彼女たちは今日も演習場にいた。
履帯が泥をはね上げ、ハッチから乗り出した体に降りかかる。
土と泥の演習場、そこに場違いな高級車が入ってきた。
「全車停止、その場で待機」
エレーナはそう命じると戦車から降りた。
見覚えのあるその車に歩み寄ると、降りてきた人物に驚いた。
「あら、あなたどうしてここに?」
それは侯爵家当主の筆頭使用人であった。
「お嬢様、旦那様がお呼びでございます」
「至急お屋敷へ」
筆頭使用人をこんな場所まで使いに出す。
何かただならぬ事態が起こったのだとエレーナは察した。
「着替える時間はあるかしら?」
泥の跳んだ服を指した。
そう尋ねたエレーナを筆頭使用人は無言で制した。
「お嬢様、お早く」
着替えの時間も惜しい。
その事実にエレーナは肝を冷やした。
「後はまかせたわ」
副官のクラリスへ短く告げ、油にまみれた手袋を渡すと、エレーナは野戦服のまま車に乗り込んだ。
「出しなさい、お屋敷へ」
そう告げると車は走り出した。
「何かあったのかしら?」
エレーナは尋ねる。
だが、
「旦那様から直接お聞きください」
筆頭使用人はそう答え、拭布を手渡した。
顔と手を拭う。
無言のまま車は屋敷へと向かった。
エレーナが屋敷へ着き車を降りると、出迎えたメイドたちが一瞬、驚きの表情を浮かべた。
すぐに表情は取り繕ったが、挨拶は動揺を隠せない声色だった。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
エレーナの使用人が声をかける。
「お父様はどちらに?」
「最奥の間でお待ちでございます」
お早く、その感情がこもった声で使用人が答えた。
屋敷の廊下を歩くエレーナ。
その姿はかつてのドレスに身を包んだ令嬢ではなく、汚れた野戦服を着た軍人の姿であった。
「父様、エレーナです」
軍人の真似事をせよ、そう言われた日と同じように、エレーナは控えめに戸を叩いた。
泥の散った野戦服、日に焼けた顔、油の染みた手。
エレーナの恰好を見ても侯爵は全く表情を変えなかった。
「座りなさい」
すでにソファーに腰を下ろしていた侯爵の対面にエレーナは座った。
「このような格好で失礼いたしました」
エレーナが形式的な謝罪を述べるが、返事は返ってこない。
それほど時間が惜しいということだった。
侯爵は話を始めた。
「結論から言う」
「東壁が食い破られた」
その言葉にエレーナは絶句した。
東壁
それは中央回廊の東端に位置する防壁である。
かつての「英雄皇帝」が大陸西部をことごとく平定し、そして歩みを止めた場所。
帝国最東部に位置するその防壁は、帝国と「それ以外」を隔てる絶対的な境界であった。
大陸東部からやってきた蛮族たちを打倒した「征伐皇帝」の時代に、再来を警戒して建てられた防塁が東壁の起源だ。
代を重ねるたびにその姿を変え、現在は大陸最東部にある「連邦」に対する要塞群となっている。
破られてはならない壁、それに穴が開いた。
「こちらに入ってきた連邦の蛮族どもはもうすでに対処した」
だが、と侯爵は言葉を続ける
「敵が雪崩を打ったように迫ってきている、兵の頭数が足りん」
エレーナは静かに侯爵の話を聞く。
そして、これから伝えられることを察し、父の瞳を見つめる。
「お前たちの部隊は優秀だと軍の者から聞いている」
帝都のパレードでの見事な操演、帝国各地を巡った際の立ち振る舞い、そして射撃演習、軍からエレーナ達の評価を聞いた。
そして、侯爵は決断した。
「私はお前を戦場に出すつもりはなかった」
「だがこの状況では戦車に乗れるものが一人でも多く必要だ」
「今のお前なら戦場で身を立てることもできよう」
侯爵がエレーナの目を見る。
「エレーナ、お前たちを中央回廊へ送る、蛮族どもを追い返せ」
エレーナは身じろぎせず侯爵の言葉を聞いた。
侯爵は言葉をつなぐ。
「アリエールは北部歩兵軍の指揮を執る」
アリエール・バレンシュタイン
エレーナの兄であり侯爵家次期当主
「お兄様が立たれるのですか?」
エレーナの口からつい声がこぼれた。
「そうだ」
「私が立ちたかったところだが、戦場に老いぼれを捨てに来たと思われてもかなわん」
戦える年齢の子息がいるのも関わらず、それを戦場へ出さない、家のために温存した。
そう捉えられては、帝国貴族にとって最大の悪評となる。
侯爵は口惜しそうに言った。
「急なこととはいえアリエールは軍を率いる立場となった、任地につき次第、私は当主を退きアリエールが侯爵家当主となる」
帝国の慣例として「皇帝陛下の軍」を率いるものは貴族家当主でなければならない。
そして貴族軍としてではなく、皇帝陛下から帝国軍の官位を賜る。
侯爵家では中将となることが慣例となっていた。
「だが、アリエールにはまだ子がおらん」
そう言うとテーブルの上に置かれた箱に手を掛ける。
箱の中には、白に銀の装飾が施された短剣が入っていた。
それは次期当主のみが帯刀を許される短剣であった。
「とりなさい」
侯爵はエレーナに告げる。
エレーナは両手で短剣を持ち上げた。
「アリエールに子が生まれるまでの間、お前を次期当主に任ずる」
エレーナは立ち上がり腰に剣を下げた。
「謹んでこの大任をお受けいたします」
「次期当主の名に恥じぬよう精進いたします」
エレーナは侯爵へ向かい礼の姿勢をとる。
その顔には迷いはなかった。