「ごめん、誰?」
「えっ」
雑踏の中で、私の素っ頓狂な声がやけに大きく響いた……まあ、誰にも聞こえてないから、それで振り返る人も足を止める人もいないけど。
それに改めて自分の孤独さを突き付けられるけど、そんなことよりもずっと、私の意識はその子の一言に釘付けにされた。
「ねえ、覚えてるでしょ? ほら、君が小さかった頃に、いっぱい泥だらけになって遊んだじゃん! 君、タカくんでしょ?」
自分でも、ちょっと声が上ずってるのが判る。
彼の名前は、確か
そんなタカくんは、私を見ても怪訝そうにするばかりだった。
「いや、本当に誰だよ……というか、その目は大丈夫なの? 見るからに痛々しいけど」
「うん、大丈夫だけど……そっか。本当に覚えてないんだ……」
まあ、優しいのは変わりないみたいで、私のことを心配してはくれるけど……糠喜びしちゃったのもあって、随分と落ち込んでしまう。
私の表情が暗くなっているのも気付かないで、タカくんは続けた。さっきからそわそわと忙しなさそうにしていたけれど、急ぎの用事でもあるのかな。
「それよりさ、俺の兄貴――
「ううん、見てないけど……どうかしたの?」
「また兄貴がいなくなったんだよ。また人を殴ったりしてないといいけど……あ、見つけたら教えて! ちょっと気が
「え、ちょっと待って――」
そう言って、強制的に私との会話を切り上げ、タカくんは雑踏の中に消えてしまった。
どこで会うとも、”また”の経緯も教えてくれずに。どうやら、お兄さんが相当危ない人らしい。
後には、雑踏の中でぽつんと佇む私一人が残った。
ふと、後ろからドンと道行く一人に身体をぶつけられる。
私はよろめいて危うく地面に倒れかけたけど、その人は腰辺りに感じた衝撃に少し不思議そうにして、そのまま足を停めもせずに歩き去ってしまった。
「……っっ……やっぱり、ダメなのかな」
そう呟いた私は、一町と離れていない街の出口に向かって走り出していた。
不意に、頬を温かいものが伝うのが感じられる。それを乱暴に袖で拭い取って、そのまま門を潜り抜けて、人里を後にした。
くしゃりという音が、風を切る音に混ざって聞こえた気がした。
人里を抜けて、無意識に任せて暫く走って。
気が付くと、私は小高い丘の上にいた。
高い木はなくて、綺麗で明るい、優しい緑色の草原が広がってて、草露でキラキラ光ってて、まるで私を慰めているみたいに思えた。
まるで、泣くための場所みたいだった。
そんなことを思って歩き進めていると、誰かが丘の下を覗き込んで、端っこに立っているのが見えてきた。よく見ると、そこからは緑色が途絶えている。丘だと思っていたけど、崖になっている所もあるらしい。
草履を脱ぎ揃えているから、身投げするつもりなのは何となく判った。
特に理由もなく、とことことその人に近付いていく。歩くにつれ、その人が男らしいこと、結構身長が高いことも判ってきた。
そしたら、あと十メートルくらいってところで私のことに気付いて、こっちを振り返った。
「誰だよ……って、子供? 何でこんな遠いとこまで来てるんだ?」
その人の顔は暗い影を落としていて、目からは生気が感じられなかった。
まあ、案の定ってところ。
それより気になったのは、その頬に大きな、多分刃物で傷つけたんだろう切り傷があったことだった。
「何となく来ただけだよ。それよりさ、貴方って、タカくんのお兄さんの秋信さん?」
もう少し歩み寄りながら、そう訊いてみた。
「ああ、俺のこと、アイツから聞いてるんだな。何つってた? 『ヤク中のクソ兄貴』とか何とか言ってたんじゃねぇのか?」
思っていたよりも、
人間に睨まれたって怖くはないし、手を伸ばせば相手に触れるくらいの距離まで近づいてみる。
思い出してみても、この人が人を殴らないかくらいしか心配してなかったと思うし、別に扱き下ろすことは言ってなかったはず。
「ううん、別にそんなこと――」
「どうせ言ってたんだろ!?!?」
秋信さんは私の言葉を遮って、いきなり私の胸ぐらを掴んできた。
