「またこれに袖を通すことになるとは、思いもしなかったわ」
姿見に映る自分を見つめながら、エレーナはぽつりと呟いた。
一時の平穏が訪れた中央回廊。
そんな白百合中隊のもとへ帝都から届けられた荷物は、かつてのパレードで披露した純白の礼装であった。
「エレーナ様、おしろいはどちらにいたしますか?」
アンナが小箱を手に、鏡の中のエレーナに尋ねてくる。
「こちらののものは、少々色味が強いですが、お顔の傷を隠すにはちょうどよろしいかと」
そう言って、彼女は右手に持った小箱を差し出した。
「ありがとう、でもいつものものでいいわ」
エレーナは鏡の前の椅子に腰を下ろした。
「かしこまりました」
アンナは小机に道具を広げ、化粧の準備を始める。
「こちらでもエレーナ様のお肌は美しいですね。みな肌荒れに悩んでおりまして、美しさの秘密をお伺いしたいですわ」
刷毛が肌を撫でる心地よい感触が伝わる中、アンナは手を止めずに話しかけてきた。
「傷が目立ってしまうかと思いましたが……エレーナ様に失礼かもしれませんが、不思議と似合っておいでです」
アンナはふふ、と笑いながら化粧を続ける。
「もう、目をお開けになって大丈夫です」
促されて目を開けたエレーナは、鏡に映る自分の顔を見て、小さく息を吐いた。
「あなたにこうして化粧をしてもらうのも、ずいぶん久しぶりね」
「お屋敷にいた時以来ですからね、もう、ずいぶん昔のことのようです」
「そもそも、エレーナ様はよほどのことがない限り、ご自分でお化粧をなさいませんから」
「面倒なのよ」
「それより、驚いたのは皆の方よ。あんなに疲れ果てているのに薄化粧をしているんですもの」
弾薬の隙間で眠るような生活の中で、少女たちが頑なに化粧を忘れない。
そのことに、エレーナは心底驚いていた。
「エレーナ様」
アンナのピシリと張り詰めた声が、静かな部屋をさら静かにした。
「そのようなことは、決して外でお口になさってはなりません」
「エレーナ様はお美しいのでそう思われるかもしれませんが、他の女性から反感を買います」
「私もそう思います」
アンナのお説教が始まってしまった。
「私だって、それくらいは分かっているわよ……」
エレーナはバツが悪そうに、鏡の中で視線を逸らせた。
「さぁ、できました」
アンナは掛布を外すと、粉を払った。
「気が進まないけれど、行きましょうか」
エレーナは重い足取りで、部屋を後にした。
純白の軍服に身を包んだエレーナは、昇進の辞令と叙勲を受けるために司令部にいた。
着任時には白百合中隊に興味のない司令官であったが、激戦を命を賭して戦い抜いた今では、その戦いぶりを認めていた。
彼女たちはただの「お飾り」から、「仲間」となったのだ。
「エレーナ大尉、お前たちの肩もずいぶん重くなったものだな」
司令官が最後にかけた言葉は、帝都にいる者たちへの皮肉とエレーナたちの立場への憐れみに聞こえた。
以前と違うのは、エレーナの肩に星が増え、中隊の全員の胸に銀色の勲章が増えたことだろう。
いや、もう一つ、違っていることがあった。
それは、彼女たちが纏う「華やかさ」の中身だ。
久しぶりに着る華やかな礼装。それに心をときめかせていた少女たちは、もう、この中隊のどこにも存在しなかった。
『白百合中隊は中央回廊防衛戦において勇敢に戦い、皇帝陛下の臣たる者の本分を、その身をもって示した』
それが、今回の異例の昇進と叙勲の理由だそうだ。
もちろんその言葉を真に受けた者はいなかった。
皆、生き残るために戦った。
そして、生き残れなかった者もいる。
純白の儀礼服、5着は部屋に残されたままであった。
純白の軍服を纏い、戦車の前に整列する面々。
これから帝都で発刊される新聞の表紙を飾る写真を撮影するのだ。
帝都からやってきた広報部隊が写真を撮っていく。
帝国の武威を示す勇ましい戦車、その前に並ぶ可憐な少女達。
写真はその仮初の華やかさを切り取っていく。
直ぐ側には焼け焦げて修理不能となった兵器が並んでいる。
あの丘の向こうには中央回廊の土となった兵士たちの名も刻まれない墓標が並ぶ。
(私は今……上手く笑えているかしら……)
エレーナは上手く笑えただろうか、と心配していた。
そしてその気持ちを抱えたままシャッターは切られた。
撮影が終わると、純白の軍服はすぐに木箱の奥へと仕舞い込まれた。
それに名残惜しさを感じる者など、誰一人としていなかった。
今や、彼女たちの日常は、洗練されたドレスではなく、薄汚れた野戦服の中にこそあったのだから。
仮初の華やかさは瞬く間に影を潜め、過酷な戦場の日常が戻ってきた。
ただ、少し前と違うのは、前線へ出る頻度が減った代わりに、書類仕事が降ってくるようになったことだ。
大尉となったエレーナには、小さめながらも専用の執務室が与えられていた。
静かな室内に、ペンを走らせる音だけが響く。
控えめなノックの音ののち、ドアが静かに開いた。
「エレーナ様、そろそろ少し休憩になさいませんか?」
「ありがとう、クラリス。そうね、そうしましょうか」
エレーナは凝り固まった体を解しながら、差し出された紅茶を受け取った。
