「以上が帝都防衛戦の戦況です」
帝国の大臣たち、そして皇帝の前で、帝国軍の最高司令官が戦況を述べる。
戦闘は帝都から遥か東の中央回廊より始まったが、今や帝都からでも砲声がはっきりと聞こえる距離まで近づいていた。
居並ぶ高官たちの表情は硬い。皇帝は何も語らず、司令官の言葉にじっと耳を傾けている。
辺りを見渡しても、誰も口を開こうとはしない。
(私が言わねばならないか)
そして、皇帝はついに口を開いた。
「この後はどうするつもりだ?」
その言葉に、軍司令官が一歩前に出る。
「現在、大河の対岸に防御陣地を構築しております。ここで何としてでも連邦軍の進軍を阻み、帝都を守ります」
「それから……」
そこまで言うと、司令官は横目で大臣を見る。大臣が無言で頷いたのを確認し、続きを紡いだ。
「……連邦の進軍が強大だった場合、橋を落とし、対岸を死守いたします」
軍司令官の言葉に、皇帝は「そうか」とだけ言い、再び重い沈黙が満ちた。
橋を落とす。それは、向こう側を切り捨てるということだ。
連邦の足を止めることはできるが、それは帝国自身をも分断する。
帝国は広大な領土を失い、連邦は豊穣な土地を手に入れる。それは、目に見える「敗北」を帝国民に見せつけるに等しかった。
「我が方の兵は?」
皇帝の問いに、今度は大臣が進み出る。
「南部にはまだ兵が残っております……」
そして口ごもる。彼にとっても、決して口にしたくない言葉が次に控えていた。
「皇帝陛下には南部へ向かっていただき、兵を興していただきたいと思います」
それはつまり、帝都はもう守れない、ここを捨てて逃げろ、ということだった。
皇帝は、傍らに立つレグザにしか分からないほどの小さな溜息をついた。
そして。
「それで、戦争に勝てるのか?」
大臣たちや軍にとって、最も答えづらい問いだった。だが、結果はもう見えている。
皇帝はゆっくりと立ち上がった。そして、戦争が始まってから今まで抱き続けてきた想いを語り出す。
「私は、皇帝の器を返すことにした」
その言葉の意味を、レグザを除いて誰もが瞬時には理解できなかった。
「それは、譲位なさるということでしょうか……」
大臣の顔がさらに暗く落ち込む。退位し、次の者へ皇帝の器を譲る。いや、陛下のおっしゃることはそうではない。分かってはいても、誰も口に出すことなどできなかった。
「いや、私が最後の皇帝となる」
その言葉に、皆が天を見上げた。
「私はこの器を受け継いでから、ずっと考えていたことがある」
皇帝の声色は、まだ皇帝となる前の一人の青年であった頃のような、素朴な響きを帯びていた。
「初代帝より始まり、八百余年。ついに帝国は完成したと言えるでしょう」
「広大な帝国の隅々まで統治が行き渡り、この場所に居ながら北部山脈の向こうで獲れる魚の一匹まで把握できる」
「長く続いた平和により民は富み、その富がさらなる富を生む。民の豊かさこそが、国の力となる」
「此度の戦争、私はついに剣の一振りもすることがなかった。しかし、皆よく戦ってくれた」
「私は、よきに計らえと答えただけだ」
独白ともいえるその語りに、誰もが聞き入っていた。
「皇帝は帝国のすべてを手に入れた。だからこそ、もう皇帝は不要なのだ」
何百年にもわたり、皇帝を支えるために築き上げられてきた統治機構。その洗練され切った仕組みの前では、もはや皇帝すら不要となる。
それは皮肉などではなく、帝国という巨大な器が、ついに完成したという証だった。
「だからこそ、私は帝国が割れることは決して望まない」
先ほどまでの素朴な青年の言葉ではない。それは『英雄』という言葉が似合う、確固たる皇帝の言葉だった。
「皇帝は廃位する。この事実を存分に使うのだ」
「脅せ」
「唆せ」
「懐柔しろ」
「ありとあらゆる手段を取るのだ」
