朝日の中、エレーナは整備場へと向かっていた。
起床すると同時に着替え、軽く体を動す、そして朝食をとり、戦車のもとへと足を運ぶ。
それが、今の彼女の新しい日常だった。
白百合中隊がこの中央回廊の地に初めて足を踏み入れてから3か月が経った。
中央回廊にも、夜が訪れるようになっていた。
ひんやりとした空気の中に、巨体が静かにたたずんでいる。
把手を掴んで車体をよじ登り、ハッチを開けて車長席へと潜り込んだ。
「エンジン始動」
エレーナが告げると、外部始動機が接続され、重いエンジンに火が入る。
「暖気をかけてエンジンと変速機をよく温めなさい」
エンジンの振動を感じながら、エレーナはそっと瞳を閉じた。
帝都を発ってから今日までの出来事が、脳裏を駆け抜けていく。
今なお前線では小競り合いが続いているものの、戦況は十分に対処可能な状況に落ち着いていた。
そのおかげで、白百合中隊もベッドで眠れる日が増えていた。
食事も変わった。
帝都で口にしていたものには到底及ばないが、それでも当初の「歯の折れそうな堅パン」は柔らかなパンへと変わり、「冷たい塩スープ」は、肉や干し魚、野菜が浮かぶ温かいスープへと変わっていた。
思い返せば、中隊が中央回廊へ着任した当時の戦線は、崩壊しつつあった。
敵の圧倒的な物量に押し込まれ、明日をも知れぬ状態。
帝国軍も、そして「貴族の遊び」と蔑まれていた白百合中隊も、死に物狂いで戦い続けた。
多くの人間が死んだ。
白百合中隊からも死者が出た。
乾坤一擲の共同作戦、そして、作戦の成功。
今、中央回廊には一時の、しかし確かな平穏が訪れていた。
それは単に作戦が成功したから、というだけではない。
そこに至るまでの血の道のり、終わることがないように思えた地獄の1日や、一瞬で過ぎ去った激戦の記憶、それらすべての積み重ねが、この静寂を生み出しているのだ。
「エレーナ中尉、5号の乗り心地はどうだ?」
不意にハッチから声が聞こえ、目を開けると、珍しく朗らかな笑みを浮かべた整備兵が覗き込んでいた。
エレーナは少しだけ口元を緩め、冗談混じりに返す。
「4号がホテルなら、これは帝都の屋敷くらい広いわね」
それを聞いた整備兵は、満足そうに笑みを浮かべ、そのまま去っていった。
一連のやり取りを見ていた車内の乗員たちは、これまで見たこともないエレーナのくだけた様子に、あっけにとられて固まっていた。
「……点検の続きを」
エレーナが促すと、「は、はいっ!」と乗員たちは慌てて作業に戻った。
正式な機種転換の命令を受けたあの日のことを思い出す。
エレーナやクラリス、そして数人の車長たちは、指揮所に呼び出されていた。
出迎えた司令官は、こう言ったのだ。
「よく来てくれた」と。
それは、その場に集まったことに対する儀礼的な感謝ではなかった。
司令官は語った。
白百合中隊が自前の装備で最前線まで来たこと、当初からそれなりの練度を保持していたこと、護衛任務を遂行できたこと。
それが大きかったのだ、と。
中隊が後方・護衛任務を一身に引き受けたことで、正規の戦車兵たちを正面戦闘へ回すことが可能となり、火力の劣勢を補うことができた。
さらに、練度の高い兵を新型の第6世代、第5世代戦車に集中投入したことで、地域掌握に成功したのだ。
防御から反撃へ、そして共同作戦へとつながる流れ。
そして、作戦の成功。
初めて経験する、静かな中央回廊。
連邦軍の基地を奪取してからは、敵の姿が大幅に減っていた。
司令官は、手元の資料をもとに現状を説明していった。
押収した敵の資料を分析した情報部によると、帝国軍と同じく、連邦軍の内部事情もまた、ひどい有様なのだという。
連邦の首都は最前線から遠い。
そのため、意思疎通の遅れや、それに伴う補給の遅延が重なっていた。
また、帝国に比べて現地の指揮官に与えられた権限が著しく低いため、最前線と首都の間で、深刻な温度差が生まれていた。
それこそが、帝国からすれば「共同作戦の奇跡的な成功」であり、連邦からすれば「最重要前進基地の喪失」という結果に繋がったのだ。報告書はそう結論づけていた。
「敵はどうやってこれほどの攻勢を維持しているのかと、ずっと疑問だったが……」
司令官は自嘲気味に呟いた。
「なんのことはない。奴らもまた、我々と同じように、すべてを注ぎ込んでいただけだったのだな」
「そのようですわね」
エレーナは司令官の言葉に、静かに同意した。
しかし、この戦果の裏には、帝国側にとって誤算もあったという。
それは、奪取したあの前進基地の重要性を見誤っていたことだ。
連邦が物資の集積基地を建設し、それを足がかりに進軍してきていること自体は、かねてからの既知の事実だった。
だが、今回奪取した基地は、中央回廊における最後の集積基地となる予定の場所だったのだ。
次に建設されるはずだった基地の予定地は、東壁のこちら側。
連邦は、あの基地を最終起点として、帝国の壁を食い破る計画を進めていたのだ。
「事実を知ったとき、司令部の人間は全員、肝を冷やしたよ」と司令官は苦渋の表情で語った。
「これからも、まだまだ忙しくなりそうだ、私も白百合中隊もな」
司令官は手に持った資料を机に置いた。
