「良きに計らえ」
彼がその言葉を告げると、大臣たちは頭を垂れた。
まだ歳若い青年は当代の皇帝である。
古から続く帝国、その全ては彼のものだ。
青年は陽光の差し込んだ廊下を歩く。
長く続く廊下は皇帝の館とは思えないほど極めて質素な内装であった。
しかし、その価値を知るものからすれば、金銀に飾られた屋敷など取るに足らないと一蹴できるほどのものだ。
素朴な風合いの白い石造りの床。
だがその石には一片の瑕疵もなく、色合いや模様も全てが整えられていた。
壁を飾る臙脂色の布。
緻密に織り上げられた布は、深い臙脂色に染め上げられ、鈍い光沢を放つ。
廊下に並ぶ窓、そして硝子。
白く上品な窓枠に嵌められた硝子は、歪みなく光を通す一枚硝子であった。
飾らない美しさ、だがそれは皇帝の権威、権力を表していた。
廊下の突き当り、その最後の扉が開かれ、青年は自室へ入る。
彼の前や後ろに付き添った者たちは扉の前に立ち並ぶ。
「私たちはこちらで控えております」
使用人がそう告げると青年は無言で頷き、扉は閉ざされた。
この部屋には青年と、もう一人を除き立ち入ることは許されていない。
「その憂鬱そうなお顔、いつ見ても素敵ですわ」
ソファーに座った少女はそう言うと、にこりとほほ笑んだ。
青年は服の襟元を緩めるとソファーにふわりと腰かけた。
「レグザ、君はいつも楽しそうで何よりだよ」
「ふふふ、ありがとうございます」
レグザは淑やかに笑った。
「中央回廊について、でしょうか?」
レグザは立ち上がり、茶器を用意しながら言った。
「彼らは私を征伐皇帝としたいようだ」
青年は天井を見あげ息を吐いた。
「人並みに剣を振ることは出来る」
「馬で駆けることも出来る」
「でもそれだけだ」
「そんな皇帝に何が出来るというのか」
青年は皇帝になるつもりはなかった。
前皇帝の末子、母は元文官の平民、時期がくれば皇籍を排し、母のように帝国の官史となるつもりであった。
しかし、前皇帝の突然の崩御により全てが変わった。
この火急の事態にすぐさま帝国の要人が召集された。
大貴族に大臣、そして、目の前に座る少女、精霊の寵愛を受けた家の者が。
皇帝は他の者の推薦を受けて選ばれる。
「兄や伯父たち…いくらでもいただろうに…」
候補となるものは数多くいた。
先帝の兄弟、兄達、母に大貴族や皇族を持つ者たち。
その中から青年は選ばれた。
ただ候補者の中で「最も優れている」という理由で。
「あらあら、随分と弱気なことですね」
レグザはころころと笑った。
「皆様、あなたの実力はわかってらっしゃいます、もちろん私もです」
「最も優れたものを選ぶ」これは帝国において根幹を成す思想だ。
もし欲にかられ「愚帝」を選出してしまえば、その者は二度と日の当たる場所へは出てこられない。
「大丈夫ですわ、征伐皇帝もあなたのような気弱な青年だったとお祖母様は言っておりました」
青年は横目で少女を見た。
精霊の寵愛を受けた家。
それは帝国の始まりにはすでにあった。
帝国の始まり、それはある寒村に生まれた青年から始まった。
青年は村を守り、周辺の村々を束ね、発展させた。
そしてそれは雪玉を転がしたように拡大していった。
後に現れる、大陸西部をことごとく下し、帝国の形を作った「英雄皇帝」
そして、蛮族を追い返し、帝国を守り抜いた「征伐皇帝」
数多の皇帝たち。
そして、彼、当代の皇帝。
その直ぐ側に、彼女の家はあった。
「寒村の青年」の幼馴染であり最初の妻
「英雄皇帝」の数少ない友人であり妻の一人
「征伐皇帝」と共に中央回廊を駆けた妻の一人
帝国が大きく揺れ動くとき、彼女たちは皇帝の側にいたのだ。
そして、青年の心を許せる話し相手であるレグザ。
彼女もまた皇帝の側にいた。
「難しく考える事はありません、全てはあなたの心のままでよいのです」
レグザはよく笑う。
この世の事など全て些細なものだ、と言わんばかりに。
テーブルの上に茶が置かれ、湯気が静かに立ち上る。
レグザは先に口をつけた。
「君も私をあそこへ導くのかい?」
その問いにレグザはただ微笑むだけだった。
ふぅ、と息を吐き青年もカップに口をつけた。
「あそこは随分とひどい有様のようだ…」
大臣からの報告、軍高官からの説明、膨大な量の報告書、その全てが中央回廊の悲惨さを表していた。
「ここにいると、戦争をしているなどとても信じられないが…」
窓から差し込む陽光はとても静かで穏やかだった。
膨大な量の報告書、そして、青年の名が書かれた決裁文書、その一頁をふと思い出した。
「白百合中隊」
その言葉を口にしたとき、カップから立ち上る湯気がわずかに揺れた。
「エレザ、君の姉もあそこにいるんだろう?」
レグザはカップを置いた。
「私たちは己が運命を信じておりますので」
そう言うと青年の瞳をじっと見つめた。
「精霊に導かれる…か」
それは帝国においては死後に導いてくれる存在である。
だが、それは同時に死の香りが漂う、畏怖に近い恐怖を感じさせる存在でもあった。
精霊の家、彼女の家にまつわる、帝国貴族なら誰もが知っている噂話。
「あまりに古く、貴族制が生まれる前からあるため、家名や爵位を持たず、精霊の寵愛を受けた家、精霊の家と呼ばれる」
青年はただ言葉を放つ。
それは聞かなければならない、しかし、相手に向けてはいけない、そのような言葉だった。
「生まれるのは女子、そして、当主となる一人のみ」
此処までは表にある噂話だ。
この先は、
「そして、もし二人目の娘が生まれた場合は……長女は何らかの理由で命を失う」
一部の家のみが知る噂話、真相は誰も知らない。
「本当かい?」
放たれた言葉は、一つの出口に向かい噴出した。
恐らくこの問いを聞いたのは私が初めてだろうな、青年はそう思った。
レグザは相変わらずほほ笑みを浮かべている。
だが、全てが静止し、まるで時が止まってしまったかのようだった。
「本当ですよ」
時が動き出す。
「今までに三例ありました、そして、私たちが四例目になりますね」
レグザは悪戯が見つかった子供のように笑った。
「私が生まれた時にエレザの運命は決まってしまいました」
口調は相変わらず穏やかだった。
だが、青年には強い怒りの感情を隠しているように感じた。
「死に近い場所、死が不自然でない場所」
「お姉様はそんな場所に身を置きたかったのだと思います」
それは当主としてではない、エレザの妹としての言葉だった。
「先日、姉より文が届きました」
「毎日、退屈のしない暮らしを送っているようでしたわ」
「お姉様はお転婆ですからね、皆様にご迷惑をおかけしてないと良いのですが」
そう言うと、レグザは泣いたように笑った。