「この病室からでも、花火大会は見えるのかな。なんて、見えても味気ないか」
ベッドに腰掛けたまま、僕の恋人は語った。シーツを手に、少し肌寒そうに。窓の外には、葉のない木とどんよりした雲が見える。
花火大会は、毎年春のこと。珍しい時期なので、この町の人はみんな覚えていた。
「また一緒に見たいよね、すみれ。今度は、僕も迷子にならないと思うよ」
「もう高校生なんでしょ? 小学生の時と同じなら困るよ。まあ、行けたらの話だけど……」
すみれは、シーツの端をギュッと握りしめていた。もう、何年目になるだろう。窓の外を見ると、まだ曇ったまま。
「たぶん、僕ひとりでは行かないと思う。だから……」
「うん。私も、一緒がいいな。奢ってくれる人も、必要だしね? なんて、ね」
ふわりと笑う時の目は、確かに輝いていた。だから、僕は小指を差し出す。
迷うことなく返されて、指切りをした。その指先は、とても暖かかった。
「奢るくらい、するよ。すみれと一緒なら、きっとなんでも楽しいんだから」
「今度は、食べすぎて集中できないなんてダメだよ? 介抱するの、大変だったんだから」
「僕だって、成長してるんだから。今度こそ、役に立ってみせるよ」
「検査も、君と一緒ならマシなんだけどな。あー、手を握ってくれるだけでもなー」
手をブラブラさせながら、流し目で見てきた。ちょっとだけ、笑っちゃったりもして。
「ごめんね。ルールだから……。僕も、手伝えたら良かったんだけどね」
「そんな冷たい君は、もう帰っていいよ。そろそろ、時間だし」
「あはは、ひどいよ……。でも、そうだね。迷惑かけちゃ、いけないよね」
手を振るすみれを背中に、僕は病室から出ていく。扉を閉じる瞬間、どこかうつむいているように見えた。
けれど、これも決まりだから。僕にできることは、何もなかった。
そして次の日。放課後になって、病院に向かおうとする。そうしたら、スマホが震えた。送ってきた相手は、すみれのお父さん。
ただ、家に来てほしいとだけ書かれていた。胸騒ぎがして、空を見る。頬に、ぽつりと水滴が落ちた。
僕は傘もさせないまま、ただ走って帰っていった。
家について、すぐに着替えて、傘だけ持って隣の家に向かう。チャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
出てきたお父さんに、ただ手招きだけされてリビングに向かう。
その間、ただ足音だけが響き続ける。
部屋に入って、扉を閉じて。すぐに、お父さんはこちらを向く。一度目をさまよわせて、まっすぐに僕を見た。
「すみれの親として、君にだけは言おうと思うんだ。もう、敗戦処理の段階だと言われたよ」
肩に手を置きながら、平坦な声で語られる。冷たさを感じるような声で。
胸ぐらをつかみそうになって、止めた。その姿を、お父さんはじっと見ていた。
「どうして、諦められるんですか……? 親なのに、どうして……?」
「……すみれの主治医は、私が発作で死にかけた時の担当医でね。私が知る限り、呼吸器では一番だよ」
お父さんは、背中に手を回していた。肘のあたりが、少しだけ震えている。それは、つまり。
「……っ!」
「私は、彼が言うのなら信じる。生きていれば、きっと妻も。……でも、君は君の道を選べば良い」
肩に手を置いて、優しく叩かれた。本当にそっと、何かを託すように。
僕の道って、一体なんなんだろう。すみれに真実を告げられるはずなんて、ない。それだけは、できない。
じゃあ、僕が治す? 幼稚な妄想もいい加減にしろ。僕は物語の主人公じゃないんだぞ。
でも、だったら僕に何ができるというんだ。何が。どう、したら……。
「すみれ……僕は……」
「つらい決断を、させてしまうね。どうか、私を恨んでほしい。でも、これだけは言わせてくれ。君といる間、すみれは心からの笑顔を浮かべていたよ」
ポンポンと、また肩を叩かれる。顔を見ると、優しい目をしていた。
