白百合中隊は、定期の哨戒任务を終えて基地へと帰投した。
帝国と連邦の双方が偵察部隊を繰り出しているため、敵を発見すれば戦車なり歩兵なりが出動こそするものの、本格的な戦闘に発展することは極めて稀だった。
お互いがじっと身を潜めて探り合い、次の発端に備えている。
エレーナはそう感じていた。
基地に戻っても白百合中隊の仕事は終わらない、戦車は、ただ動かすだけでも消耗していくのだ。
入念な点検、各部の軽整備、そして燃料や弾薬の補給作業、決して疎かには出来ない。
整備所の片隅で整備記録をつけていたエレーナは、ふと、複数の視線が自分に向けられていることに気づいた。
先日クラリスに言われた、新聞の件が頭をよぎる。
いまだに自分に向けられる熱い視線というものに慣れはしなかったが、エレーナは「貴族の娘として恥ずかしくない毅然とした行動をしよう」と心に決め、背筋を伸ばした。
「私はこれから、司令部へ作戦報告に向うわ。整備終わったら、白百合中隊は次の任務まで休憩とします」
「以上よ。クラリス、あとは任せたわ」
クラリスに後を任せ、エレーナは司令部へと足を向けた。
小さな執務室、報告書にペンを走らせる細い音だけが室内に響いていた。
あと少しで終わる、というその時、ドアが控えめに叩かれた。
「どうぞ」
エレーナが書類から目を離し、入り口へと視線を向ける。
「エレーナ様、少々お時間をよろしいでしょうか……」
入ってきたのは、心なしかいつもより元気のないクラリスだった。
「ちょうど終わるところよ、何か問題でもあったの?」
エレーナはペンを置き、室内の小さなソファーへ移動すると、クラリスにも座るよう促した。
「……娯楽に飢えているのは兵士の方々ばかりだと思っておりましたけれど……」
クラリスは右手を頬に添えて気怠げに肘をつき、ひどく物憂げな表情を浮かべた。
「私たちも同じだったようですわ……」
深く吐き出されたため息。その一画だけを切り取れば、深窓の令嬢である。
「……クラリス、話が見えないのだけれど、一体何があったのかしら?」
エレーナの困惑した問いかけに、クラリスはポツリ、ポツリと語りだした。
話によれば、いつも通り戦車の整備と補給を終えて、中隊の全員で一息ついていた時のこと。
隣の整備中隊にお茶と軽食の差し入れがあり、「量が多いので、もしよろしければ白百合中隊の皆さんもいかがですか?」と、お茶の席に誘われたのだという。
断る理由も特になかったため、彼女たちは一緒にお茶をいただき、軽食を食べていた。
すると、整備中隊の兵士の一人が、緊張しながらもこちらに話しかけてきたのだそうだ。
普段の帝都であれば、平民が貴族に気安く話しかけるなど、滅多に許されることではない。
しかし、お互いが地獄のような戦場を共に生き残り、一時の平穏を共有しているという極限状態が、身分の壁を曖昧にする奇妙な空気感を生んでいたのだろう。
クラリスも別段問題はないと判断し、一言、二言と言葉を返していた。
最初はポツポツとしたぎこちない雑談だった。
しかし、会話はあっという間に火がつき、気づけばまるで幼馴染や気の置けない仲間と談笑しているかのように、大いに盛り上がってしまったのだという。
「……始まりは整備兵の方からだったのですけれど、休憩時間の終わりの頃には、むしろこちら側の娘たちから熱心に話しかける始末で……」
さらに「また近いうちにお茶をしましょう」と、次の約束まで取り付けていたのだそうだ。
それだけなら、良い息抜きになったと喜ぶべきところだった。
しかしクラリスは、このお茶会を境に、中隊の雰囲気が目に見えて変わってしまったと感じていた。
一言で言うならば、「浮ついている」のだ。
今までの張りつめていた雰囲気が、かつての「おしゃべり好きな令嬢」の雰囲気に戻ってしまったそうなのだ。
仕事自体は問題なくしているようなので、クラリスは何も言うことが出来ず、エレーナのもとへ相談に来た、というのがあらましらしい。
「ここ最近はエレーナの新聞の件もあって、兵士の方からの視線を感じてはいましたが…」
