現代ダンジョンで成り上がり! 作:ダンジョン厨
協会支部地下三階の流路検証室は、訓練場というより手術室に近かった。
白い照明。灰色の床。壁際に並ぶ測定端末。
床一面には細い溝が刻まれ、その内部を青白い星骸質流路がゆっくりと循環している。
旧北柏レイクモール跡で見た白い構造片とは違い、ここにあるものは協会が管理できる範囲に収めた模擬流路だと説明された。
だが、晴人から見れば、床の下に無数の細い血管が走っているようで、あまり落ち着く景色ではなかった。
白石は端末の前で、晴人の魔力循環値を確認していた。
朝比奈は検証室の中央に立ち、いつものように姿勢を崩さない。
久我は壁際で腕を組み、晴人の装備ベルトを見ながら少しだけ眉を上げていた。
「今日は見る訓練ではないわ」
朝比奈が言った。
「見ない訓練よ」
晴人は思わず聞き返した。
「見ない訓練、ですか」
「正確には、必要以上に見ない訓練。あなたは危険があるほど表示を追いすぎる。旧北柏の白い構造片が、あなたの観測に反応する可能性がある以上、その癖は危険になる」
「はい」
「見える情報を全部拾おうとしない。深く覗き込まない。必要な分だけ取り、すぐに切る。支援役としても、戦闘者としても、覚えなければならない技術よ」
晴人は床の流路を見下ろした。
《模擬星骸質流路》
《危険度:低》
《接続深度:制限推奨》
《推奨:観測範囲を限定》
表示はすでに出ている。
以前なら、晴人はこの表示を全部読もうとした。
危険度、流路の濃淡、分岐、推奨行動、反応予測。
見えるものが多いほど安心できると思っていたからだ。
だが、今はその考え方そのものが危険になっている。
「榊さん、検証中は接続深度をこちらでも監視します」
白石が言う。
「一定値を超えた場合、こちらで遮断します。頭痛や視界異常が出た場合も、すぐ申告してください」
「分かりました」
「それと、今日は能力の表示内容をすべて報告する必要はありません。朝比奈さんの指示通り、必要だと判断した情報だけ口にしてください」
「全部言わなくていいんですね」
「はい。むしろ、全部言わない練習でもあるので」
晴人は小さく息を吐いた。
「難しそうですね」
「難しいわよ」
朝比奈が即答した。
「でも、やりなさい」
「はい」
久我が壁際から声をかけてくる。
「お前、見るなって言われる方がきつそうだな」
「かなりきつい」
「だろうな。目の前に宿題の答えが出てるのに、見るなって言われてるようなもんだろ」
「しかも、見すぎると宿題が爆発する」
「最悪だな」
「最悪だ」
久我は軽く笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「でも、止まったら引っ張るからな」
「頼む」
「任せろ」
朝比奈が二人を見てから、手元の端末を操作した。
床の流路がわずかに明るくなる。
青白い線が幾つかの円を描き、その中央に小さな標的ドローンが出現した。大きさは猫ほど。
外見は旧北柏で遭遇した小型獣系を簡略化したものだが、爪も牙も丸められている。訓練用とはいえ、体当たりされれば普通に痛いらしい。
「最初は流路操作の再現。標的ドローンを倒す必要はありません。床の流路をわずかに切り替えて、進路を逸らしなさい」
「はい」
「出力は最低。押し込まない。覗き込みすぎない。あなたがやるのは命令ではなく、流れの向きを少しだけ変えること」
晴人は床へ左手を向けた。
触れない。まずは見るだけ。
流路の線が視界の中で浮かぶ。太い線、細い線、濃い点、薄い点。
標的ドローンが動けば、どこを踏み、どこで加速し、どこで滑るかが重なって見える。
《進路予測》
《模擬標的:接近》
《流路干渉候補:三》
《推奨――》
晴人はそこで表示を切った。
完全に消せるわけではない。
ただ、深く読もうとする意識を止める。画面の奥へ踏み込まない。必要な情報だけ残す。
標的ドローンが走る。
晴人は細い流路の分岐へ魔力を通した。強くない。薄く、浅く、指先で水面を撫でるように。
床の光が揺れた。
標的ドローンの前脚がわずかに滑り、進路が半歩ずれる。
「成功です。流路変化を確認」
白石の声。
晴人は息を吐いた。
「できました」
「今の感覚を覚えなさい」
朝比奈が言う。
「表示は?」
「進路予測と候補だけ見ました。推奨行動は、途中で読まないようにしました」
「いい判断ね。次は、標的を二体に増やす」
「はい」
二体目が起動する。
今度は左右から同時に来る。晴人は反射的に両方の進路を見ようとした。表示が増える。警告線、推奨行動、流路候補、衝突予測。視界の中が一気に騒がしくなる。
《進路予測:複数》
《推奨――》
《警告――》
《流路――》