きっと、僕を信じてくれている。それを胸に、目を閉じる。すみれの顔を思い浮かべた。花開くような笑顔だった。
ゆっくりと息を吸って、もっとゆっくりと吐く。そして、お父さんの目を見た。
僕に、できること。僕の、したいこと。
ほんの少しでも良い。すみれに、笑顔になってもらえたのなら。楽しいと思ってもらえたのなら。
何より、生きていて良かったと思ってほしい。
分かっているさ。高望みだって。分不相応だって。
でも、それしかない。それしか。僕は、ただの凡人なんだから。
「そんなこと、言われたら……」
「やはり、優しい子だ。戸惑いも悲しみも、すみれのために飲み込んでくれるのだから」
肩を、少し強く握られた。それこそが、きっとお父さんの感情そのもの。
託されたものを、僕はつむぎたい。何よりも、すみれにふさわしい僕でいたい。
なら、道化にだってなってやる。それで、すみれが笑顔になれるのなら。なってくれるのなら。
自分の家に帰って、さっそく発声練習をした。録音をして、お腹から声を出せるように意識しながら。
スマホから聞こえてくる声は、最初は聞くに堪えなかった。けれど、その日は食事とお風呂の時間以外はずっと練習し続けた。
その甲斐あって、少しくらいはマシになったと思う。
すみれがどんな時に笑ったのか、思い出した。祭りで花火を見た時のこと。僕が失敗した時のこと。お笑いを見た時のこと。どれも、とても輝いていた。
今の僕に、できるのは……。よし、やろう。
結局、日が落ちても眠らなかった。
次の日から、準備の成果を確かめていく。
「竹にノコギリとかけまして、逃げたライオンと解きます」
「その心は?」
「どちらもししおどしきるでしょう」
「おおー。どこで調べてきたの?」
乾いた拍手をしながら、首を傾げて問いかけてくる。からかうようなトーンで、にこやかに。
「ちゃんと自分で考えたよ……」
「それはすごいね。意外な特技もあるんだ。できる印象なんて、無かったんだけど」
「ひどくない……?」
本当に、軽く見られているようなセリフが続く。でも、それで良かった。
すみれは楽しそうに反応してくれたから、うまく行っている。そう思っていた。
でも、何も分かっていなかったんだ。本当に、何ひとつとして。
ある日のこと。今度はひとり漫才のネタを考えて、すみれに会いに行った。
「お嬢さん、お手をお取りください」
「良いよ。何がしたいの?」
差し出された手を、握る。妙にざらついていて、じっと見てしまう。
すみれの手は枯れ枝みたいで、目を伏せてしまった。少し遅れて、すみれが拳を握っているのが見えた。
なんて、ことを。一番苦しいのは、すみれなんだ。なのに、僕はただすみれに現状を突きつけるだけ。
目を、閉じてしまいそうになる。なんとか、開いたままでいられた。
「ごめん、今日は帰ってくれる?」
冷たい声でそう言われても、逆らったりはしなかった。悪いのは、僕だったから。
病院から出たら、冷たい風が吹き付けた。袖の隙間から、胸にまで入り込むくらいの。
帰ってすぐに、涙を我慢する方法を調べた。
深呼吸をすること。できるわけがない。それを見て、すみれは絶対に察する。
痛みを感じること。それなら、隠せば良い。口の中を噛んでも良い。拳に爪を立てるのもありだ。お父さんみたいに、背中に手を隠しても良い。震えさえしなければ、きっと大丈夫。
難しいことを考えること。頭の中で、計算でもすれば良い。顔には出ない。これも、使える。
笑顔だ。ただ、笑え。楽しい話だけを心がけろ。僕が少しでも良いと思ったことだけを話すんだ。
すみれの前で、少しだって暗い顔なんてするんじゃない。何のために、病室に向かうんだ。すみれの、ためだろ。
ただひたすらに、話す内容を書き散らかす。
何度も何度も読み返して、頭に入れた。すみれの前で、少しだって考えずに話せるように。
とにかく同じことを繰り返した。実際の感覚も、伝えられるように。
