「ようやく見えてきたな……」
ブラッシカ中尉は、長く重いため息を吐き出した。
帝国軍の敗残部隊は、まさに這う這うの体で前線基地へと辿り着いた。
それは「帰還」と呼ぶにはあまりに惨めなもので、多くの装備を道中に置き去りにし、動けない戦友を見捨て、敵の砲火に追い立てられるように走り続けた逃避行であった。
そこに、かつての帝国兵に見られた威容など、もはやどこにも残されてはいない。
敗残兵。
今の彼らを形容するのに、それ以上に相応しい言葉はなかった。
基地の門をくぐる兵士たちの姿は泥と煤にまみれ、その目には疲れ切った虚ろな光しか宿っていない。
出迎えた守備隊の兵たちが、息をのんでその凄惨な様を呆然と見つめていた。
久しぶりに目にした前線基地は、まさに槍衾と呼ぶに相応しい厳戒態勢であった。
見渡す限り幾重にも塹壕が掘り巡らされ、土嚢を積み上げた防御陣地があちらこちらに設けられている。
その光景を見つめながら、ブラッシカは戦車のハッチに手をかけたまま、しばらく動くことができなかった。
「ブラッシカ中尉」
下からの呼びかけに気づき、ハッチから視線を落とすと、そこには見知った顔、戦車隊で同期のアリウムの姿があった。
無事に、あるいは無様にも帰還した兵たちを取り囲む喧騒を離れ、二人は整備場の片隅に腰を下ろした。
「お疲れさん」
アリウムは多くを語らなかった。
ブラッシカは黙って差し出された一本の煙草を受け取ると、口に咥えて火をつけた。
深く吸い込むと、強い刺激が乾いた喉に刺さる。三日ぶりに味わう煙草の香りは、格別なものに思えた。
「……この有様だ」
ブラッシカの短く掠れた吐露。
その一言に、アリウムは無言で深く頷いた。
撤退開始からの断片的な状況報告、そして二日ほど前から途切れ途切れに復旧した通信により、基地側も遠征部隊が置かれた状況を把握しつつあった。
そして同時に、連邦の脅威についても。
「お前にどこまで話が伝わっているかは知らんが、上はここに陣を敷いて時間を稼ぐ算段だ」
「そうか」
ブラッシカは煙を吐き出しながら、周囲を見回した。
逃げ帰った兵たちの発する喧騒に加え、後方の要塞群から続々と送り込まれてくる大量の物資によって、基地内は溢れかえっていた。
聞こえていた情報では、「守備兵に帰還兵を合流させ、この前進基地を防衛線として再構築する」という方針であるらしい。
それに対し、ブラッシカは何も答えなかった。
前線の凄惨な状況と自軍の崩壊を目の当たりにしてきた者には、そのような計画が成功するなど、到底不可能であると思えたからだ。
ブラッシカはもう一度辺りに視線を巡らせ、とある「影」を探した。
しかし、広場を埋め尽くす兵士たちのどこにも、その姿は見当たらなかった。
「……嬢ちゃんたちは来ていないのか?」
当然、彼女たちもここにいるはずだ、そう疑いもしない問いかけであった。
しかし。
「白百合中隊は来ない。留守番だ」
アリウムは笑い、呆れたように首を振った。
それから彼が口にしたのは、大っぴらに話すにはあまりに憚られるような、軍部の内情であった。
曰く、「白百合中隊の『お姫様たち』を死なせるわけにはいかない」というものだ。
もし貴族の令嬢たちを前線で失えば、戦後に帝都へ戻った際、どんな責任を追及されるか分かったものではない。
そんなあまりに保守的な保身の思惑が、隠しようもなく滲み出ていた。
「帝都に帰れるとは……随分と強気なことだな」
力なく笑うブラッシカの肩を、アリウムは何も言わずに優しく叩いた。
「そう言えば、エルンストの奴はどこだ? あいつのことだ、誰かの戦車を力ずくで分捕ってでも前線に駆けていきそうなもんだが」
アリウムは周りを見回したが、ブラッシカはただ押し黙ったまま、煙草の火を見つめていた。
その沈黙にすべてを悟ったのか、アリウムは自身の懐から煙草を取り出すと火をつけ、そっと足元の地面へ置いた。立ち上る一本の煙が、風に揺れる。
「……俺にも、何がどうなっていたのかはよく分からん。あそこまでの混乱を見たのは初めてだ。味方も敵も、混乱にただ突き動かされているようだった」
ブラッシカはぽつり、ぽつりと、記憶を手繰り寄せるように語りだした。
そして、自分が見たエルンストの最後の姿を言葉にした。
「……まあ、いつも通りだったよ」
そう言って、ブラッシカは笑った。