頭の奥が熱くなる。
晴人は奥へ踏み込みかけた。
「榊」
久我の声が飛ぶ。
「見すぎだ」
その一言で、晴人は意識を戻した。
全部を見るな。
一体だけでいい。
近い方だけ。
晴人は右から来る標的だけを選び、床の流路をわずかにずらす。右の標的が滑る。左は間に合わない。
体当たりが脛に当たった。
「いっ……!」
晴人は片膝をつきかける。
「止まらない!」
朝比奈の声が飛ぶ。
左の標的が旋回して戻ってくる。晴人は床に手をつきそうになり、寸前でやめた。触れれば深く見てしまう。今は身体を動かす。
左足に魔力を通す。
基礎魔力循環で覚えた流れを、膝から足首へ落とす。全身を強化するほどの余裕はない。なら、左足だけでいい。
《魔力集中:左下肢》
《出力:微弱》
晴人は半歩だけ横へ跳んだ。
標的の突進が空を切る。
避けられた。
ほんの半歩。派手さはない。だが、訓練場の床を蹴った感覚が、これまでと違った。魔力が漏れていない。足裏へ通した力が、そのまま身体を動かした。
朝比奈の目がわずかに細くなる。
「今の動き、覚えている?」
「はい。左足だけ強化しました」
「全身ではなく?」
「全身に回すと遅いと思ったので。足だけです」
「それでいい。あなたの魔力量と制御精度なら、今は全身強化より部分強化の方が向いている」
晴人は左足を見た。
まだ少し震えている。だが、動けた。表示に従っただけではなく、自分の身体で判断して避けた。
《条件達成》
《スキル:瞬間強化 Lv.1 を取得》
《回避歩法 Lv.1:熟練度上昇》
表示が浮かぶ。
晴人は思わず顔を上げた。
「瞬間強化、取れました」
「ようやくか」
久我が笑う。
「ようやくって言うな」
「いや、今のは良かった。お前、ちゃんと避けてたぞ」
「避けたというか、転ばなかったというか」
「それを避けたって言うんだよ」
朝比奈は端末に視線を落としながら、短く告げた。
「休憩はなし。今の感覚が残っているうちに続けるわ」
「はい」
「次は、流路操作と瞬間強化を同時に使う。標的三体。あなたは支援装備なし、短刀あり。撃破は一体でいい。残りは避けなさい」
晴人は腰の星骸短刀に触れた。
「撃破、ですか」
「訓練用標的よ。壊して構わない」
「俺が、ですか」
「他に誰がいるの」
朝比奈の声は平然としていた。
「榊。あなたは攻略支援者です。でも、支援役が最初に倒れれば、誰も帰れない。近づかれた時、自分で一体止める力は必要よ」
「……はい」
「久我は見学。手出し禁止」
久我が少し不満そうに眉を上げた。
「了解です」
そして晴人へだけ、声を落とす。
「無理そうなら声出せ」
「ああ」
「格好つけて黙るなよ」
「分かってる」
「本当か?」
「分かってる」
「二回言う時は怪しいんだよ」
晴人は苦笑し、それから短刀を抜いた。
黒い柄。銀灰色の短い刃。協会から支給された標準的な星骸短刀だ。《NULL/BLADE》とは違う。刃はある。重さもある。魔力を流せば、切れ味が少しだけ増す。派手な能力はないが、今の晴人にはちょうどよかった。
標的ドローンが三体、床の奥で起動する。
《模擬標的:三》
《脅威度:低》
《推奨:観測範囲を限定》
晴人は息を整えた。
全部は見ない。
まず、一番近いやつ。
次に、足元。
最後に、帰る位置。
標的が走り出した。
右、正面、左。三方向。晴人は正面だけを見た。正面の標的が踏む流路に、細く魔力を差し込む。床がわずかに滑る。正面の標的が半歩ずれる。
右が来る。
晴人は左足に魔力を通した。瞬間強化。半歩後退ではなく、斜め前へ出る。逃げるのではなく、右の標的の突進線から外れながら、正面の標的へ近づく。
怖い。
だが、足は止まらない。
左からの標的が視界の端に入る。見すぎない。今は正面。正面を止める。
晴人は短刀を逆手に持ち替えた。
《急所表示:模擬核》
《接近角度:許容》
表示はそれだけでいい。
晴人は身体を沈め、標的の首元にある模擬核へ刃を入れた。
硬い感触。
短刀に流した魔力が刃先でわずかに震え、模擬核の表面を破る。
標的ドローンが停止した。
直後、左からの標的が迫る。
晴人は短刀を抜ききるより先に、柄から手を離した。刃が標的に刺さったまま残る。執着しない。武器を回収するより、今は避ける。
左足を引き、右肩を半分落とす。
標的の体当たりが肩を掠めた。
痛い。
けれど、直撃ではない。
右の標的が旋回して戻る。晴人は床の流路を見た。濃い線が一本、自分の足元から右へ伸びている。そこへ魔力を流せば、右の標的は滑る。だが、深く流せば接続が増える。
浅く。
ほんの少しだけ。
晴人は指先を開き、床へ魔力を落とした。
標的の前脚が滑る。
晴人はその横を抜け、停止した標的から短刀を引き抜いた。