「こうして二人でお茶を飲むのはいつ以来かな」
軍用の金属カップに注がれた紅茶を見ながらクラリスがつぶやいた。
それは、どこか遠い日々を懐かしむような優しい口調だった。
今は伯爵令嬢でも、白百合中隊の副官でもなく、幼馴染の「クラリス」らしい。
「そうねぇ……」
エレーナは自分の記憶を手繰る。
…いつ以来だろうか、さっぱり思い出せない。
「思い出せないけれど、もっと美味しいお茶だったわ」
そう言って、エレーナは悪戯っぽく笑った。
それは、かつての帝都の社交界であれば「あなたの淹れた茶は不味い」そんな問題発言である。
しかし、今この場においては、『昔みたいに、気兼ねなく話しましょう』という、彼女なりの合図だった。
久しぶりに見る幼馴染の心からの笑顔に、クラリスは胸を撫で下ろす半面、あまりにも直接的すぎる物言いに苦笑いを浮かべた。
「そういえば、先日の写真が載った帝都の新聞が届きましたよ。エレーナが見たら、きっと小言が増えそうな気がしますけど」
クラリスは楽しげに笑いながら、新聞をエレーに手渡した。
「私だって、家庭教師みたいに小言を言っているわけじゃないのよ?」
新聞を受け取ると、今度はエレーナが苦笑しながら、紙面に目を落とした。
紙面には、中央回廊防衛戦における白百合中隊の武勲が、書き連ねられていた。
いささか誇張が過ぎる、半ばおとぎ話の英雄譚のようではあったが、戦意高揚を目的としたプロパガンダとしては、極めて無難な仕上がりと言えた。
ただ、エレーナの視線はある一点で止まった。
「エレーナ・バレンシュタイン大尉、ね。」
「やっぱり気になるよね?」
クラリスもその文面が気になっているようだった。
帝国貴族は慣例として従軍中に家名を名乗らない。
それはあくまでも皇帝の一兵であるという前提があるためだ。
従軍中の貴族は功績が求められる。
帝国を勝利に導き、その功績をもって貴族は再び家名を名乗ることが許される。
これは帝国の法律で定められたものではない。
しかし、それは貴族の矜持、その根幹に触れるものだった。
「帝国にとって久しぶりの戦争ではあるけれど、これを帝都に広めたら良い顔をしない貴族は多いでしょうね」
「新聞記者か軍広報かわかりませんけど杜撰ですよね」
クラリスもそう思っていたのだろう、エレーナの言葉を肯定する。
兵の功績を評価することが許されるのは皇帝のみである。
戦時中に家名を名乗るということは「私は功績を残した」と自らを評価するようなもので、帝国の成り立ちからすれば、極めて不敬な行為と言える。
そのため、一般的に従軍中の貴族は家紋に由来する一種の屋号のようなもので呼ばれる。
エレーナならば「百合の家のエレーナ」、クラリスなら「楓の家のクラリス」などだ。
もちろんそんな上品な呼ばれ方をされることはまれで、たいていは名前と階級で呼ばれることが常ではあるが。
「まぁ、帝都では担当の記者が冷や汗をかいているでしょうけれど、ここでは些細な問題ね。私が気を遣っていれば、それで済むわ」
エレーナは、ここ前線においては実害はないと結論づけた。
「まぁそうですわね」
クラリスも深追いするつもりはなかったようで、お茶を一口すする。
そして、悪戯を思いついた子供のように微笑むと、身を乗り出した。
「もうひとつ問題があるのですよ?」
「もうひとつ?」
エレーナは再び紙面に見渡したが、問題になりそうな箇所は見当たらなかった。
怪訝な顔で、幼馴染に続きを促す。
「エレーナが載ったこの新聞、兵たちの間で人気になっていてね、取り合いになっているんだって」
「あぁ!エレーナの美しさが皆にばれてしまいました!」
クラリスはそれはそれは楽しそうに、声を弾ませた。
「え? わたくしが?」
エレーナは完全に思考が追いつかず、間の抜けた声をあげた。
「ここには、娯楽なんて無いからね 、そこに「身近な美人」が載った新聞が届いたらどうなるかわかるでしょう?」
クラリスはくすくすと笑う。
彼女は普段の佇まいからは想像もつかないが、実はこういう世俗的で下世話な噂話が、決して嫌いではないのだ。
「最近、兵たちからの視線が気になりませんか?」
言われてみれば、ここ数日、周囲からの視線感じていた。
ただ、エレーナ自身はそれを「物珍しい貴族の女を見る目」か、あるいは「顔の大きな傷跡を憐れむ目」だとばかり思い込んでいたのだ。
「お顔に傷がついたときはどうなることかと思いましたが……ふふ、そんな程度の傷では、エレーナの美しさは隠せなかったようですね」
クラリスはからからと、愉快そうに笑った。
幼馴染のからかいに、エレーナは言葉を完全に失ってしまった。
エレーナは、男女の色恋というものを、貴族の義務として捉える教育を受けて育ってきた。
家と家との結びつき、結婚相手を敬い、愛し、世継ぎを産んで家名を繋ぐ。
彼女にとって、男女の交わりとはそれがすべてであったのだ。
人と人と、ただの男女の恋慕として考える事に慣れていない。
自分が男性からどう見られているか、それを考え出してしまったら、ただ顔を赤らめ、もう冷めた紅茶を熱そうにすすることしか出来なかった。