『俺についてこい!』
そう怒鳴り散らすと、エルンストは敵の後方へ戦車を向け、そのまま走り去っていった。
それきりだ。
「あいつらしいな」
「全くだ」
アリウムも、ブラッシカも短く笑った。その笑いは喧騒の中へと消えていく。
二人の前を、疲弊した多くの兵たちが通り過ぎてゆく。
部隊は散り散りになり、隣を歩く戦友の顔すら見慣れない者ばかりだった。
「お前はこれから、司令部まで行くんだろう?」
「ああ。報告、報告、そして報告だ」
うんざりした表情で、ブラッシカはそう吐き捨てる。
現状を理解しつつあるとはいえ、前線を直接みた士官の言葉を司令部は何より欲していた。
「それでお前が、ここに送られてきたわけか」
「そういうことだ。理解が早くて助かるよ」
アリウムはブラッシカの穴を埋める形で、この前進基地へ送り込まれていた。
生き残った戦車兵たちをかき集めて再編成し、防御陣地を固める、それが司令部からアリウムに下された命令であった。
「……まだ俺にもよく分からんし、確証もないが」
ブラッシカはそう前置きすると、アリウムの目を真っ直ぐ見据えて語りだした。
「奴らは、戦い方を変えた」
「そのようだな」
アリウムは通り過ぎる兵たちの重い足取りを横目に見る。
己の知る戦いの常識、その経験から照らし合わせても、ここまでの壊滅的な被害は到底想像できないものだった。
「兵の練度は今までと変わらん。下手糞だらけだ」
だがな、とブラッシカは言葉を継ぐ。
「使い方が違う。あれはただの囮だ。戦いの駒じゃない」
ブラッシカは前線で直接肌で感じ取った、違和感を言葉にしていく。
「先鋒はただただ、こちらの体勢を崩し、引きつけるための囮というわけか。そして囮に食いついたところを、本隊に討ち取られる……と」
「ああ、俺の受けた印象はそんなところだ」
アリウムは前線の絶望的な混乱を、頭の中で鮮明に思い描くことができた。
なぜなら、もし自分が同じ局面に立たされていたなら、間違いなくブラッシカと同じように誘い込まれ、戦い、そして破れていただろうと確信したからだ。
だからこそ、腹の底から湧き上がる恐怖を感じていた。
「……厄介だな」
「ああ」
二人の間に、重い沈黙が流れる。
ブラッシカはふと、かつて交わした何気ないやり取りを思い起こしていた。
「前に、鹵獲戦車を白百合に回したことがあったろ? その時に嬢ちゃんが言っていたんだ」
大量に手に入った鹵獲戦車の運用評価を、白百合中隊に委ねたことがあった。
他の部隊の手が空いていなかったため、たまたま回された雑務のような仕事だ。
だが、その時にエレーナが発した言葉。
「自分なら隊を二つに分ける。一方が敵を引き付け、もう一方がその隙に敵を討ち取る」
まさに、いま連邦軍が実践している戦術そのものであった。
「……それに近いのかもしれんな」
その言葉に、アリウムは少し考え込んだ後、深く頷いた。
提出された報告書の片隅に記されていた、ほんの僅かな考察。確かに記憶の片隅に残っていたのだ。
「向こうへ行ったら、嬢ちゃんに直接話を聞いてみてくれ」
「ああ、そのつもりだ。それじゃあ、俺はそろそろ行くよ」
ブラッシカは立ち上がると、服についた泥汚れを払い、身なりを整えた。
「大尉殿によろしくな」
アリウムの背中への見送り言葉に、ブラッシカは苦笑いを浮かべて歩き出した。
「おい! すぐに呼び戻せ! 前進基地へ送った部隊へ、送れ!」
怒号と無線機の発する雑音が交錯し、司令部の幕舎内はブラッシカが到着した時点で混乱に陥っていた。
連邦軍の再攻勢が始まったのだ。
しかしそれは、いま逃げ帰ってきたこの前進基地に対してではなかった。
彼らが強襲したのは、中央回廊の『北部要塞群』。
主力を中央の前進基地へ集中させていた帝国軍にとって、まさに想定外の場所を突かれた格好であった。
混乱がさらなる混乱を呼び、怒声が飛び交う。
ブラッシカは報告を上げるべき相手も見失い、新たな指示を受けることもできぬまま、ただ茫然と周囲の狂騒を見つめていた。
そして、その人混みの中に、見知った姿を見つける。
「エレーナ大尉……!」
周囲の喧騒を他所に、エレーナは静かな足取りでこちらへと歩み寄ってきた。
「中尉、お久しぶりです」
その声には、どこか遠い場所から語りかけるような、よそよそしさが漂っていた。