終了音が鳴った。
検証室が静かになる。
晴人は肩で息をしながら、短刀を握り直した。手が震えている。脛も痛い。肩も痛い。頭も少し重い。
だが、立っていた。
倒れていない。
朝比奈が端末を見る。
「標的一体撃破。二体回避。流路操作使用二回。瞬間強化使用三回。接続深度、許容範囲内」
白石が続ける。
「魔力漏出率、前回訓練時より低下しています。部分強化時の効率がかなり良いです。短刀への魔力伝達も成功。模擬核への刺突は有効判定です」
晴人は遅れて息を吐いた。
「……できた」
久我が壁から離れ、晴人の方へ歩いてくる。
「お前、今の普通に戦えてたぞ」
晴人は首を振りかけて、途中で止めた。
いつもなら、まだまだだとか、偶然だとか、訓練用だからだとか言っていたと思う。もちろん、それは事実だ。実戦ならもっと怖い。魔物はもっと不規則に動く。自分はまだ弱い。
でも、今できたことまで否定するのは違う気がした。
「一体だけなら、止められた」
「ああ」
「正面から殴り合ったら負ける。でも、動きをずらせば、刺せる」
「そうだな」
「俺、少しは動けるようになってるんだな」
久我は笑った。
「だから言ってるだろ。お前、強くなってるって」
その言葉は、昨日までより素直に胸へ入ってきた。
《条件達成》
《短刀術 Lv.1 を取得》
《瞬間強化 Lv.1:熟練度上昇》
《流路操作 Lv.1:安定度上昇》
《基礎魔力循環 Lv.1:熟練度上昇》
《回避歩法 Lv.2 へ上昇》
表示がいくつも重なる。
だが、晴人は全部を追わなかった。
必要なものだけを見る。
それから、短刀を鞘へ戻した。
「朝比奈さん」
「何?」
「もう一回、お願いします」
朝比奈は少しだけ目を細めた。
「今の状態で?」
「はい。疲れています。でも、今の感覚を忘れたくないです」
「接続深度は上げない。表示を追いすぎない。危険だと判断したら即停止。それでも?」
「はい」
朝比奈は白石を見る。白石は端末の数値を確認し、少し迷ってから頷いた。
「短時間なら許容範囲です」
「分かったわ」
朝比奈は標的ドローンを再起動した。
「ただし、次は撃破ではなく生存。三十秒、倒れずに避け続けなさい。短刀は抜いていい。流路操作は三回まで。瞬間強化は必要な部位だけ」
「はい」
標的三体が、再び動き出す。
晴人は短刀を抜き、腰を落とした。
さっきより、少しだけ呼吸が楽だった。
怖くないわけではない。痛くないわけでもない。自分が急に前衛になれるわけでもない。
それでも、見えているだけの自分ではなくなっている。
足が動く。魔力が通る。刃が届く。
支援役として生き残るための力が、少しずつ身体に宿っていく。
「来い」
小さく呟いた声に、久我が笑う気配がした。
標的が迫る。
晴人は表示の奥を覗き込まず、床を見て、呼吸を見て、自分の足を信じた。
三十秒後、終了音が鳴った時、晴人はまだ立っていた。
肩で息をし、膝を震わせ、汗で前髪を額に貼りつかせながら、それでも倒れずに立っていた。
朝比奈が端末を閉じる。
「合格」
その二文字に、晴人の表情が崩れた。
「やった……!」
久我が近づいてきて、晴人の背中を軽く叩いた。
「よくやった」
「ああ」
「ただ、最後の五秒、かなり危なかったぞ」
「分かってる。足がもつれた」
「次はそこ直せ」
「直す」
「返事はいいな」
「実行もする」
朝比奈が二人のやり取りを遮るように言った。
「榊、今日の訓練はここまで」
「はい」
「不満そうな顔をしない」
「してましたか」
「していたわ」
「すみません」
「謝る必要はない。けれど、成長した直後ほど無茶をしたくなる。そこを抑えるのも訓練よ」
晴人は短刀の柄を見下ろした。
まだ手が震えている。
でも、その震えは恐怖だけではなかった。疲労と、興奮と、ほんの少しの自信が混ざっている。
「分かりました。今日は休みます」
「よろしい」
白石が端末の記録を保存しながら、少しだけ笑った。
「榊さんの評価記録を更新します」
「どう更新されるんですか」
「限定条件下における単独敵性個体処理能力あり、です」
晴人は瞬きをした。
久我が横でにやりと笑う。
「ほらな」
「……いや、それはちょっと嬉しいな」
「ちょっとか?」
「かなり嬉しい」
「素直でよろしい」
「なんで久我が偉そうなんだよ」
「先輩前衛みたいなもんだからな」
「同期だろ」
「戦闘面では俺が先輩」
「それは否定できない」
晴人は笑った。
まだ弱い。
それは変わらない。
だが、もう何もできないわけではない。守られるだけでもない。自分へ向かってきた一体を、自分の技術で止められた。
支援役が、最後まで立っているための一歩。
その一歩を、今日は確かに踏み出せた。