竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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予審編:霧に隠れた犯人
霧の都 / 竜敦国教会審問局


 A.D.1888、霧の都・竜敦(ロンドン)

 ここは、灰色の分厚い霧に覆われ、ガス燈が常に灯る都市。

 

 その東側下町(イーストエンド)にあるホワイトチャペル教区を所管する警邏隊の巡査二名は、いつものように定時の巡回を行っていた。

 霧は低く垂れこめ、街路の先を白く塗り潰している。等間隔に立てられたガス燈と、手に持ったカンテラだけが頼りだった。

 

「うむ、異常はないな」

「そうみたいですね、誰もいません」

 

 男女二人組の巡査たちは、何事もなくその仕事を終えようとしていた。

 だが、彼らが街路の終端となる袋小路に辿り着こうとしたとき────

 

「きゃあぁぁぁあ!!」

 

「!」

「あっちからです!」

 

 女性の悲鳴が、突如、道の前方から聞こえてきたのだ。

 二名の巡査は声のする方へと、すぐに駆け出していく。

 遠くから、カラスが飛び立つ羽音と、その鳴き声が聞こえた。不吉なものを感じながら、彼らは走る。

 

「こ、これは……!」

 

 行き止まりに到着したとき、彼らは、女性が一人倒れているのを発見した。

 先ほどの声の主であろうか。女性は体から血を流しており、石畳の目地を赤黒く満たしていた。その血の量を見れば、彼女がもはや助からないことは警邏隊の巡査でなくとも容易に分かっただろう。

 

 周囲に大怪我をするような危険物や、不審な物はない。また、女性の手にも自らを害した凶器となるようなものは握られていなかった。

 

「! 先輩、これ、おかしくありませんか?」

「ああ。犯人は一体、どこに行ったんだ……?」

 

 しかし、現場となったこの場所は袋小路で、女性を襲った犯人が隠れられるようなところはない。ましてここから立ち去るには先ほど彼らが来た道を通らなければならず、そこを通れば巡回中の彼らと遭遇しないはずはなかった。だが、彼らは人っ子ひとり目にしていない。

 

 

 そう、犯人が消えたのだ。

 まるで、この霧に隠れてしまったかのように。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 竜敦(ロンドン)中心部を、都市の大動脈のように流れる、薄闇(テムズ)川。その左岸、西側山の手(ウエストエンド)の一等地に大聖堂が(そび)えている。24エーカー超となるその広大な敷地の一角に、竜敦国教会審問局は置かれていた。

 

 祈りの場である本堂とは異なり、審問局の回廊に並ぶのは告解室ではなく取調室だ。いずれにせよ、罪人が懺悔することには変わりない。

 そして聖歌の代わりに、革靴の音と書類をめくる音が反響していた。

 

 そのような審問局内の、とある一室。その扉の前に、三人の審問官が立っていた。

 扉は、他の取調室や書記官室のものよりもひと回り大きく、黒く磨かれた木肌には竜を象った浮彫が施されている。

 

 扉の前に立つ三人のうち、もっとも落ち着いているのは先頭の男だった。栗毛の髪をした彼は、柔らかな微笑を浮かべている。

 彼は振り返り、少し後ろに立っている残りの二人に声をかけた。

 

「さて二人とも、準備はできているかい? くれぐれも失礼のないようにね」

 

 声をかけられた二人うちの一人、アレクサンドラ・テリオンは、右肩に着けた揃いの肩掛けマントの皺をその背筋とともに延ばした。前に垂らした、一つ結びにされた長いアッシュブロンドの穂先が、マントとともに軽く靡く。新品の制式マントはまだ馴染んでいないようで、当人の緊張を表しているように感じられた。

 

 この場にいる三人は、皆一様に同じ衣装の肩掛けマントを身に着けている。肩掛けマントには、銀地に赤い逆十字の意匠があしらわれていた。逆十字は、まるで剣のように見える。

 

 もう一人のヴィクター・エヴァンズは対照的に、肩掛けマントの下に仕立てのいい装いを着崩している様子で、退屈そうに壁へ視線を流していた。銀色の髪と瞳が、銀地の肩マントと調和している。いや、銀の瞳は反射した光の加減によって、玉虫色の玻璃のようにも見えた。

 

 今日は、ここ審問局に新たな審問官が二名、着任する日だった。

 

「この扉の向こうに、君たちの上司となるハロルド枢機卿猊下がいらっしゃる。まあお優しい方だから、心配はしなくてもいい。さ、行こうか」

「……はあ」

 

 ヴィクターは返答の代わりに溜息をついた。自分たちの上司となる相手を"お優しい方"だと形容する先輩の言葉を、彼は全く信用していなかった。

 

「はい、テオ先輩。ヴィクター、ほらさっさと先に行ってくれ」

 

 アレクサンドラはそんなヴィクターの態度をじれったく感じ、少し前に立つ先輩に気安い返事をしたあとで、ヴィクターをせっついた。ヴィクターは、もう一度溜息をついてから、「……はいはい」と気怠げに返す。

 

「失礼します。本日から着任する新人二名をお連れしました」

 

 そんな新人二人を尻目に、先頭に立つ栗毛の先任審問官、テオドリック・ファリガは、重厚な扉を三回ノックして、ゆっくりと開いた。

 

 扉が内側へ開くと、冷えた空気が三人の足元を撫でた。気づけば、回廊に響いていた革靴の音や書類をめくる音が遠のいている。

 

 部屋は、想像していたよりも広かった。

 奥には祭壇めいた段差がある。 だが、そこに置かれているのは聖杯や燭台ではなく、黒檀の大机と、整然と積まれた書類の束だった。

 赤い封蝋の押された命令書、黒革の帳簿、警邏隊からの報告書。 壁には竜敦全域の地図が掛けられ、教区ごとに細かな線が引かれている。

 

 机の背後、部屋でもっとも高い壁には、一枚の大きな絵が掛けられていた。

 

 燃えるような翼を広げた赤い竜が、雲とも霧ともつかぬ白い渦の上に身を屈め、こちらを睥睨している。その足元には小さな人影が描かれていた。祈っているのか、踏みつけられているのか、遠目には判然としない。

 著名な画家ウィリアム・ブレイクによって描かれた、『偉大なる赤き竜』シリーズの水彩画を複製版画にしたものだ。同じシリーズの別の絵が、本堂にも飾られている。パブリックスクールに通う竜敦の学生であれば、神学の講義で使われるテキストの挿絵として馴染み深く感じたことだろう。

 

 その絵の下に、ハロルド・オルフェイシュトは座っていた。

 審問局局長を務める枢機卿にして、竜裔《りゅうえい》十三門の一角・オルフェイシュト家当主。

 竜敦(ロンドン)を統治する、支配層の一人だ。

 

 整えられた金色の髪。感情の読めない薄い碧眼。枢機卿とはいいながらも、その佇まいは祈る者というより、壮年の将軍のように見えた。

 

「来たか」

 

 執務室に人が立ち入ったことに気づくと、彼は書類から顔を上げた。

 それだけなのに、アレクサンドラは反射的に背筋を伸ばした。隣のヴィクターでさえ、ほんのわずかに顎を引く。

 

「ようこそ、審問局へ」

 

 ハロルドは、口元にごく微かな笑みをたたえて、歓迎の言葉をゆっくりと告げた。

 

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