前進基地には詳細な作戦までは伝わっていなかったらしく、軍ではさらなる情報を集めていた。
そして、基地の修理、強化が図られることとなってる。
帝国軍は今、失ったものの大きさに直面していた。
兵器、熟練の兵、有能な指揮官、そして中央回廊の防衛設備。
急ぎ補充を行ってはいるものの、戦力を取り戻すにはまだ時間がかかる。共同作戦に成功したとはいえ、帝国軍にはこれ以上の攻勢をかける余力は残されていなかった。
そうした両軍の限界が重なり合った結果、中央回廊には、奇妙な平穏が訪れている。
だが、誰も休んではいられない。
帝国工場では兵器が生産され続け、訓練場には泥にまみれた新兵たちの声が響いている。
失った兵力を埋めるため、海軍からも陸上戦力が抽出され、戦場に置き去りにされた車両を回収するため、整備工場は休みなく稼働していた。
ほんのわずかだが、中央回廊に「日常」が戻ってきた。
それがいつまで続くかは誰にもわからない。誰もが、これが「かりそめの日常」に過ぎないことを理解していた。
それでも、人々はその訪れに、微かな希望を抱かずにはいられなかった。
死が当たり前になってしまったこの場所で、それでも誰も死にたくはなかったし、人を殺し続ける日常など、誰も望んではいなかったのだから。
だが、そんな感傷に関係なく、戦場は進んでゆく。
白百合中隊に配備された第5世代戦車「ヴィクトリア」への機種転換訓練は、驚くほど順調に進んでいた。
元来、帝都の騎兵化において、戦車部隊といえば誰もが憧れる花形職種であり、精鋭の象徴だ。
本来ならば、新しい戦車に乗るためには分厚い教本を頭に叩き込み、模型を使った訓練、厳しい試験を乗り越えてから初めて許されるような代物だ。
しかし、この最前線における機種転換のは違った。
「説明は聞いたな? よし、じゃあ乗ってこい」
それだけで終わりである。
もっとも、前線で機種転換を許されるということは、それだけで「技量充分」と認められた証拠でもあるのだが。
低い地鳴りのようなエンジン音が車内に響く、始動時のばらつきが消え規則正しく脈を打つ。
エレーナは車長席であらためて操作手順書をめくった。
それは3号戦車と大きく変わるものではない。
帝国では3号以降は概ね同じ設計思想が適用されているためだ。
基本的な操作は、従来の3号戦車と大きく変わらない。
帝国では3号以降、概ね同じ設計思想に基づいて設計されているからだ。
だが、この第5世代戦車「ヴィクトリア」は、帝国の歴代戦車の中では異質な背景を持っていた。
当時、新型の第6世代戦車の生産を最優先するため、このヴィクトリアに搭載されるエンジンには、生産余力のあった海軍の「小型舟艇用ディーゼルエンジン」が選ばれた。
つまり、車体ではなくエンジンに合わせて設計するというところから開発が始まった戦車なのだ。
馬力はあるが、舟艇用ゆえに大柄なエンジン、それを搭載するため、車体全体が想定よりも大型化した。
しかしそれが結果的に功を奏した。
車体の大型化によって砲塔の大型化が可能となり、強力な主砲の搭載と、装甲の最適な配置、さらには乗員の快適化へと繋がったのだ。
そこまでは、教本にも載っている話だ。
エレーナは、ページをさらにめくる。
ここから先は、戦場で得られた教訓だった。
『ディーゼルエンジンは被弾時の火災の危険性が低く、運用部隊より高評価を得た』
この意味を、エレーナは誰よりも理解できた。
かつて火災によって戦車を失い、自身も炎に巻かれ記憶が蘇る。
だが、利点があれば欠点も生まれる。
『低温時の始動性に難あり』手順書には、そう書き加えられていた。
エンジンが一度完全に冷え切ってしまうと、自力での再始動が困難になる。
それは、実際に戦場に出るまで分からなかったことだった。
海軍用のエンジンと、戦車用変速機の統合に不具合があり、始動時は十分な暖気を。
その他にも、戦場で発生した問題に対し、兵士たちが対処していった歴史が綴られていた。
かつては「じゃじゃ馬」と称されたこの鉄の馬は、戦場でエルンスト中尉たちによって徹底的に叩き直され、白百合中隊の届く頃には、紛れもない「名馬」になっていたのだ。
「エレーナ様、暖気完了しました」
操縦席から、アンナの声が響く。
「それじゃあ行くわよ、中隊、前進」
エレーナの号令の下、白百合中隊の新しい馬が走り出した。
熟成の進んだ車体、優秀な整備兵たち。
白百合中隊の機種転換は、驚くほど順調に見えた。
ただ、ある持ち場の人間を除いて。
それは装填手だ。
砲弾を戦車砲へと送り込む役目
今までは、彼女たちの小柄な体格が、3号戦車の狭い車内において利点となっていた。
しかし、この巨体の中ではそれが裏目に出た。
今までの3倍近くある砲弾を狭い車内で取り出して、揺れ動く車内で装填するのだ。
真鍮の殻に火薬が詰まった弾薬を揺れる車内で振り回す、1日の訓練が終わるころには装填手たちはへとへとに疲れ果てていた。
そんな彼女たちは訓練終わりに自分たちで訓練をするようになった。
整備工場に転がった鉄の塊を弾薬にみたて、持ち上げておろす、その動きを繰り返していた。
心なしか彼女たちの体つきが逞しくなってきたように思える。
頼もしく思う反面、これでよかったのかしら?と、思うエレーナであった。