次の面会には、それだけを胸にすみれのもとに向かったんだ。
「歯磨き粉と間違えて、洗顔料を口に入れちゃって……。もう、泡が大変で……」
「あは、君ってそういう失敗もするんだ?」
ちょっとだけ、唇を釣り上げている。声も高くなっている。この調子だ。そのために、本当に間違えたんだから。もっともっと、すみれに笑顔を。それで、良いんだ。
すみれは、シーツを深くかけ直していた。
「色だけ見て上着を持っていったら、半袖で……」
「あー、なるほど……」
なんか、声が平坦だ。窓の外も見ている。ちょっと反応が悪いかな。なら、別の方向性で……。
「昨日やったゲームではね、おんなじ面で100回くらい死んじゃって……」
「うる、さい……」
とても低い声が、聞こえてきた。絞り出すかのような声が。
すみれの顔を見ると、表情が抜け落ちている。僕だけを、じっと見ていた。
「すみれ……?」
「私にできないことを聞かせて、自慢のつもり!?」
胸ぐらまでつかんで、叫ばれる。
心臓が、きゅっと縮みあがった。指の先が、とても冷たい。寒い。暖房がかかっているのに。
やめろ。被害者ぶるんじゃない。僕の役目を、忘れるな。
「すみれ、僕は……。いや、ごめん……。悪いのは、僕だ……」
「あっ……。違うの、私……」
「良いんだ。すみれの本当の気持ちを、聞かせてほしい。僕に、ぶつけてくれ」
僕の服を握る力は、弱々しい。だけど、すみれの両手は震え続けている。それはきっと、限界まで握りしめているってこと。理由なんて、分かりきっている。
「私だって、同じ料理を隣で食べたかった! いろんなおしゃれを、見てもらいたかった! 君とゲームを、したかった! それだけ、なのに!」
全部、中心に僕がいる。それが、すみれの想い。
なのに、どうだ。僕は、何もできていない。
せめて笑顔にしたくて、明るい話題を持ちかけた。それすら、満足にこなせなかった。死んじゃうなんて、すみれの前で言って良いわけがない。
だとしても、泣くな。調べたとおりに、背中に隠した拳を握れ。7の累乗を数えるんだ。
「すみれ……」
「私は! げほっ、げほっ……」
すみれの咳は、ひどく粘ついていた。
ナースコールを押して、すぐに看護師がやってくる。当たり前のように、僕は追い出された。
ただひとり、家に帰る。どうしようもなく、一歩が小さかった。
ベッドに入って、膝を抱える。どうすれば良かったのか、何度も何度も考えた。
分かったことは、ただひとつ。全部、僕が頭で考えただけだった。すみれが頼んだわけじゃない。
それに気付いてすぐ、すみれの言葉を思い返す。
僕と一緒に、いろんなことをしたかった。それはきっと、普通の生活として実現することはできない。
せいぜい、外出許可を取ることくらい。どこかに、すみれを連れて行くことくらい。
そうだ。すみれは、花火大会の話題を出していた。春までは、まだまだ遠いのに。つまり、すみれは。
今度こそ、間違えたりしない。すみれの願いを、叶えてみせる。
まずは、すみれのお父さんにメッセージを送る。すぐに、返事がやってきた。
手続きは任せてくれとのこと。終末期なら、患者の意思を大切にしてくれるはずだと。
僕は、ただ待つことしかできない。気付いたら、奥歯のあたりに痛みを感じていた。口が、少しのあいだ開かなかった。
落ち着け。ひとりで解決しようとしたから、失敗したんだ。任せるべきところは、任せよう。
大切なのは、僕が活躍することじゃない。すみれが笑顔になってくれることだ。優先順位を間違えるな。
変に希望を持たせないように、面会では花火大会の話題は出さなかった。
話は弾まなかったけれど、すみれは返事だけはしてくれていた。
同じような日々が、しばらく続く。僕はもう、うまく話そうとはしていなかった。
一週間だろうか。一ヶ月だろうか。カレンダーすら見ないまま、毎日を生きる。それで良いと、自分に言い聞かせながら。
変わったのは、結局すみれの方だった。