そして、続けて私の耳元でがなり立てる。
「お前だってどうせ俺のことをキチガイだって思ってせせら笑ってるんだろ!?!?」
「ちょっと、うるさいよ!」
ちょっと唾が飛んで来るし五月蠅いしで不快だけど、無理矢理距離を取ったらバランスを崩したりして落ちちゃうかもしれないし、そうじゃなくても何かが気に障って早まっちゃうかもしれない。そう思って、私は辛抱することにした。
正直この人間が死んでもどうでもよかったけど、もしかしたら自殺を思い留まらせたら、タカくんは喜んでくれるかもしれない。感謝してくれるだろうし、私のことを思い出してくれるかもしれない。そう思って、この人の自殺を止めようと思ってたんだ。
「ねえ、一旦落ち着いたら? 多分死んじゃったら、タカくんもお父さんもお母さんも悲しむよ。それに――」
「うるさいっつってんだろ!!」
また怒鳴られて、言葉を遮られた。話が利く気がない人に話を聞かせるのって、つくづく難しいよね。
そう思っていた時だった。
「あ? その眼――お前、妖怪か?」
秋信さんは、私が妖怪だってことに漸く気付いたみたいだった。
そして乱暴に私を突き放して、何とも言えない表情をした。私のことを怖がる顔も嫌う顔も何百回だって見てきたけど、それとは全然違って、何だか複雑そうな顔をしていた。
「何だっけ……あ、そうそう、覚妖怪か!」
秋信さんは私の正体に思い至ったらしくて、ちょっと大声でそう言ってから私の方を見た。
そこに浮かんでいたのは――同情の皮を被った、あからさまな軽蔑だった。
「じゃあ、お前も俺と一緒の嫌われ者かよ! あはは、そりゃいいや! いや、お前の方がずっと嫌われてるかもな」
いきなり、人の傷口を抉るような言葉を笑いながら言ってきた。
「ちょっと、なんでそんな酷いこと――」
「人の心が読めるなんざ、気持ち悪くて仕方がないもんなぁ! 可愛い顔してたって、中身は人の心を覗き見てほくそ笑むだけの怪物ってわけだ、ほんと妖怪ってのはやらしいなぁ!」
情緒が不安定だからだろう、脈絡も遠慮もなく、私のことを中傷してくる。
まあ、私というよりは、お姉ちゃんへの悪口だし……それに、私も思ってたことだから、それはまあ大してイラつきはしなかった。
ちょっとは大人の余裕で優しく諭してあげようかな――って思ってたけど、そのすぐ後の言葉で、私の心の平静も崩れ去った。
「でも大丈夫だ! 周りの人間は、お前に何も興味なんてねぇからな! 見たくもねぇし、見てすらもいねぇよ!」
一気に、世界が遠くなった気がした。ずくりと、眼帯に覆われた左目が疼痛を訴える。草のさわさわって音とか、太陽の光が眩しいとか、そういうのが何も感じられなくなって、目の前の人間の言葉も遠くで鳴っているみたいに聞こえて、目にはまだ大声を出している人間しか映らなくなった。
「俺だってそうだよ、周りの奴は俺になんて何も興味はないさ! 腫物か空気みたいに扱われんのは、癪に障るったらありゃしねぇし、ヤクやってねぇとどうにもなんねぇんだよ、判るだろ?」
気付けば、小さく、一歩だけ踏み出していた。
「嫌なもんからは誰だって目を背けるしな! 仕方ねぇよ、嫌われ者の宿命って奴だから!」
もう一歩、更に一歩。
「あ~、怒鳴ってたらちょっと憂さ晴らしできたわ。帰って葉巻でも――お?」
その言葉が聞こえた時、私はその人間の目の前にいた。
ふと、人間は私の手元に目を留める。
ぱしっと私の左手から手紙を奪い取ると、もうだいぶくしゃくしゃになっていたそれを黙読し始めた。
それくらいは待ってあげることにした。
「なあ、これ誰に貰った手紙なんだ? というか、お前に恋人なんて――」
「いないよ。それじゃあもういい?」
だって、餞になるんだから、読み終わるまでは待ってあげなきゃ可哀想だし。
「いや、いいって何が――」
その言葉は、最期まで言わせてあげなかった。
「じゃあね、死にたかったんでしょ?」
ドン。
私が軽く手を突き出すと、人間は呆気に取られたままに、ちょっとだけ宙に浮いて、空を仰いだかと思うと私の視界から消えた。