「こちらも兵士の方に視線を向けていて、あちらもそれに気づいていたのでしょうね……」
クラリスは呆れたように呟く。
まるで私のせいのように言わないで欲しい、と思ったエレーナではあったが、とりあえずこの問題について対処しようと考えた。
「任務に支障が無いようであれば……」
エレーナは一瞬のためを置き、きっぱりと言い放った。
「貴族令嬢としての一線を守るというなら、好きにさせなさい」
「よろしいのですか?」
クラリスは驚きの表情を浮かべた。
「多少の息抜きは必要でしょう」
それに、とエレーナは言葉を付け加えて
「帝都のおしゃべり人形は本来それが普通なのよ」
エレーナはそう言った。
そして、明らかに失敗したという表情をした。
「……言い方が悪かったわね」
「おしゃべり人形」それは帝都なら子供の小遣いでも買えるおもちゃだ。
「えぇ……もう死者も出ております、軽率かと」
それは普段のクラリスによるお説教、と言うものではない。
紐を引くとカタカタと動きキーキー喋る子供に人気のおもちゃ。
「冗談でもお使いにならないように」
クラリスの声には怒気がはらんでいた。
人形のようにキーキーうるさい、人形のように気軽にやり取り出来る価値。
下位貴族の娘を侮蔑した言い方だった。
「私はあの子たちを侮辱したつもりはないわ」
エレーナの言い訳、それは全く本心ではないとも言い切れない鈍いものだった。
クラリスは何も言わなかった。
ふぅ、と深く息を吐き、言葉を紡ぐ。
「私が言いたかったのは、殺し合いをしてるのが普通じゃない、ということよ」
楽しくおしゃべりをしている姿こそが、彼女たちの「本来の姿」であり、中央回廊で殺し合いに身を投じている現状の方が、歪で不自然なのだ。
「……ええ。私はエレーナを信じていますから」
クラリスは、今回のところはそれで納得しておきます、そんな表情を浮かべた。
「とにかく、任務を怠らない限り、あの子たちは自由にさせなさい」
エレーナは額の汗を拭った。
「わかりました、そのようにいたします」
クラリスは真剣な表情で頷いた。
「でも、エレーナも後で様子を見に行ってくださいね?」
一言を付け加えて。
後日、隊員休憩室で隊員に囲まれ、整備中隊の誰が恰好が良いだとか、逞しい体つきだという話をさんざんと聞かされ、「この前の指示は失敗だったかしら…」と思ったエレーナがいた。
その日の夜、再びエレーナの執務室。
「クラリス、悪かったわね」
エレーナの謝罪にクラリスはわざとらしい怒り顔を浮かべる。
「だから言ったじゃない!本当に良いのかって!」
だが、もうすでにエレーナに一泡吹かせたと思っている表情が浮かんでいた。
「あの子たちが受けてきた教育を思えば、少し思うところはあるのだけれど……」
エレーナはそう呟くと、わずかに渋い顔をした。
下位貴族の娘は惚れやすい。
教育の場で何度も聞いた話だが、それを身をもって感じた。
だが、それは彼らなりの処世術なのだ。
家を支えるため、下位貴族の娘たちは、明日にでも顔も名前も知らぬ相手のもとへ嫁ぐことが間々ある。
そんな婚姻であっても、せめて少しでも幸せな結婚生活を送れるように。
嫁いだ瞬間に、すぐに相手を愛せるように。
そして、相手からも愛されるように、彼女たちはそう育てられるのだ。
「……私たちとは違うのね」
エレーナの言葉に、クラリスは静かに頷いた。
エレーナやクラリスのような貴族はそんな「雑」な教育はされていない。
顔も知らぬ相手に嫁ぐということは変わらないが、それは理性によって御するように教育されている。
結果は変わらないかもしれない、だが、その考えには大きな隔たりがあった。
「ふぅ……」
エレーナは額を指先で押さえ、深い溜息を吐いた。
「……あの子たちも貴族の端くれなのだから、自分が置かれた立場の委細は、重々承知しているのでしょうけれどね」
「……私も、そのように切に願っております」
エレーナとクラリスは、今度は仲良く揃って静かなため息を重ねるのだった。