「白二から白百合へ。司令部から帰還命令が出ています」
「帰還? 停止ではなく? 詳細を確認して」
エレーナたちは、まだ北部へ向かう途上にいた。
そこで聞こえてきた「帰還」という言葉に、車内の雰囲気がにわかにざわつく。
「あー……少々お待ちを……」
イザベラが司令部に確認を取る間も、戦車はゆっくりと進み続ける。この時ばかりは、やけにエンジンの騒音と履帯のきしむ音が車内に響いた。
返答が返ってこないのか、しばらく沈黙が続く。
「あれは?」
しばらく進むと、先を進んでいたはずの歩兵部隊の車列が停止していた。
エレーナは中隊を停止させると、戦車を降りる。
「白百合中隊か。そちらにはまだ連絡は来ていないのか?」
「帰還命令を受けましたが、いま司令部に確認中です。どうなっているのですか?」
歩兵部隊の見知った顔の指揮官に声をかけられる。本来なら本部付きの要員であったが、現場まで駆り出されている様子だった。
「帰還命令?」
エレーナのその言葉に、指揮官の顔には疑問が浮かんでいた。
「こちらは停止命令だ。後退する北部軍を支援する。どうやら相当押されているようだな」
今度はエレーナの顔に疑問が浮かぶ。
北部軍が撤退を開始したとしても、もはやそれ自体に驚きはない。だが、だとしたら自分たちもその支援にあたることが無難であるはずだ。それはエレーナも、歩兵部隊の指揮官も同様だった。
二人とも命令の意図が読めず、当たり障りのない会話しかできないまま時間が流れる。
「エレーナ様」
しばらくすると、イザベラがエレーナの元へ駆け寄り、小さく耳打ちをした。僅かにエレーナの表情がこわばる。
「通信が入ったようなので失礼します」
お早く、そう急かすイザベラの言葉を受ける前に、エレーナは走り出していた。
「すぐそこまで連邦が迫っている。もう北部は維持できない。アリエール閣下も撤退を了承された」
司令部の地下指揮所には、砲撃の鈍い音が響き、戦闘用電灯の橙色の明かりが揺れている。北部要塞群はその機能をほぼ喪失し、陥落を待つのみとなっていた。
「早く燃やせ! 全部だ!」
落ち着いた声色の通信要員の後ろでは怒声が響き、兵たちが書類の束を慌てて抱え込むと外へ走り出す。その傍らでは、通信機に大金槌が振り下ろされた。
「退路が確保されれば撤退を開始する。まもなく通信が途絶するだろう。次の通信は中央回廊からだ」
そう言って通信要員は口角を上げ、送信口を手で押さえる。北部は連邦に包囲された。
「アリエール閣下からは何かございますか?」
肩に星の輝く通信要員が、背後に立つアリエールに尋ねる。
「代わってもらえるかな?」
アリエールがそう言うと、司令は席を譲った。
「私だ、アリエールだ」
すぅ、と息を吸い込み、話し始める。
「中央からの援軍に感謝する」
「北部要塞陥落の責は全て、アリエール・バレンシュタイン。私にある」
「北部軍の将兵たちは皆よく戦った。彼らや家族への支援を期待する」
アリエールのその言葉に、地下指揮所はしんと静まり返った。砲撃の音と銃声のみが、にぎやかに響いている。
「ん? あぁ、そうだね……」
何か聞かれたのか、アリエールは少し考え込むような仕草をしてから口を開いた。
「お転婆娘に、家に帰るように言ってもらってもいいかな?」
あぁ、よろしく。そう言ってアリエールは席を立つ。
「準備ができたら教えてくれ。私は部屋に戻る」
暗い廊下を進むアリエールの姿を、地下指揮所の者たちは無言で見送った。
「北部要塞を占領しました。現在、残存兵を掃討中です」
その報告に、連邦軍の幕舎は沸き立った。
歓声に包まれる中で、ダイダは次の報告を静かに待つ。
「我が方の損害は確認中ではありますが、およそ四割ほどと思われます」
その報告を聞き、ダイダはやっと息を吐いた。
四割の損害。それは通常ならば許容できないほどの損失である。しかし、この第二次侵攻においては「計画された損害」の枠内に収まっていた。
「中央はまだ抜けないのか?」
「帝国軍の激しい抵抗を受けております。防塁を破りましたが、まだ内部への浸透は出来ておりません」
その報告に幹部の一人は落胆の色を見せる。だが、