それは「皇帝は不要」と言い放ちながらも、その皇帝の威光を最後の最後まで使い切るという、意地汚くも、決して敗北を認めない武人の意志だった。
「お前たちならば、必ずできる」
その言葉に、臣下たちは涙を流した。
様子を見つめながら、皇帝はふうと息を吐き、静かに玉座に座る。
「なに、難しく考えることはない」
その口調はまた、素朴な青年のものに戻っていた。
「講和さえしてしまえばこちらの勝ちだ」
「豊かな民、その力はとても強大だ。やせ衰えた連邦など、すぐに飲み込む」
そう言って皇帝は笑った。
「今までよく仕えてくれた。ありがとう」
「レグザ」
皇帝はレグザを呼び、右手を差し出す。レグザは皇帝の前まで歩み寄ると、その右腕から鈍く輝く白銀の腕輪を外した。
「お役目、ご苦労様でございました」
そして、大臣たちの並ぶ机にそっと腕輪を置く。
「ヴァージャンキ様でよろしかったですか?」
レグザは悪戯っぽく微笑んだ。
「さあな? 私も分からん。いや、もう誰も分からんだろう?」
皇帝も笑った。
ヴァージャンキ、かつて初代帝の生まれた寒村の名。それが八百年ぶりに蘇る。
「それでは行こうか、レグザ」
「はい」
そして、皇帝と呼ばれた男は玉座を去った。
帝都へ赴き、戦車を調達して戻ってきたクラリスたちが大河を渡った時、そこはすでに戦闘の最前線と化していた。
兵士たちは走り回り、銃声や砲声が近くで、そして遠くで鳴り響いている。そこかしこから悲鳴も聞こえた。
「負傷者を早く送って!」
クラリスは叫んだ。
鉄路に置かれた貨車には負傷兵が詰め込まれる。戦えない者、動けない者は満足な治療も受けられず、ただ押し込まれていく。
その中に、少女が一人いた。
「エレオノーラ! あと少しで帝都だから!」
呼びかけに反応はない。
エレオノーラの顔からは血の気が引き、その片腕はすでに失われていた。
彼女は戦車を回送している最中、ハッチから身を乗り出して誘導していたところを、連邦の狙撃兵に狙撃されたのだ。
もはやこの場所では、士官であるというだけで死の確率が跳ね上がっていた。
兵卒も士官も、ここでは皆同じ煤けた格好をしている。
命が助かるかは分からない。だが、彼女たちは少なくとも帝都までは帰れるだろう。
そして、負傷者を詰め込んだ貨車は出発した。もう二度と、ここへ戻ることはない。
帝都へと繋がる鉄橋。その手前には、夥しい数の物資が並べられていた。最後の戦いの準備である。
「エレーナは!」
「まだお戻りになられません!」
兵士たちから返ってくるのは、期待を裏切る返事ばかりだった。
「もう待てない!」
クラリスから悲痛な声が漏れる。
背後には大河の向こうに帝都が見え、前方からは連邦軍の砲声が聞こえていた。
大河と並行して走る街道。綺麗に敷かれた石畳は見る影もなく剥がされ、幾重にも塹壕が掘られている。戦場を駆け抜けた戦車たちは壕に埋められ、息を潜めて敵影を待っていた。
「橋を落とすわ! あなたたちの矜持を見せなさい!」
橋を落として敵の進軍を阻む。それはこの場所が、彼女たち兵士の最期の地となることを意味していた。
橋脚に巻かれた雑多な弾薬に点火栓が繋がれる。爆風、銃声、そして悲鳴が響き渡った。
「クラリス様、私はもう行きます!」
マリアがクラリスに呼びかける。もはや戦車を失った彼女は、寄せ集めの歩兵を集めて敵の背後へと向かった。クラリスは手を振り、その背中を見送る。
中央回廊から逃げ帰った者、帝都から送り出された者。少年、老人、服装もバラバラで、手にした銃は帝国製と連邦製が入り混じっている。
かつての帝国軍の威容は、そこにはもうなかった。
白百合中隊の隊員たちも、砲手を除いて銃を手に取り、歩兵の群れに混ざっていた。もはやまともな士官はおらず、歳若い彼女たちが指揮を執るしかなかった。