「ねえ、聞いたよ。私の外出許可、お父さんに頼んでくれたんだって?」
いつもより少しだけ高い声で、話しかけてくれる。きっと、僕に寄り添うために。
少しだけ、目頭が熱くなった。すぐに、頬を噛んで7の累乗を数える。
今は泣いても良いと気付いたのは、涙が去ってからのこと。
だけど、だからこそ僕は最高の笑顔を見せられたんだと思う。
「うん。すみれと、最高の思い出を残したかったから」
「ありがとう。私も、ずっと残る思い出にしたいよ」
「そうだね。いつまでも残ると良いよね」
その言葉に、すみれは目を伏せた。
また、何か間違えてしまったのだろうか。みぞおちのあたりが、押し潰されているみたいだ。
目を上げたすみれは、両手で僕の手を包み込む。絡みつくように、ぎゅっと。
「……ねえ。私のこと、ずっと忘れないでいてくれる?」
「もち……」
「いや、気にしないで。私も、ちゃんと分かってるから」
すみれの目は、激しく揺れていた。だから、僕はとても深く頷いた。
「大丈夫。絶対に忘れないよ」
「……じゃあ、一生ひとりでいてよ……。幸せな家庭なんて、絶対に持たないで……!」
すみれは、顔をくしゃりと歪めていた。痛いほどに、両手が握りしめられている。すみれの手は、ずっと震えている。
僕はそっと、すみれの手を握り返した。
「分かった。約束する。僕の恋人は、すみれだけだ」
「……ごめん。ごめんね……」
しゃくりあげるような声が、聞こえる。でも、お腹に力を入れて笑顔を浮かべた。
「気にしないで。僕がそうしたいんだ。すみれのためなんだから」
「ありがとう。花火大会、楽しみだね」
すみれは、窓の外を見ている。僕も同じところを見ると、ツタが枯れた木に絡みついていた。締め付けるように、強く。
ゆっくりと、手を離される。すみれは窓の外を見たまま。音を立てないように、僕は病室から出ていく。
「いいな、あれ」
そんな声が、聞こえた気がした。
振り返ろうとする前に、すみれのお父さんが入れ替わるように入ろうとしていた。
頭を下げると、肩をつかまれる。
「良いかい。受付で、待っていてくれ。車で送っていってあげよう」
言われた通りに、受付で待つ。その間、ずっとテレビを聞き流していた。
お父さんがやってきて、車までついていく。エンジンが掛かって、暖房が届く。なんとなく、妙に暑い。
「なにか、あったのかい? 私に相談できることなら、聞かせてくれ」
「……その……、実は……」
まとまりのないまま、僕は今日あったことを話した。すみれとの約束を、全部。
「なるほど。私の立場から言おう。忘れてくれて、良いとも」
「は……? なんで、そんなことが言えるんですか……? すみれの、親なんですよね……!? あっ……」
お父さんは、病気を告げる時にだって我慢していた。肘が震えていたのが、その証。
今だって、きっと苦しい思いをこらえて言ってくれている。今の僕には、分かるだろ。ずっと、すみれの前で同じことをしてきたんだから。
「謝らなくて良い。気持ちは、分かるつもりだ」
「でも……」
「申し訳ないと思うのなら、聞いてくれ。私も、人の親だ。生きているうちは、すみれを優先する」
「……はい」
「でも、君にも幸せになってほしいんだ。遊びたい盛りの時期を、ずっとすみれに使ってくれたんだから」
時間を使ったことが、何だと言うんだろう。僕は、何度も何度も失敗してきたのに。
どうして、僕を許せるんだろう。立場が逆なら、きっと無理だ。ズボンの裾を、ギュッと握った。
「別に、大したことは……」
「ふふ、君らしいな。もちろん、すぐに忘れろなんて言わない。そんなことができるほど、君は器用じゃない」
「なんですか、それ……」
「でも、いつか……。きっと、心の整理がつく。その時になったら、私の言葉を思い出してほしいんだ」
少しだけ、声が震えているような気がした。本当に、気がするという程度に。
きっと、勘違いじゃない。なら、僕だって安易に否定しちゃダメだ。