「お前は気の早い奴だな。ここまで来るのに何百年かかったと思っているんだ? 一日、二日で帝国の壁を破ってしまったら、他の四部族の顔が立たんであろう?」
ダイダはそう笑い飛ばした。それにつられ、幕舎の中に笑いが起こる。
「それで、再編成はどれくらいかかる?」
「動かすだけならあと三日ほどです。ですが、損害を受けた部隊を引き上げさせねばなりません」
北部要塞を落としたとはいえ、連邦軍も満身創痍であることに変わりはない。すぐに次の作戦へ移ることは難しかった。
誰もがそう考える。通常ならば。
「動ける部隊だけで構わん。すぐにこちらに合流させろ。二日だ。二日でやれ」
「ですが、守備兵力が……」
せっかく落とした要塞を空にする。それでは敵に取り返してくれと言わんばかりの行動だった。
「動けない者がいるのだろう? ならばそれを置いておけ。外から見れば兵には変わらん」
それはあまりに常軌を逸した戦術だった。
「どうせ帝国は何も残しておらん。何もないところを取り返しに来るほど、帝国も愚かではないだろう。いま奴らが見ているのはここだ」
ダイダが指さすのは、中央回廊に空けた穴だった。
「奴らは何としても此処をふさぎに来る。北部から引き上げた兵をここに充てる腹積もりだろう」
「そこを叩く。壁のない兵など恐れるに足らん。一気に踏みつぶす」
ダイダは拳を力強く振り下ろす。
「作戦開始は五日後だ。討議を始めよ」
その号令を受け、討議が始まる。
そこに集まった者たちは、もはや帝国の壁など見ていなかった。
彼らはその先を見据えていた。
帰還した白百合中隊を待っていたのは、立ち上る黒煙と破壊された建物だった。
そこかしこで炎がくすぶり、兵士たちは瓦礫の山の中を慌ただしく走り回っている。
喧騒の中を進み、整備所へ向かう。しかし、そこに出発時まであったはずの建物は見る影もなく、巨大な大穴が開いていた。
白百合中隊と白二中隊は、その近くに戦車を停める。
「手酷くやられたわね」
エレーナは小さく呟くと戦車を降りた。すると、喧騒の中から一人の兵士がこちらへ走ってくる。
「エレーナ様! 急ぎ司令部までお越しください!」
中央回廊指揮所。
初めて中央回廊に降り立った日、そしてここに来た時、エレーナを迎える者はいなかった。
だが今は、ここにいる全ての高級幹部が並び、エレーナの到着を待っている。エレーナはその中をまっすぐ歩いていく。
後ろにはクラリスとエレザが続いていた。
「エレーナ大尉、任務ご苦労だった」
司令の言葉に、静かだった周囲がさらに静まり返る。
「アリエール・バレンシュタイン中将が、北部要塞で戦死なされた」
その言葉を聞いても、エレーナの表情は変わらない。
「エレーナ様に、皇帝陛下より電文が届いております。また、先々代バレンシュタイン侯爵からも届いております」
どうぞこちらを、そう言って司令はエレーナに電文を手渡す。
本来ならば古式ゆかしい便箋で届けられるべき書状だが、そこにあったのはいつもの指示書と変わらない簡素な用紙に印字されたものだった。
エレーナは無言で読み進める。一通、二通と目を通し、ふぅ、とひとつ息を吐いた。
「クラリス、面白いことが書いてあるわよ」
エレーナは書状をクラリスに手渡す。クラリスは表情をこわばらせながら二通を読み進めた。
「お父様も随分とお優しくなられたものね」
あと少しで読み終わる、そんなときにエレーナは小さく呟く。
「エレーナ様は、バレンシュタイン家の当主となられました。よってこの時より帝国陸軍中将、そして当軍区の最高指揮官であります」
司令、そして幹部たちが一斉に敬礼をする。エレーナはそれに小さく返した。
「ね? 面白いでしょう?」
エレーナは小さく耳打ちをする。クラリスは何も言葉を返すことができなかった。
「エレーナ中将には、バレンシュタイン家より至急帝都へ戻るようにとのご命達です」
重い沈黙の中で司令が口を開く。
エレーナは悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべる、そして。
「わかったわ。でもその必要はないわね。これから討議を始めます」
「これから忙しくなるわよ」
その言葉に異を唱えることのできる者は、この場にはもう誰もいなかった。