――まずい。
桜咲刹那は痛む腕を無理やり握り込みながら、歯を食いしばった。
状況は最悪。
そして、その最悪は刻一刻と悪化していた。
「――っ、斬岩剣!!」
裂帛の気合と共に太刀が振り抜かれる。
神鳴流奥義。
放たれた斬撃が、目の前の異形を両断した。
だが。
倒しても、倒しても。
終わらない。
森の中でも比較的開けた空間。
広場と呼ぶには狭いが、そこは既に“現世”とは思えぬ異界と化していた。
三メートルを超える巨躯を持つ一ツ目鬼。
狐面を被った小柄な人型。
翼を持ち、鳥面を晒す天狗。
まるで百鬼夜行。
悪夢をそのまま切り取ったような光景だった。
それに対峙するのは、まだ年端もいかぬ少女が一人。
麻帆良の女子学生服姿。
黒髪を横で束ねた十五にも届かぬ剣士。
退魔剣士――桜咲刹那。
「ハッ、ようやるやないか嬢ちゃん!」
一ツ目鬼が下卑た笑みを浮かべる。
「せやけど……ちぃと息が上がっとるんちゃうか?」
「……っ」
否定できない。
既に体力は限界に近い。
学園都市・麻帆良。
強固な結界都市。
だがその実態は、侵入そのものを拒絶するよりも、認識阻害と監視に重きを置いたもの。
そして今夜。
東洋呪術系過激派の侵入を許した。
本来なら援軍が来る。
だが――。
人手が足りない。
慢性的に。
致命的なほどに。
少し離れた木立の中。
闇に紛れるように、一挺のライフルが静かに火を噴いた。
乾いた銃声。
飛翔していた鳥型式神の頭部が弾け飛ぶ。
排出される薬莢。
地面に転がる金属音。
「……残り、少ないか」
低く呟く女。
黒曜石のような黒髪。
褐色の肌。
年齢以上の落ち着きを漂わせる長身。
――龍宮真名。
狙撃支援によって刹那を援護していたが、状況は芳しくない。
当初想定されていた敵式神は二十程度。
余裕を持って装備を整えていた。
だが。
現実は違った。
多すぎる。
圧倒的に。
いくら麻帆良が人手不足とはいえ、中学生が最前線へ駆り出される時点で異常事態。
そして今、その異常が牙を剥いている。
残弾は、既に指折り数えられる程度。
――不味い。
魔眼が導き出す未来予測ですら、状況は絶望的だった。
だからこそ。
龍宮真名は、一瞬理解が遅れた。
そこに“居る”ことに。
いつから立っていた?
気配も、前兆もない。
まるで最初からそこに存在していたかのように。
少女と鬼の間。
死地の中心。
一人の男が立っていた。
色を失ったような銀白の髪。
鋼を思わせる灰色の瞳。
浅黒く、赤銅を帯びた肌。
黒を基調とした装束。
そして、その上から羽織る赤い外套。
――異物。
そう呼ぶしかない存在感。
鬼が値踏みするような笑みを浮かべる。
「なんや兄ちゃん。助太刀か?」
男は答えない。
ただ、周囲へ視線を巡らせる。
一瞬。
それだけで戦場を理解した。
「――解析、終了」
静かな声。
だが、不思議と空気が張り詰めた。
「なるほど」
男の瞳が異形を映す。
「式神として使役された化生か」
そして。
ゆっくりと、前へ出る。
「――統べて、還ってもらおう」
鬼が嗤った。
「ハッ! 面白いやないか、兄ちゃん!」
巨大な腕が振り下ろされる。
その瞬間。
死地の均衡が、崩れた。
黒と白。
相反する色を宿した双剣が、夜闇の中で閃いた。
斬撃。
否――それはもはや舞。
異形の巨躯をすり抜けるように駆け、振るわれた刃が寸分違わず急所を断ち切っていく。
鬼が裂ける。
天狗が墜ちる。
狐面の式神が、声を上げる暇すらなく霧散する。
圧倒的だった。
だが、それ以上に。
――美しかった。
彼女たちの知る由もない。
その雌雄一対の剣の由来を。
古き中国。
帝の命により打たれた陰陽の双剣。
鍛冶師が身命を賭して鍛え上げた、対となる刃。
魔を討ち、邪を滅する退魔の剣。
――干将・莫耶。
その刃が、今。
悪鬼羅刹の只中で舞っていた。
刹那は、息を呑む。
目を奪われた。
いや――。
心を、奪われていた。
速い。
美しい。
そして何より。
強い。
神鳴流を修めた彼女だからこそ分かる。
あれは、ただの剣技ではない。
無駄がない。
迷いがない。
殺すべきものだけを断ち切る、完成された剣。
だが。
「――っ……!」
不意に、膝が揺れた。
張り詰めていた糸が切れたように、全身へ痛みが走る。
無理もない。
既に限界を超えていたのだ。
それまで黙々と戦っていた青年が、初めて彼女へ視線を向ける。
鋼のような瞳。
感情を読ませぬ声。
「……時間がないな」
短く呟く。
そして。
「早急に終わらせてもらう」
握られていた双剣が――砕け散った。
黒と白の刃が、粒子となって霧散する。
刹那の瞳が見開かれる。
武器を失った?
否。
違う。
青年の声音が、静かに響く。
「――投影、開始(Trace, on)」
その瞬間。
世界が、軋んだ。
一方。
異形を統べる呪術師の男は焦燥に駆られていた。
おかしい。
明らかに、おかしい。
今夜の作戦は完璧だったはずだ。
かの御方の傍らにいる“半端者”の排除。
そして可能ならば――連れ戻す。
麻帆良大結界は厄介だ。
大規模術式や強大な魔物の侵入は阻む。
だが、人間や式神への対応は感知寄り。
故に、入念に準備を重ねた。
西洋魔法使い共が薄くなる時間帯。
式神の数。
侵入経路。
全て整えた。
本来の目的も、達したはずだった。
なのに。
「何故だ……!」
式神が、次々に消えていく。
召喚速度が追いつかない。
包囲が崩れる。
何だ、あの男は。
転移魔法か?
魔法具か?
西洋魔法使いに雇われた傭兵か?
正体は分からない。
だが。
危険だ。
本能が警鐘を鳴らしていた。
――撤退。
判断は早かった。
背を向けた、その瞬間。
「……これだけ好き放題しておいて」
すぐ後ろから。
声がした。
凍る。
いつの間に。
「当然」
静かな声音。
だが、背筋が凍りつくほど冷たい。
「斃される覚悟くらいは、あるのだろう?」
呪術師が振り向く。
遅い。
否。
遅かったのは、彼ではない。
――男の方が、圧倒的に速かった。