「なるべく敵を引き付けなさい! 迂回させずに時間を稼ぐのよ!」
ふと、記憶が蘇る。
『ねぇ、クラリス。中将になると佐官の任命権があるんですって』
『せっかくだから、あなたは中佐ね。エレザは少佐にしましょう』
くすくすと笑いながら、エレーナはそう言った。それは自分の身に起こった過酷な現実を笑い飛ばすための冗談だったのかもしれない。
だが、その戯れに任命された佐官の位によって、クラリスはこの場の最高指揮官となっていた。
「エレーナなら、なんて言ったかしら……」
「こんな小娘が最高指揮官だなんて!」
前線指揮官はもはやいない。防衛派の貴族たちは、とっくに帝都の奥へと引っ込んでいた。
砲撃が激しさを増し、大地に次々と大穴が開く。
「ははっ……これで最後ね!」
クラリスの虚しい笑い声が響く。
「あいつらは橋が落ちていない以上、必ずここを取りに来る!」
「たとえ一息の時間でも持ちこたえれば、帝都は守れる!」
連邦軍に迂回をさせない。そのためにすべての命をつぎ込む、それは悲痛な覚悟だった。
しかし。
突然、砲声も銃声もと止んだ。
そして。
帝都の大鐘が鳴り響いた。
秩序なく、狂ったように打ち鳴らされるその音を、誰もが呆然と聞かされた。
「なんで……! 何で大鐘が鳴るのよ!」
「私たちはまだ戦える!」
無線機からは、戦闘停止の命令が虚しく鳴り響く。
兵士たちの間に、波のように安堵の雰囲気が広がった。「助かった」その感情が、誰もかれもの表情に浮かんでいた。
その中に響く、クラリスの慟哭。
大鐘の音。おとぎ話で語られたその音色を、誰もがこんな形で耳にすることになるとは考えていなかった。
帝国の終わりを告げる音が、帝都の空に虚しくこだましている。
「負けたわ」
先ほどまでの荒れた様子とは打って変わり、そこにはいつもの冷静なクラリスがいた。それを見た隊員たちは、先ほどの取り乱した姿は演技だったのではないかと思ったほどだ。
「白百合中隊は集合。私たちはまだ、やることがある」
その命令を受け、あちこちに散らばった隊員たちが集まってくる。中隊の生き残りが揃い、最後の仕事が始まろうとしていた。
「私たちは負けたわ」
貴族の身分を持つ彼女たちにとって、その言葉は何よりも重かった。
「でも、ただ負けるわけにはいかない」
誰もが静かに、言葉の続きを待つ。
「我々はまだ戦えるということを示さなければなりません」
「兵の身なりを整えなさい」
「武具の手入れをしなさい」
「連邦が来る前に……早く」
クラリスの中では、もう次の戦いが始まっていた。
一瞬の静けさはすぐに去る。気の抜けた兵士たちの尻を叩いて、とにかく動かした。立ち止まることなど許されない。
そんな中、戦車のハッチから身を乗り出し、呆然と帝都を見つめる女性が一人いた。帽子を脱ぐと、白銀の髪がこぼれ落ちる。
「私は生き残ったの……?」
エレザは小さく呟いた。己の運命を信じ、懸命に生きてきた彼女を、運命は裏切った。
「私が生き残ったのなら……レグザは……」
帝都を見つめるその瞳に、涙が浮かんだ。
「まもなく配置が完了いたします」
「わかった」
幹部からの報告に、ダイダは静かに頷いた。
連邦軍はついに帝都を臨む場所までやって来た。兵たちは数を減らし装備も乱れていたが、いよいよという段になり、士気はまだ高かった。
「ダイダ様、帰還命令の電文が鳴りやみません」
ダイダの腹心であるイシイレ少佐は、首都から送られてくる電文の山を抱えていた。それはどれも、今すぐ指揮官を交代せよというものだった。
後ろ盾を失ったダイダは、もはや薄氷を踏み抜いている。
「無視しろ」
「ですが……」
食い下がるイシイレに、ダイダはもう一度「無視しろ」と告げた。
