った。
次の瞬間、部屋の温度が下がる。
しかし、先生の変化にエレーナは全く気づいていなかった。
帝都にいた頃の、かつてのエレーナであったなら、その変化を見逃すはずはなかっただろう。
相手のわずかな言葉から、わずかな表情から、その心情を察する。
エレーナの違和感。
それは、白百合中隊を率いる責任、自らを死地に置く恐怖、そして、それらを己の中に封じ込める貴族の仮面。
エレーナは限界に達していた。
先生は静かに指を立てた。
「最悪な状態なのが、もう一つあった」
その指先が、まっすぐにエレーナへ向けられる。
「エレーナ、お前だ」
わずかな沈黙。
「……私ですか?」
エレーナは露骨に不機嫌な表情を浮かべた。
先生は一度天井を見上げ、それから、エレーナを見つめた。
「ああ、そうだ」
「お前は今、戦場の熱にあてられちまってる」
「怖くないだろ? 戦争が」
その言葉にエレーナの心臓の鼓動が早まる。
思い当たることがあった。
自分でもよくわからなかったもの、あの「何か」の正体。その答えを突きつけられ、納得してしまう自分がいた。
先生は目を閉じ、静かに語りだす。
「俺は長く戦場にいるからな。今のお前みたいなやつは、何人も見てきた」
「そいつらは、もう日常にいられない……常に戦っていないと不安になってしまう」
「常に戦っていれば精霊のお迎えも、すぐにやってくる」
再び開かれた先生の瞳が、強くエレーナを見つめた。
エレーナは何も言い返せなかった。
「手を出せ、エレーナ」
有無を言わせない、先生の声。
エレーナは無言で右手を差し出した。
先生はその右手を掴むと、強く握りしめた。
大きく節くれ立った手に握られる、汚れが染みたとはいえ華奢で可憐な手。
「……っ! 痛い……っ!」
エレーナの口から悲鳴が漏れた。
当たり前だ。怪我をした手を、そんな力で握れば痛むに決まっている。
「あっはっは!」
「これで、どう戦うつもりだ!?」
先生は豪快に笑い飛ばす。だが、その手はまだ、エレーナの手を強く握りしめたままだ。
「先生……っ! 手を……手を放してください……!」
痛みを必我慢するエレーナだったが、その瞳には、みるみるうちに涙が浮かんでいく。
それを見て、先生はようやく手を離した。
エレーナは肩を激しく上下させて呼吸を乱し、涙の滲んだ瞳で激しく先生を睨みつける。
「どうだ? 少しは目が覚めたか?」
先生は腕を組み、まだ笑っている。
「お嬢ちゃんたちと一緒に、しばらくはあの退屈な仕事をしておけ!」
作業室に現れた時のような、野太い声が執務室に響く。
「今回の戦いで流れが変わったからな。この先、連邦がどう動くかはわからんが、しばらくは静かになるだろう」
「奴らが今回失ったものは大きい」
「人員、装備、物資、拠点……これらをどうにかしないことには、向こうも大きくは動けまい」
「だが、この次はどうなるかわからんぞ」
「このまま引くか、それとも雪崩のように俺たちを飲み込みに来るか」
しばしの沈黙。
「ま、しばらく静かになることは確かだ!」
「しっかり体を治して、次に備えろ!」
先生が笑いながら言う。
「ええ、そう致しますわ」
「わたくしは、先生の言いつけを守る『良い生徒』ですもの」
エレーナは涙をこらえ、ぎこちない笑顔のまま先生を睨みつけた。