「今日は少し、退屈なお話をしますね」
イザベラは悪戯っぽく笑う。
彼女を囲んだ兵士たちの顔に疑問が浮かんだ。
「相変わらずの人気ね」
エレーナもイザベラを取り囲む人だかりを見渡した。
「そうですね。中隊でも特に人気があります。エレーナ様、どうぞこちらに」
アンナはエレーナのために空いた場所を見つけた。
「今日は帝国についてのお話です」
今日の講義が始まった。
「まず、皆さんにお聞きします。帝国とは何でしょうか?」
わかりますか? とイザベラは一人の兵士に視線を向けた。
「皇帝陛下です」
その兵士は淀みなく答えた。
「はい、それが分かっていらっしゃれば問題ありません」
イザベラはパチパチと嬉しそうに手を叩いた。
「帝国は皇帝陛下の祖、その御方から始まりました。それは今から八百年も前のことと言われております。帝都にある青年像、帝都を訪れたなら、一度は目にしたことがあるでしょうね」
あの像がその御方です、とイザベラが言うと、兵士たちの何人かが深く頷いていた。
「その『始まりの石』、今では初代帝とお呼びしておりますが、当時はまだ『帝国』という名はありませんでした」
その言葉に、周囲がざわつく。
彼らにとって「帝国」とはあまりにも普遍的な存在だった。
それが存在していない時代があったなど、想像すらできないほどに。
「最初は北部の小さな村だけでした。それが村を束ね、町を束ね、徐々に領地を広げていったのです。そして『帝国』という名が生まれます。今から五百年ほど前のことですね。」
「それから、もう一つ生まれたものがあります」
何かわかりますか? とイザベラは兵士たちに問いかけていくが、誰も見当がつかないようだった。
「ふふふ、ちょっと難しかったですかね?それは『貴族』です」
イザベラはそう言って楽しそうに笑った。
答えを教えられてもなお、兵士たちの顔には疑問が張りついている。
「貴族も、元々は皆様と同じ、一介の兵士だったのですよ」
その言葉に、兵士たちは一様に驚愕した。
「皇帝陛下と共に戦い、その功を認められ、皇帝陛下に仕えることを許された者。それが貴族の始まりです」
平民にとって貴族とは「偉い人」あるいは「怖い人」であり、その程度の認識で十分だった。
それが、元は自分たちと同じ兵士だったという事実に、静かな衝撃を受けていた。
「最初の時代に皇帝陛下に仕えた貴族家も、帝国の名と同じく、五百年ほどの歴史があります」
そう言うと、イザベラはちらりとエレーナの方を見た。
エレーナは無言のまま、小さく頷く。
「兵が貴族となるとき、皇帝陛下より家名と、そしてもう一つの名を賜ります。白百合、楓……そのような名を聞いたことはないでしょうか?」
その言葉に、兵士たちの視線がイザベラとエレーナの間を行き来する。
「最初の時代の貴族家は、植物の名を賜ることが多いですね。私の家は『樅』の名を賜りました。四百年ほど前のことです」
兵士たちは再び驚いた。
その家系の歴史の古さ。そして、目の前にいる温和な女性が「貴族」なのだということに。
何時も優しく語りかけてくれる姿が「怖い人」である貴族と結びついていなかったのだ。
「そのような成り立ちゆえ、貴族は戦いを厭いません。その矜持にかけて」
「私がここにいる理由でもありますね」
イザベラは穏やかに微笑む。
「それは皇帝陛下であっても同じです。決して、戦いを厭いません」
そこまで話したところで、イザベラははっと何かを思い出したような顔をした。
「あぁ、そうでした。皆さんは、どのようにして皇帝陛下が選ばれるか、ご存じですか?」
またしても兵士たちの顔に疑問が浮かぶ。
それは皇帝の選び方を知らないというより、「皇帝を選ぶ」という考えがが頭になかったからだ。
「これには、何の秘密もありません。皇帝陛下の実子の中から、最も優秀な御方が選ばれる。ただ、それだけです」
そのあまりに単純な理屈に、兵士たちの間から軽い笑いが漏れた。
「少し簡単に説明しすぎましたかね?」
イザベラは顎に指を当て、首を傾げる。
時折見せるこの仕草は可愛らしくも優艶で、兵士たちの何人かはこのためにに通っていた。
「でも、本当にそれだけなのです。皇帝陛下の実子であれば、お母様の身分も問いません。現に、当代の皇帝陛下の母君は平民出身の文官でした。『優秀であること』それこそが、唯一の資質なのです」