「送るならば、『帝国軍から反撃を受け応戦中。交代の指揮官が到着するまで指揮を執る。交代要員を送られたし』そのようにな」
イシイレは諦めたのか、側にいた伝令の兵にダイダの言葉を伝え、首都に打電するよう命じた。首都と前線の時差、それがダイダに残された時間だった。
「指揮車両は用意できるか? 私も帝都へ向かう」
ダイダのその言葉に、イシイレは目を見開いた。
「これが終われば、私は良くて木こりだ。最後は帝都を拝させてもらおう」
イシイレが「危険です」「おやめください」と言葉を継ぐ前に、ダイダはそう言い切った。もはやこれが最後の戦いだ。
勝とうが負けようが関係なかった。
やがて、辺りが急に静かになった。牽制の砲撃の音がピタリと止む。
「あと一歩……足りなかったか……」
すべてを察したダイダは、深く項垂れた。
しばらくすると、兵士たちの喧騒と共に一人の男が現れる。
「ダイダ! 久しぶりだな!」
「サニか。お前が来るとは思っていたよ」
サニ・イーセット。ダイダと並び、連邦の第二次侵攻を指揮した男だった。連邦基地に対する帝国軍の奇襲を退けたあと、ダイダの暗躍により後方へ送られていたが、再び前線へと舞い戻ってきたのだ。
「安心しろ。ここからは私が引き継ぐ。そして、もはや我々の勝ちは揺るがない」
「ふん、根回しのいいことだ。講和だろう?」
「あぁ、そうだ」
サニはダイダの前の椅子にどかと腰を掛けた。
「帝国から停戦の申し入れがあり、我々はそれを受諾した。この後は講和会議が開かれるが……この戦況だ。帝国と言えども大きな顔はできんだろう」
ダイダは笑顔で語るサニの言葉に、ふん、と小さく鼻を鳴らす。
「まぁ、そんな顔をするな。お前たちもここまでやったんだ、花を持たせてやろう」
そう言ってサニは一通の書状を手渡した。そこには、連邦で長く、誰も使うことのなかった古い国名が記されていた。五大部族の連名でしか使えない、最も格式が高いものだった。
ダイダはそれを受け取ると、乱暴に封を切る。目を通すうちに、彼の目の色が変わった。
「……正気か?」
「あぁ! この勝利は山分けと行こうじゃないか!」
そこには、講和会議に参加する部族の名前が書かれていた。主席としてイーセット族、そしてダイダの属するディフェンダ族の名もそこにあった。
「ここからは真面目な話だ」
サニはダイダに顔を寄せると、小声で話し出す。
「正直に言う。我々は帝都方面には疎い。文官はそれなりに育っているが、帝国を相手にできるとは思えん」
「それで、我々に交渉の責を取らせるというわけか」
「理解が早くて何よりだ」
サニは席に戻ると、大声で笑った。
「ははっ! 何とも情けない話だが、よろしく頼んだぞ!」
「ふん。相変わらず抜け目のない奴だ」
ダイダは他部族ということでサニとは対立する立場にあるが、その能力は買っていた。苦手な交渉を任せる代わりに取り分を与えようというわけだ。もちろん、交渉に失敗して利益を失えば、すべての責はダイダに降りかかる。
「帝国では停戦を知らせる鐘が鳴り響いているそうだぞ! 音色も何もない下手くそな鐘だ! 帝国と言えど動揺を隠せないといったところか!」
サニは笑いながら煙草をふかす。もはや自分が勝者であることが揺るがないと、そう確信しているようだった。
その言葉にダイダの表情が一瞬変わったが、サニは気づかない。
「よかろう、交渉の責は我々が取る。お前は適当な文官を用意しろ」
「あぁ、わかった」
サニとダイダは握手を交わした。ダイダの目に宿る野心の光に、サニは最後まで気づくことはなかった。
終わりの鐘が鳴り、ひと月が経った。
講和会議に参加するため、ダイダやイーセット族の面々は兵を伴い、ついに帝都へと足を踏み入れた。
最初は見慣れぬ異国の兵士たちに動揺していた帝国民だったが、数日もするとすぐに慣れ、いつもの日常を取り戻していった。
