『calor ――理想の果てに灯る温もり――』   作:そもゆえに

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第25話 始まりの静寂

いつも、少しだけ憂鬱な期間。

 

中等部の「修学旅行」───。

 

呪いによってこの麻帆良学園から一歩も出られない私にとって、そんなものは最初から行く価値も、行きたいと思う余地もない行事だ。

 

だが、どれほど生徒が旅立とうとも、あの忌々しい『登校地獄』の呪縛だけは容赦なく私を縛り付ける。

 

誰もいない学校へ、修学旅行期間中であっても律儀に通わなければならないという、圧倒的な虚しさ。

 

だが───今年は、少し違っていた。

 

去年は、茶々丸と二人きりだった。思えばあの頃の茶々丸は、今ほど感情が豊かではなかった。

ハカセの弁によれば、当時はまだ一定のプログラミングを元にした『データ収集状態』の初期段階だったらしい。

ただ、その頃の地道な蓄積が功を奏して、人工知能と魔法の融合が飛躍的に進歩したからこそ、今の豊かな感情を持つ茶々丸がいる。

 

そして今年は、シロウを含めた三人だ。

 

いつも心のどこかにあった、あの壁に押し込められているような憂鬱感や窮屈さが、不思議とない。

 

それどころか、普段は頭痛がするほど喧しい3-Aの有象無象どもが丸ごと居ないのだと思うと、自然と口元に笑みが浮かんでしまう。

 

この期間は、あいつに自分の好きな料理を何でも作ってもらえるし、茶々丸と三人で優雅にお茶を飲むこともできる。

さらに特別に、この期間中だけはあいつを私のログハウスに泊めてやることにしていた。

「───マスター、マスター。……大丈夫ですか、マスター?」

 

不意に、すぐ傍から私を呼ぶ声がした。

 

ハッと意識を現実に引き戻すと、メイド服に身を包んだ茶々丸が、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

 

「エミヤさんが、すでに下に迎えに来てくれています。温かい朝ご飯を作って頂いていますので、身だしなみを整えて下に降りましょう」

 

「───? あ、あぁ、大丈夫だ。起きているぞ、茶々丸。少し、考え事をしていただけだ」

 

まさか、茶々丸に声をかけられるまで気配に気づかないほど、深く思いふけっていたとはな。我ながら少しばかり弛んでいる。

 

「おはよう、エヴァ。茶々丸もありがとう。さあ、温かい内に食べよう」

 

一階の食堂へ降りると、すでにキッチンにはエプロン姿のシロウが立っていた。もはや、我が家の台所で彼が当然のようにフライパンを振るう姿は、すっかり見慣れた日常の風景だ。

 

あいつは、本当に楽しそうに料理をする。ただそれだけのことなのに、見ているこちらまで、釣られて思わず笑みが溢れそうになってしまうから癪だ。

 

「そうだ、シロウ。今日の朝食は何だ?」

 

「和食だ。一日の始まりを穏やかに迎えるなら、やっぱり和食に限るからね」

 

「チッ、また和食か」

 

「贅沢を言うな。昨日はリクエスト通り洋食(シチュー)にしてやっただろう」

 

「──ふむ。そうだったか?」

 

「マスター、昨日も全く同じことを仰っていました」

 

茶々丸が、感情の乗った声で淡々と指摘してくる。

 

「茶々丸お前……まるで私の記憶が朦朧としているかのような言い方はよせ」

 

「私の内部メモリに、一言一句たがわず『記録』として残っています」

 

「裏切り者め」

 

ぷい、と頬を背ける私を見て、シロウが可笑しそうに肩を揺らした。

 

 

マスター(エヴァンジェリン)にお仕えして、約二年。

最初は自我も感情も乏しかった私ですが、マスターのドール契約とハカセたちの技術的な調整と、何よりこの屋敷に満ちるようになった『変化』によって、最近は明確に「感情」というものを自覚できるようになりました。

 

その変化が特に顕著になったのは、やはりエミヤさんが来てからでしょうか。

 

かつてマスターの頑なな心を一瞬で虜にした、あのシチューの温もり。

 

まだ味覚センサーの調整が不十分だった私に対し、エミヤさんは当初から「同じ食卓を囲んで、一緒に食べよう」と言ってくれました。

 

アンドロイドである私を当然のように一人の人間として扱うその提案に、初めは戸惑いましたが……今思えば、あれはとても不思議で、とても心地よい感覚でした。

それだけではありません。

 

『calor』の店舗でも、この屋敷でも、エミヤさんはたくさんの人たちに料理で「温もり」を提供し、その温もりによって広がっていく人々の笑顔を、いつも少し眩しそうに、けれど本当に愛おしそうに眺めているのです。

 

エミヤさんの料理がもたらす幸福な光景。それをまるで特等席で見つめるエミヤさんの横顔。

 

それらを見つめていると、ガイノイドである私の胸の奥のコアにも、じわりとした温かさが伝わってくるのを感じます。

ハカセは私のデータログと、その「感情」の繋がりについて学術的な興味を抱いているようでしたが、私自身、何故このように胸が温かくなるのか、未だに正確に言語化することができません。

 

以前、マスターにその答えを尋ねてみたことがありましたが───

 

『それは、お前自身の手で、お前の時間の中で見つける必要がある答えだ』

と、静かに諭されました。

 

「──マスター、そろそろ時間ですので学校へ行きましょう。宜しければ、シロウさんも」

 

私の声に、マスターは当然のように胸を張って不敵に笑いました。

 

 

 

「シロウも一緒に行くのは確定事項だぞ、茶々丸。どうせ店も閉めて暇なのだろうからな。くくく、誰もいない学校で、優雅に最高級のティータイムといこうじゃないか」

 

