「エレーナ大尉!」
エレーナの執務室の扉が勢いよく開け放たれ、手に高級酒のボトルを提げた先生が入ってきた。
彼は昇進祝いの品だと言って、酒瓶を机の上に置いた。
「ありがとうございます、先生」
エレーナは立ち上がり礼をする。
「ですが……私たちはお酒を嗜みませんよ?」
「そんなことは知っている! 整備科の連中にでも配ってやれ!」
そう言うと、先生はまるで自室であるかのようにソファへ腰掛け、エレーナを手招きした。
彼女が対面のソファに腰を下ろすと、自然と会話が始まった。
「昇進おめでとうございます」
先生の肩に目をやると、星が一つ増えていた。
「やめろやめろ。お前もわかっているだろ? 新しいのが入ってくるから、押し出されただけだ」
エルンスト大尉は、面倒事が増えてごめんだとばかりに手を振る。
「あら? そんなことをおっしゃったら、私も同じですわよ?」
エレーナは口元を抑えながら、くすくすと笑った。
「いや、お前は違う」
「十八歳の大尉なんて帝国初だぞ? その歳じゃ士官学校すら卒業できないだろうが」
「おまけに貴族位でも名誉階級でもなく、本物の帝国陸軍大尉だ」
エルンストの指摘通り、エレーナの階級章は以前のものとは形状が異なっていた。
貴族軍のものではなく、正規の帝国陸軍のものに変わっている。
「私もしがらみが増えて、肩が重くなっただけですわ」
エレーナは少しおどけるように笑ってみせた。
「まったく、その貴族らしい口の利き方はなんとかならんのか?」
やれやれ、といった表情を浮かべたエルンスト大尉が、そこでようやく本題に入った。
「実はな、来週からしばらく帝都に行くことになった。新人の訓練にな」
その言葉が耳に届いた瞬間、エレーナの表情から一切の感情が消え去った。
口元には先ほどまでの微笑みが残っている、しかし、それはまるで感情を塗りつぶしたかのような張り付いた笑顔だった。
「あー、違う違う。普通の騎兵科の連中だ。教育課程の仕上げに行って、そのままこっちまで連れてくるだけだ」
エレーナの表情で察したエルンストは、即座に彼女の懸念を否定した。
「また自分たちのような者が送られてくるのではないか」エレーナはそれを危惧したのだ。
「……それで、私たちに何かすることがあるのですか?」
わざわざ手土産まで持って現れたのだ。ただの挨拶であるはずがないと、エレーナは先を促した。
「察しがよくて助かる」
「俺と副官が帝都に行っている間、うちの部隊の指揮を頼みたい」
「俺が軍に入った頃からいる専任の下士官がいるから、細かい話はそっちから聞いてくれ」
「私が……指揮を、ですか?」
エレーナは思わず驚きの表情を浮かべた。
「あぁ、そうだ」
「お前たちは成り立ちが特殊だからな、今まで他人の部隊を率いたことはなかっただろ?」
「今の中隊は言葉にしなくても意思が伝わるだろうが、そうじゃない奴らの扱いも今のうちに覚えておいた方がいい」
エルンスト大尉はそう言い切った。
「それから、お前以外にも隊の指揮を執れる奴が必要だ」
「クラリスの嬢ちゃんは優秀だが、指揮官には向いてないな。お前が無茶をしないためのお守りが必要だしな」
少々失礼な言葉が聞こえた気がしたが、エレーナはあえて聞こえなかったことにした。
「それで、イザベラはどうだ?」
「そうですね……」
エレーナは自身の頬に手を当て、イザベラの印象を思い返す。
「簡単な印象ですが、イザベラは少しおとなしすぎるような気がいたしますわ」
9号車の車長。エレーナと同い年でありながら、落ち着いた雰囲気を持つ大人びた女性、それが彼女の印象だった。
「ですが、基本に忠実で非常に優秀です。クラリスのように、誰かに就けた方がよろしいかと思います」