逆に、連邦の兵たちのほうが動揺を隠せずにいた。少し前まで血を血で洗うような戦いを繰り広げていた兵士たちの前で、子供の物売りが元気に押し掛けてくる。お伽噺で聞いた先祖の恨みを、彼らはどうしても消化しきれずにいた。
「おい、あれを見ろ。あれを持って帰ればひと財産だぞ」
ダイダとイシイレも帝都の雑貨街を歩いていた。そこに並ぶ品々は、かつて命がけで買い付け、連邦へ送っていたものだ。
それが帝都では、麦や野菜と並んで平然と売られている。
「話には聞いていたが、これほどまでとはな」
帝国に送り込んだ工作員からの情報で、ある程度の予想はしていた。だが、実際に自らの目で見る帝国は、連邦に暮らす者から見れば常軌を逸していると言っていいほどの豊かさだった。
「せいぜいふんだくってやろうか」
ダイダは連邦語で小さく呟いた。
雑貨街を歩くと、銅像の足元に小さな屋台が出ていた。そこには人形らしきものが並べられている。
ダイダはその中の一つを手に取った。
「お兄さんたちは連邦の人かい! 帝都名物おしゃべり人形! お土産に一つどうだい!」
店主の威勢の良い声が響く。紐を引くとカタカタと動き、キーキーと喋りだす。
「どうだい、たいしたもんだろう!」
ダイダも紐を引いてみた。手に持った人形はカタカタと動き、甲高い声を上げて喋る。
「これは子供が喜びそうだな」
「そうでしょう! お子さん、お孫さんにぴったりですよ!」
ダイダはまじまじと人形を見つめる。
「店主、これを一つもらおうか」
「ありがとうございます!」
ダイダは子供の小遣いほどのお金を渡すと、人形を受け取った。それを手に、再び街を歩く。
「なぁ、イシイレ」
「何でしょう、ダイダ様」
「儂が子供の頃、爺さんが人形を作ってくれてな。人形と言っても、木の枝を削って紐を通しただけのものだった」
「でも嬉しくてな。毎日毎日、良く飽きもせず遊んだもんだ。壊れたら紐を結びなおして、また遊んだものだ」
「儂の孫もそんな人形が好きで、今も遊んでることだろう」
そう言って、ダイダはおしゃべり人形を見つめた。
「私の子供も、同じもので遊んでおりますよ」
イシイレが答える。その言葉を聞いたとき、ダイダの胸に宿っていた野心の炎は、ふっと音もなく消え去った。
「帝国には、追い付けなかったな」
それからは、宿まで無言で歩いた。
講和会議の日。
宮殿に招かれた連邦の文官たちは、足音も大きく席に着いた。ダイダは少し遅れて、静かに席に座る。
「今は戦時ゆえ、これより講和会議を開始します」
帝国の文官がそう告げ、会議が始まった。
講和会議と言っても、すでに文官同士での実務的なすり合わせは終わっており、この場は確認と承認を残すのみとなっていた。
連邦の文官たちは、値踏みするような視線で、机の対面に座る帝国の文官たちを見下ろしていた。帝都の目前まで迫り、名目上の勝者となったのは自分たちだという余裕が、彼らにはあった。
そんな彼らに、帝国の文官たちは冷ややかな視線を返す。
その様子をダイダは静かに見守っていた。
「ひとつ。領土の割譲についてですが、大河以東の連邦軍占領地域についてこれを割譲する」
帝国のその言葉に、連邦の文官から「おぉ」と小さな声が漏れた。その領域は広大で、五大部族で分割してなお、余るほどの広さだった。
(わかりやすくやられたものだ……)
ダイダは心の中で呟く。
この条件については事前の協議により知らされていた。
罠だ。
ダイダはそう確信していたが、連邦の文官たちは目の前の甘い汁に飛びついてしまった。
(連邦を遠く離れ、帝国の隣地など、どう治めるつもりだ……)
帝国のやり口は手に取るように分かった。連邦に土地をくれてやるなど造作もない。
やがてその地も、内側から帝国の一部として呑み込まれていくだろう。それは今までに帝国が拡張してきたやり口そのものだった。