「――うわあああああああ!!!!??!!」
二秒とちょっと、長めの悲鳴が聞こえた。
そして、ずんと小さく鈍い音がして、悲鳴は聞こえなくなった。
「……貴方が悪いんだよ」
そう誰にともなく呟いて、私は地面にしゃがみ込んだ。
目の前には、綺麗に整えられた草履と、変わらず風に靡く短い草だけ。
不意に、涙が込み上げてきた。本当はあの人間がいなければ、ここに来てすぐにでも泣いていたんじゃないかと思う。堰き止められていた分が、わっと溢れ出した。
「……やっぱり、誰も私のことなんて気にしてないんだ……ぐす、結局私はずっと独りなんだ……」
さっきは私を奮い立たせてくれた左手の手紙は、もうない。あっても心の支えにはなってくれずに、破り捨てているに違いなかった。
誰も私に興味なんてない。
この言葉が、怖がられるよりも避けられるよりも、今まで受けた言葉で一番心を抉った。私がどれだけ努力をしても、全部無駄だって言われてる気がしたから。
でも、誰にも気付いてもらえなくて、気付いてくれた一人にも忘れられていた今になっては、悲しいけどとても納得できる気がする。
何で、希望が裏切られることも頭の隅では判ったのに地上に来ちゃったんだろう。
お姉ちゃんみたいに、抑々人に会わなきゃ傷つくこともないって判ってるのに。
傷つきたくないから目を閉じて、誰の心にも触れなくなって、誰からも触れられなくなったのに。
人と触れ合えば傷つくって学んだから、最近ずっと人里を避けてたのに。フランちゃんにもこころにも会わずに、放浪して地底で大人しくしてたのに。
「結局、私は誰からも見えてない……話しかけても聞いてくれないし……っ……聞こえてても聞く気なんてないんだ……」
私がここで声を上げて泣いても、誰も来ないし、来ても誰も気付いてくれないし、気付いても気に掛けてはくれないんだろう。
話したって、私の声は誰にも聞こえないし、私が手を振ったり暴れてみたり、抱き着いたり軽く殴ったりしたって、普通の人には全く見えない。
まるで、私だけ蚊帳の外、檻の中にいて、窓の向こう側を覗いているみたいな錯覚に陥りさえする。
その檻も空気みたいなもので、他の皆は私が苦しんでいることにも気付いてくれない。
一週間前に、左目を怪我した時の記憶が蘇ってくる。
あの時私は何を思ったか、出店に売っていた焼き鳥を取って一本食べた後に、その串を自分の左目に突き刺した。
いつか読んだ本に、『眼窩から深々と棒が刺さると、脳に傷がつき致命傷になりうる』みたいなことが書いてたのを思い出したから、深くは刺さなかったけど、それなりに思い切り突き立てた。
当然、私は左目から溢れてくる赤い液体で染まっていく地面と服、左目を押さえる手を狭くなってぼやけた視界で垣間見ながら大泣きした。
多分、今までで一番大きな声を出して泣いたと思う。すっごく痛かった。弾幕勝負の傷も、人間から忌み嫌われていた時に投げられた石よりも、ずっとずっと、頭の中身全部を支配するみたいな激痛が押し寄せて来て、とめどなく涙と血が溢れた。
だけど、誰も私に気付いてくれなかった。私は声が嗄れるくらいまで号泣したのに、偶に何人かが私の足に蹴躓くくらいで、誰も蹲った私に興味や意識を傾けることはなかった。
そのせいで、左目から串を抜くのも忘れて、私はもっと咽び泣いた。誰一人、私のことを見てくれないことを、改めて見せつけられたから。
それが辛すぎて久々に地霊殿に戻って自分宛てに手紙を書いてみたりしたのに……結局、心の傷をこれでもかと抉る原因を作っただけで、何も癒しにはならなかった。
「……誰か、誰か私のことを見てよ……私、ずっと独りなんて嫌だよ……」
学んだはずなのに学べなかった、地底の嫌われ者を灼く眩しすぎる地上は、まるでイカロスのなんちゃらのお話のように思えた。
散々泣いて、結局やっぱり誰も来なくて、眼帯が涙でびしょびしょになった頃に、漸く涙は収まった。
「……帰ろ」
私は、とぼとぼと地底への帰途に着いた。
……情緒不安定な人間って、書きにくいですね。