イザベラの説明は極めて簡単だったが、まぎれもない真実だった。
「そうね、それが全てね」
エレーナは、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「優秀であること」そして「それを選ぶこと」。
選ぶ側の立場であるエレーナは、その事実の重さを嫌というほど叩き込まれて育ってきた。
イザベラは、あえて最も重要なことしか語らなかった。
「もし優秀な者を選ばなかった場合はどうなるのか?」という疑問を、兵士たちに抱かせないように。
「愚鈍な者」や「自らに都合の良い者」を皇帝に据えようとした家が辿った末路。
かつて存在した貴族家の名を、エレーナは思い浮かべていた。
「ひとつ、面白いお話をしましょう」
イザベラは人差し指を立て、悪戯っぽく語りかける。
「兵士の皆さんの中にも、もしかしたら皇帝陛下と血のつながりがある方がいらっしゃるかもしれませんよ?」
その言葉は、兵士たちにとってまさに驚きの一言だった。互いに顔を見合わせ、周囲が一気にざわめき始める。
「皇帝とならなかった皇族は、官僚として宮廷に残るか、あるいは貴族家に嫁入り・婿入りすることがあります。貴族家に入った方には皇位継承権はありませんから、その子孫が平民になるということも、よくあることなのです」
兵士たちは納得したような、していないような、不思議な表情を浮かべている。
「この辺りは少し難しいですね。『皇帝陛下の子だけが、次の皇帝になれる』。これだけ覚えてくだされば十分です」
イザベラはそう締めくくった。
「今日は少し退屈で、難しいお話をさせていただきました」
「でも、ちょっとした驚きを感じていただけたなら、嬉しいです」
その言葉に、兵士たちは勢いよく頷いた。退屈どころか、驚きの連続だった。
「なるほど……。教師になる予定だった、というのも納得ね」
エレーナは小さく拍手を送った。
「イザベラが家庭教師でしたら、エレーナ様もきっと今以上に勉学に励まれたでしょうね」
アンナはイザベラを見つめながら、くすくすと笑った。
「戦争がなければ、多くの生徒に慕われる良い教師になっていたでしょうに」
「勿体ない」そう思った気持ちをエレーナは心の奥に押し込めた。
帝国では平民も幼いころに最低限の教育は受けられるが、それは帝国の法律を学ぶということに近い。
もっと言ってしまえば、自分の首が撥ねられない生き方を教えてもらうということだ。
一方で、貴族子女にとって教育とは、自らの身に纏う鎧だ。
不快や苦しみを噛みしめながら己の血肉にし、自らを家を守る鎧とするのだ。
しかし、イザベラの講義は、平民の兵士たちにとっては娯楽に近かった。
旅商人から遠い異国の話を聞くような、あるいは過去の英雄譚に耳を傾けるような、そんな時間だった。
「私たちにとっては常識のとはいえ、面白いお話だったわね」
アンナが頷く。それは彼女たちにとっても同じだった。
「何もなければ、彼女と同じ家に暮らしていたかもしれないわね」
エレーナはぼそっと呟いた。
「可愛げがあって、夫から愛される彼女の姿を見て、嫉妬したかしら?」
「エレーナ様なら大丈夫だったでしょう、普段はともかくその辺りはしっかりとされてますから」
アンナはエレーナの言葉を軽く受け流した。
「……可愛くないわね」
エレーナはアンナを軽く睨むとイザベラを見た。
今日の講義も終わりに近づいたようだ。
「また皆さんと面白いお話が出来ればいいですね」
イザベラは話をそう締めくくった。
皆がそれぞれの持ち場に帰るなか、イザベラは少し離れた場所に座る男性に声をかけた。
「ウィシウス伍長、今日もいらしていたんですね」
「今まで外の話を聞く機会が少なかったものですから、イザベラ様のお話を楽しく聞かせていただいております」
いつもは感情を表情に出さない伍長だが、このときは少し口元がほころんでいるように見えた。
そして、またひとつ木彫りの人形を手渡した。
「またひとつ私のお守りがふえました」
イザベラはそれを小物入れにしまった。
そして、今日一番の笑顔を浮かべて、
「また、聞きにいらしてくださいね」
口元の少しほころんだ伍長にそう告げた。