「ふたつ。講和の条件として……皇帝は廃位いたします」
その言葉に、連邦の文官たちは色めき立った。次の皇帝の選出に一枚噛める、そのように考えていたのだ。
「それでは、次の皇帝陛下には……」
そう言いかけたところで、帝国の文官に制止される。
「退位ではございません。廃位です。これより、この地に皇帝は存在いたしません」
帝国の文官はそう言い放った。
「帝国は終わったのです」
そして、絹布に包まれた鈍く輝く白銀の腕輪を机上に差し出した。
「これこそが皇帝の器。初代帝より受け継がれたこれを、勝利の証として持ち帰るのがよろしい」
尊大なその物言い。
「それでは、話が……」
連邦の文官は食い下がろうとするが、帝国の文官は一蹴した。
「講和文書に相違はありません」
(やはり、こうなったな……)
連邦の文官たちは、帝国の真意をまったく理解できていなかった。それは文字が読めないということではない。文化、そして帝国の根幹にある思想への理解が決定的に足りていなかったのだ。
「貴国としては、この先の南部へ進軍する余力などないはずだ。我が方の軍は防衛戦を経て今なお健在であり、無傷の南部が総力を挙げて抵抗すれば、補給線の伸び切った貴国は内側から自壊する。……主戦派が失脚した今、これ以上の泥沼を本国が望まないことくらい、我々はすべて把握している」
言葉を失う連邦の文官たちを、帝国の文官は見据え、最後に極めつけの尊大さで言い放った。そして、その視線はダイダを捉えていた。
「あなたたちは、この『皇帝の廃位』という事実を、勝利の証として本国へ持ち帰りなさい。それで手を打つのが、互いの身の丈に合っている」
それは敗戦国のそれではない。最後まで連邦を「野蛮な侵略者」として見下し、圧倒的な格の違いを見せつける、帝国という名の怪物の最後の意地だった。
「承知した。調印を行う」
動揺する文官たちをよそに、ダイダはこの日初めて口を開いた。
こうして、帝国と連邦の戦争は終結を迎えた。
調印が終わり、場が整えられる。
勝者であるはずの連邦の文官は項垂れ、敗者であるはずの帝国の文官は胸を張っていた。
茶の用意がされ、静かな茶会が始まる。連邦の文官たちは、初めて見る優雅な光景に目を奪われていた。
「この茶葉は実に優雅な香りですな」
ダイダは茶器を置くと、感想を述べる。その言葉に、対面に座っていた初老の男性が反応を示した。
「これは我が領の特産の茶葉だ。気に入ったようなら光栄だ」
ダイダは記憶の糸を手繰り寄せる。茶葉の香り、特産品、男の年齢、風貌、それらから導き出された答え。
「これが名高いバレンシュタイン侯爵領の茶葉ですか。よい土産が見つかりました」
その言葉に、今度は帝国の文官たちがダイダを見る目を少し変えた。
連邦の文官を見るような侮蔑の視線はなく、対等の人間を見る視線があった
「ならば私から送らせていただこう。あとで届けさせる」
バレンシュタイン家の先々代当主、いや、現当主に舞い戻ったタイド・バレンシュタインは静かに答えた。
「ありがとうございます」
ダイダはそう答え、わずかな沈黙を作る。そして、鞄の中から一つの包みを取り出した。
「お礼と言っては不遜かもしれませんが、こちらをお返しいたします」
そう言って帝国の文官に包みを渡すと、それはバレンシュタイン侯爵の元へと届けられた。
侯爵はゆっくりと包みを開く。
「……娘が世話になったようだ」
その中には白銀の短剣が納められていた。
「連邦の風習で恐縮でありますが、白石に名を刻み、そのもとに葬らせていただきました」
「娘の尊厳を守っていただいたことに、感謝する」
静かなやり取りを、周囲の人間は無言で見守っていた。
彼らの中の戦争は、今、ようやく終わりを告げたのだった。