「仕方ないな。修学旅行に行けないのなら、それ相応に有意義な時間を過ごす努力をさせてもらうよ」

 

シロウは呆れたように苦笑しながらも、私たちの歩調に合わせて歩き出す。

 

そうして登校し、いつもの校門をくぐる。

 

静かだ。

 

驚くほどに、誰もいない。

 

普段なら校門前で繰り広げられる、生徒たちの喧騒も、全力疾走する姿も一切ない。

 

中等部の学生のほとんどが、今頃は新幹線の中か、あるいは飛行機に搭乗している頃なのだから当然なのだが。

 

「……本当に、誰も居ないな」

 

ポツリと溢した私の言葉に、シロウは足を止めずに返す。

 

「何がだ?」

 

「いや。あの騒がしい連中のことだ」

 

「ふむ、昨日までは『頭痛がするほど鬱陶しい』と言っていたはずだが」

 

「……」

「……」

 

私は珍しく言い返さずに沈黙した。シロウもまた、言葉を重ねるのをやめる。

 

「……騒がしいのに、多少は慣れてしまっていただけだ。慣れていた日常の風景が急に変わって、少しばかり違和感を感じた。それだけだ……行くぞ」

 

ガラリ、と扉を開けて教室に入る。

 

誰もいない。

 

いつもならカーテンが揺れ、誰かの笑い声が響いているはずの空間を、今は痛いほどの「静寂」だけが支配していた。

 

古菲の席───。

 

机の端には、昨日あいつが片付け忘れたのであろう、肉まんの油が少し染みた包装紙がぽつんと残されている。

 

まき絵の席───。

 

引き出しの隙間から、新体操部で使っているカラフルなリボンが、だらしなく少しだけ覗いていた。

 

木乃香の席───。

 

いつもなら、その隣の席から刹那が、壊れ物を守るかのような張り詰めた視線を熱心に向けている場所だ。

 

真名の席───。

 

普段なら、何か全てを見透かしたような意味ありげな視線と、不敵な微笑みを向けてくる。

 

「……」

 

普段なら、耳を塞ぎたくなるほどに煩い空間だというのに。

 

「……寂しいですか、マスター」

 

茶々丸が静かに問いかける。

 

「馬鹿を言うな」

 

即答だった。

 

だが、その言葉が出るまでに、ほんのわずかだけ、いつもにはない『間』があった。

 

エヴァにしては珍しく、お気に入りの屋上ではなく、あえて誰もいない教室の机に弁当を広げ、静かに食事を口に運んでいた。まるで、そこに残るかすかな日常の残滓を、一つ一つ噛みしめるかのように。

 

その後、私たちは教室の中で小さなティータイムを設けた。

シロウが丁寧に淹れた紅茶と、驚くほどふわふわに焼き上げられたシフォンケーキ。

 

茶々丸にも椅子に座るよう促し、シロウが慣れた手付きで給仕を行う。

 

騒がしい教室を知っているからこそ、この三人の静かな空間が、どこか現実離れした不思議な感覚を私たちにもたらしていた。

 

やがて、学校の最後のホームルームが終わる時間。

 

誰もいない校内に、キーンコーンカーンコーン、と虚しく響き渡るチャイムの音を聞きながら、私たちは『calor』への帰路についていた。

 

その途中───。

 

「今日は……本当に静かな一日だったな」

 

「そうか?」

 

「貴様には分からんだろう。まぁ、普段から授業をサボることが多い私が言うのも何だが……あいつらは、本当に頭痛を覚えるほどに騒がしい連中だからな」

 

クク、と自嘲気味に笑った、その時だった。

 

不意に、シロウの足がピタリと止まった。

 

「……どうした、シロウ」

 

「いや───」

 

シロウは私の問いにすぐには答えず、鋭い眼差しで、遥か遠くの西の空───京都のある方角をじっと見つめていた。

 

 

「……嫌な予感がする」

 

シロウの言葉に、私は思わず眉をひそめる。

 

あいつの「予感」の的中率の高さは、これまでの短い付き合いの中でも十分に理解している。

 

「京都、か。あそこは関西呪術協会の総本山だ。衆人環視の修学旅行中、そう早々に表立った手出しは難しいはずだが……」

 

「あの手の連中(魔術師)の執念を甘く見ない方がいい。それに、表がダメならいくらでも『抜け道』はある。……エヴァ、茶々丸」

 

シロウはゆっくりと視線をこちらに戻した。その表情からは、先ほどまでの穏やかな温もりは完全に消え去り、張り詰めた剣のような鋭さが満ちていた。

 

「とりあえず、今日は私の家(calorの2階)に泊まれ。……三人で、一緒に居た方が良さそうだ」

 

「……何か、起きるというのか?それなら私の家に来い。元々そのつもりだったが───その方が魔法の媒体もあるし、チャチャゼロもいる。」

 

「分からない。だが───胸騒ぎが止まらないんだ」

 

シロウは短く答えた。その表情は、決して笑っていなかった。

 

まだ、修学旅行初日の夕方。

 

遥か遠い京都の地では、すでにネギたちを巻き込む「運命の歯車」が、禍々しい音を立てて回り始めているということを───。

 

この時の私たちは、まだ知る由もなかった。

今後の料理店に来店して欲しい人。※項目に無ければその他で、感想で希望する人を。クラスメイト以外でも可。話の流れで直ぐには反映出来なかったりします。

  • 神楽坂明日菜
  • 龍宮真名
  • 長谷川千雨
  • 宮崎のどか
  • 古菲
  • 長瀬楓
  • その他
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