「いいか、お前たち。事が始まれば俺たちは他人だ」
帝国軍の制服に身を包んだ男たちが、輪になって立っていた。
「助けを求めるな。手を出すな」
輪の中心にいる男の言葉に、皆が無言で頷く。
その声には、どこか古風な帝国の響きがあった。
遠くから砲声が響く。
「合図だ」
「国の言葉なんて忘れてしまえ。どうせ戻れん。俺たちは今から帝国兵だ」
男の言葉に、乾いた笑いが漏れた。
砲声はさらに激しさを増し、撤退中の帝国軍の喧騒が広がってゆく。
男たちは、その狂騒の波の中へと静かに溶けていった。
第二中継地点。
帝国軍車列の最後尾がそこへ達した時、再び連邦による攻撃が始まった。
撤退開始からどうにかここまで持ちこたえてきたが、隊の維持はもはや限界に達している。組織的な抵抗など、到底望めない状態だった。
「先頭の車両は後退を優先しろ! このままでは身動きが取れず全滅するぞ!」
ブラッシカ中尉の怒声が飛ぶ。
だが、隊列の動きはどこまでも鈍い。下士官が走り回り必死に命令を伝えてゆくが、乱れはむしろ増してゆくばかりだった。
「くそ、来るなら来い!」
ブラッシカは苛立ちをぶつけるように戦車のハッチを叩いた。
連邦軍は野砲を用い、帝国軍を一方的に追い立てていた。
だが、最初の戦闘のような大規模な戦車の波が押し寄せてくる気配はない。
ただひたすらに、中央回廊の一本道を後退し続ける。
もはや戦局の主導権は自分たちにはない。その事実に、ブラッシカは奥歯を強く噛みしめた。
「中尉! ブラッシカ中尉! 司令部から電文です! 現在の状況を報告せよとのことです!」
混乱の中を通信兵が駆けてくる。
撤退当初は通信途絶に近い有様であったが、基地に近づくにつれ、幾分か改善されつつあった。
しかし。
「馬鹿野郎、と送ってやれ! そんなもの誰にわかるものか!」
前線と後方の温度差。かつて連邦を苦しめたその病は、いま帝国を蝕んでいた。
「いいか、帝国軍を休ませるな! 少しずつでいい、後退させ続けろ!」
野砲の地響きが、連邦軍前線指揮所の幕舎を揺らした。
連邦軍は帝国の侵攻を跳ね返し、逆に敵陣深くまで押し込むことに成功していた。
だが、返す刀で後方の補給部隊に甚大な損害を受けており、大規模な再侵攻など到底望める状態ではなかった。
それでも、ここで足を止めるわけにはいかない。
一度でも持ち直されれば、帝国軍は連邦を凌駕する圧倒的な組織力によって、あっという間に戦線を立て直してしまうだろう。
第一次侵攻の失敗から、連邦は嫌というほど学んでいた。
ならばどうするか。
相手に考える時間を与えない。とにかく状況を変化させ続け、対応の隙を与えない。
そのためだけに、連邦軍は限界を超えた追撃を続けていた。
そして、連邦軍にわずかな払暁が訪れる。
帝国軍が後退の際に破壊しきれなかった兵器や物資を、大量に鹵獲することに成功したのだ。
それは連邦軍が必要とする物資の、わずか数日分に過ぎない。その細い糸が切れれば、すべては終わる。
弾もなく、飯もない。ただ腹をすかせた人の群れに成り果てるだけだ。
それでも連邦は、その細い糸に賭けた。
そして、糸を手繰り寄せることに成功した。
かつて帝国軍を守っていた兵器たちが、いま、かつての主人へと向けられていた。
「道中で委細は聞いた。難しい判断であったと思う。よくやってくれた」
連邦軍基地に帰還したダイダは、出迎えた副官へ短くねぎらいの言葉をかけた。
当初の予定とは全く異なる形で始まった、帝国への再侵攻。
「イーセットが口を出したとは言え、実際に戦ったのは我らの兵だ。奴もそう大きな口は叩けまい」
よくやった。
ダイダは重ねて副官をねぎらった。
戦闘が落ち着けば、必ず手柄の話が持ち上がる。
イーセットが指揮を執り帝国軍に勝利した。そう戦況が確定してしまうことだけは、何としても避けねばならなかった。
だが、戦況はいまだ動き続けている。
連邦軍は薄氷を踏むような状態でありながら、なお侵攻を続けていた。
そこへ、ダイダが戻ってきたのだ。本国から、多くの兵を引き連れて。
ディフェンダの兵が帝国の侵攻を食い止め、さらにこれから第二次侵攻を開始する。
その最高指揮官はダイダ中将である。
その「事実」こそが、今この瞬間、何よりも必要だった。
「これからは忙しくなるぞ。休めるのは帝都に入ってからだ」
「えぇ。私たちとしても望むところです」
副官はそう言って笑った。
ダイダはすでに大量の兵と物資を連れてきていた。それだけでなく、本国からはさらに多くの兵と物資が送り続けられている。
帝国を陥とすまで、あるいは、連邦が空になるまで。
出撃の準備は既に整っていた。あとは命令を待つだけだ。
「うちの者たちは、もう出たのか?」
ダイダの問いは短く、その意味するところは曖昧だった。だが、指し示すものはただ一つしかない。
「はい。こちらが動き出すと同時に出立させました」
「そうか」
ダイダは短く答え、遠く戦線の先、帝国の姿を見据えた。
帝国兵に紛れて要塞群に潜入し、防御施設を内側から破壊する。
かねてより計画されてはいたものの、実行に移されたことはなかった。あまりに危険が大きく、成功の見込みが極めて薄かったからだ。
これまでは、亡命した貴族家の手の者を使い、同様の作戦が幾度か試みられてきた。しかし、成功例はほとんどない。
それほどまでに帝国の壁は高く、その防諜の網は細かった。
だが、今回は違う。
送り込まれたのは、ダイダに極めて近しい私兵たちだった。
元々、帝国内部への潜入のためだけに育て上げられた者たち。その全てが、この作戦に投入されている。
帝国東部要塞群への侵入は、外からも内からも、極めて困難なものだ。
だが、今ならば。
帝国軍が混乱の渦中にあり、戦況を正確に把握できずにいる、今この瞬間ならば。
それが、作戦実行に踏み切った理由だった。
すべては推測の上に組み立てられたものであり、確たる証はどこにもない。
それでも、これが最後の好機であることだけは確かだった。
そして男たちは、帝国軍の中へと静かに溶けていった。