エルンストはエレーナのイザベラ評を聞くと、満足そうに軽く頷いた。
「そうか。では、マリアはどうだ?」
「マリアはわかりやすく勝気ですね。新興の貴族家ですが、その分、少しも腑抜けていません」
5号車の車長。やや勇み足な傾向はあるものの、戦場を前にしても決して怯まない強さを持っていた。
「家で兵を率いる心得を学んでいるようですので、ちょうど良いかと思います」
先生は再び頷くと、今度は少し考えるような仕草を見せた。
「……エレザはどうだ?」
一瞬、エレーナは言葉に詰まった。
「エレザ様は……優秀な方ですし、冷静さも備わっていますので、指揮官に向いていると思うのですが……」
4号車の車長。一言で表すなら「優秀な女性」だが、その纏う雰囲気を単に優秀と言い切ってしまって良いものか、エレーナは判断に困っていた。
「その……私には、彼女の心の持ちようまでは、少し分かりかねるところがございまして……」
どうしても歯切れの悪くなってしまうエレザの印象を、エレーナはなんとか言葉にした。
するとエルンスト大尉は、「ふむ」と顎をさすって考え込んだ。
「まぁ、エレーナがエレザに対して思うところがあるのはわかる。あの家は、俺も苦手だしな」
先生の率直すぎる感想に、エレーナは思わず笑ってしまった。だが同時に、その答えに深く納得もした。
「だが、エレザは向いていると思う。マリアもお前の話を聞く限り問題なさそうだ」
「エレザとマリアに指揮を執らせてみろ。それで、イザベラには二人を支えるように伝えろ」
「わかりました。そのように手配いたします」
エレーナは少し緊張を帯びた表情で、しっかりと了承の言葉を返した。
「まぁ、これは練習だ。そんなに緊張するな!」
先生はそう言うと、いつものように豪快に笑った。
「それに、お前たちの乗る5号だが、長所から短所まで俺たちは知り尽くしている。この経験は、少しは役に立つと思うぞ」
その言葉を受けて、エレーナの胸が小さく高鳴った。
機種転換の訓練を続けているとはいえ、実戦経験の不足には少なからず不安を抱いていたのだ。
「そのお申し出は、とても助かります」
エレーナの顔に、安堵に似た表情が浮かぶ。
「あとな、うちの奴らも俺が率いるようになってから長いからな」
「たまには他の指揮下に入るって経験も、覚えさせたいという意図もある」
「まぁ、こっちにとっても練習みたいなもんだ!」
それに、とエルンスト大尉は言葉を付け加えた。
「今のお前なら、十分に指揮は執れると思っている。……成長したな」
その不意の言葉に、エレーナは思わず胸が熱くなった。
「いざとなったら、拳銃を頭に突きつける度胸があれば大丈夫だ。アンナにやったみたいにな」
ははは、と笑う先生。……どうやら真面目な話はここまでらしい。
先生には心から感謝している。しているが、いつも一言多いのだと、エレーナは心の中でそっと溜息をついた。
「せっかく帝都まで行くんだ。土産物の一つや二つは買ってきてやるぞ?」
それを聞いたエレーナはすっと立ち上がり、机の引き出しからあらかじめ用意されていた紙の束を取り出して、先生の前に差し出した。
「先生、助かります。実は隊員たちから要望が上がっていたのですが、補給課に断られてしまい困っていたのです」
エレーナは、完璧な「淑女の微笑み」を浮かべる。
「……これは、一つや二つか?」
手渡された紙の束に目を落とし、先生の顔が引きつる。
「ええ。各自、二つまでとなっております」
エレーナはさらに微笑みを深めた。
「よろしくお願いいたします、先生」
かつて新聞に掲載された引きつった笑顔とは比べものにならないほど、それは自然な笑顔だった。
先生はひどく渋い顔をしながらソファから立ち上がり、重い足取りで帝都へと向かっていった。