……忘れたくなんて、ない。忘れたいはずが、ない。
でも、今だけは隠そう。声が、震えないように。
「思い出すだけで、良いのなら……」
「今は、それで良い。いつか、きっと分かる時が来るさ」
その言葉を最後に、お父さんはただ車を運転し続けた。僕の家の前で降ろされて、頭を下げる。ただ手だけ振って、お父さんは去っていった。
家に入って、ベッドに入って、膝を抱える。
すみれを忘れることなんて、許されるのだろうか。忘れられたくないという叫びを、無視しても。
手を握られた痛みも、しゃくりあげるような声も、忘れられるわけがない。あんな歪んだ顔をさせてしまったんだから。
いや、違う。僕のすべきことは、後悔じゃない。
二度と、あんな顔なんてさせない。今度こそ、笑顔にしてみせる。
ずっと先のことなんて、まだ考えなくて良い。今の僕が本当にするべきことは、花火大会を成功させることだけ。
そのためにすべきことを、頭の中で走らせる。思いついたことを、ただ調べる。
やるべきことは、決まった。後は、それを実行するだけ。
終末期を支えるボランティアの人に頭を下げて、花火の穴場を探してもらった。僕たちが、ふたりきりになれる場所を。
教えてもらった場所全部に向かって、少しでも楽に座れそうな場所を探した。車椅子も通れそうか、ちゃんと確かめた。泥まみれになっても、枝が腕を傷つけても。
目的地を決めた後は、実物でも確認した。筋肉痛になった次の日だって、必ず。
足が重い時は、ただすみれの笑顔を思い浮かべた。浮かべ続けた。
看護師さんに頭を下げて、いざという時の手順を教えてもらった。しっかりメモを取って、何度も一人で練習した。
子供の頃に買った人形の胸を、繰り返し両手で押しつぶした。どう腕を曲げればいいか、動画とすり合わせながら。最後には、綿が飛び出るくらいに。
その姿を見て、手が止まりもした。すぐに、首を振って別の準備を始める。
薬を飲ませる時の角度も、しっかりと確認した。コップを持つ腕が震えるまで、ずっと。
もちろん、すみれと過ごす時間も忘れずに。1秒1秒を脳に刻み込むように、ずっと顔を見続けた。笑う顔も、悲しい顔も、全部。
ひたすらに準備を続けて、やってきた当日。一度家に帰ったすみれは、お父さんの運転する車でやってくる。
真っ白なワンピースを着て、とても穏やかな顔をしていた。
車に乗り込むと、すみれは僕の手に手を重ねる。そして、肩を預けてきた。
目的地に向かう間、ずっと無言だった。それでも、穏やかな心地のまま。
やがてたどり着いた、自然公園のような場所。まずは車椅子を下ろす。そして、すみれを抱えて乗せた。
すみれは、お父さんに手を振っていた。
「じゃあ、行ってくるから。ふたりの時間を、邪魔しないでよね」
「……ああ。ゆっくりと待っているから、楽しんでくると良い」
お父さんはすみれに近づいて、両手を肩に置く。そして、三秒ほどすみれを見つめていた。
そしてもう一度肩を叩いて、運転席へと戻っていく。
「送ってくださって、ありがとうございました」
「気にしなくて良い。他ならぬ、すみれのためなんだから」
お父さんは、ゆっくりと目を閉じていた。まるで、目を逸らすかのように。
すみれに袖を引かれて、頭だけ下げる。そして、車椅子を動かす。
ここには、桜の木が多く生えている。決してぶつけないように、慎重に押していった。
「良い場所だね。どうして、人がいないんだろ?」
「木でいっぱいだから、枝が邪魔で花火が見えないんだって」
「なら、なんで……?」
「もうすぐ着くから、その時を楽しみにしていて」
練習をした時と違って、桜が花開いている。すみれは、周囲を見回しながら口元を緩めている。
やっぱり、正解だった。大変だと分かっていたけれど、選んだ価値があった。
薄暗い中を、ゆっくりと進んでいく。やがて、わずかに月明かりが届いた。
周りより、少しだけ木と木の隙間が多い場所。そこからは、空がよく見える。
ボランティアの人から聞いた、穴場中の穴場。すみれは、首を上げて空を見ていた。
「いいね、ここ……」
「でしょ? ここだけは、邪魔されずに空が見えるんだって」
「じゃあ、あとは待つだけだね。手、つなご?」
差し出された手を、迷わずに握る。ふわりと笑う姿は、月明かりに照らされていた。
そしてすみれは逆の手でスマホを取り出して、一度空に向ける。膝に下ろして、こちらを見る。
お互いの体温と呼吸だけを感じながら、ただ待つ。やがて、その時が訪れた。
まっすぐな軌道で、花火は空を駆け上がっていく。その頂点で、一気に弾ける。少し遅れて、お腹に響く音が届いた。
「きれい、だね……。胸は、痛いけど……」
「だい、じょうぶ……?」
「気にしないで。苦しくても、心に刻みたいんだ」
ポケットにある薬を、すぐに取り出す。そして、すみれに差し出す。
「これ、薬……。飲めそう?」
「ありがと……。けほっ、げほっ……ん、ぐっ……」
濁った声が、花火の音と混ざり合う。すみれは、胸元を握りしめていた。
「すみれ……! 病院に、連絡しないと……!」
最初に連絡して、医者を呼ぶ。その間に呼吸が止まったら、気道を確保。救命処置に入る。1秒でも早い対処が、すべて。何度も練習したことが、頭によぎる。
スマホを手に取ると、その手を握られた。すみれを見ると、ゆっくりと首を振っている。
「待って。お願いだから、呼ばないで……」
「すみれ……?」
「お願い……。私の息が止まったら、10分間抱きしめていてほしいの……。最後は、君とだけ……」
それはつまり、絶対に助からなくなるまで待っていろということ。
……限界は、5分。その倍。救命しても、決して間に合わない時間。僕に、君を殺せというのか。
すみれは、僕の手を握りしめている。弱々しい力で、それでも確かに。
今なら、まだ助かるかもしれない。そのための努力は、ずっとしてきた。何度も何度も、練習を繰り返して。
すみれの手を、離そうとする。すぐに、目の前にある顔が歪んだ。
息を吸う。変なところに入って、むせ返りそうになった。すみれは、泣きそうな顔をしている。
……いや。これじゃ同じなんだ。本当に大事なことを、思い出せ。
一番苦しいのは、すみれだ。なら……。
すみれは、僕をじっと見ていた。それが、僕の選ぶべき道だった。
どんなつらい未来が待っていたとしても、すみれほどじゃない。それ、だけ。
しっかりと、手を握り返す。そして、すみれと目を合わせる。すべてを、刻み込むために。
そっと、はにかまれる。とても、とても穏やかに。
「……分かった。罪なら、僕が背負うよ」
「ありがとう。でも、大丈夫。スマホに録音してるから……。暗証番号は、0623……」
それは、僕の……。すみれはきっと、最初から……。全身が、わずかに震えた。
……本当の願いだというのなら、僕が叶えてあげないと。今度こそ、間違えたりしない。
一瞬だけ、目を閉じる。肺の中の空気を、全部吐き出した。
すみれの手を、握り直す。しっかりと、指をからめながら。
「……うん。ずっと、一緒にいよう」
せめて最後は、笑顔を見せていないと。泣き顔で別れることなんて、きっとしたくないはずだから。
左の手のひらの中で、爪を当てよう。7の累乗を、考えよう。
大丈夫。何度も繰り返してきたことだろ。
ただ、向き合う。すみれは、薄く微笑んでいた。
「ふふ、あったかいね……。わたし、いまがいちばん……」
声が途切れる。首がコクリと下を向く。もう、手のひらに力は感じない。口元に手を当てると、息は止まっていた。落ちてきた桜の花びらが、すみれの頬に張り付いた。
つないだ手から温もりが去っていくのを感じながら、すみれを抱きしめる。
我慢できなかったものが、すみれの肩に落ちていく。ぽつり、ぽつりと。
振り払うように、抱きしめる力を強める。1秒、2秒と数えていく。夜の寒さが、お互いに染み渡っていく。
一番大きな花火の音が、背中に届いた。