竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
本審開始
翌日。
霧はいつものように、
窓硝子の向こうでは、
竜敦国教会審問局、局長執務室。
その薄明の中で、壁に掛けられた巨大な絵だけが、異様な存在感を放っている。
ウィリアム・ブレイク作『偉大なる赤き竜』。
翼を広げ、天より地を見下ろすその姿は、祈りの対象というより、審判という概念が具現化されたような姿に見えた。
そして、その絵の下に置かれた執務机には、すでに昨日の報告書が届けられていた。
「卿らの報告書は受理した」
厚手の紙束に、赤い封蝋が添えられている。
そこには昨夜の記録が記されていた。
事件番号、被害者名、発見時刻、現場の状況。そして、"異端事件"認定を行うという、予審の結論が。
「テリオン、エヴァンズ。初任務ながら、予審にて"異端事件"認定を行うとは、中々に剛毅なことだ」
ハロルドが報告書の
その声に叱責の色はない。
昨日着任したばかりの新人審問官アレクサンドラ・テリオンは、だからこそ背筋を伸ばした。
褒められているのか、試されているのか、判断がつかなかったからだ。
「昨日の事件は、これにて正式に審問局預かりとなった。ではこれより、本審手続きに入る。……テオドリック」
「はっ!」
テオドリックが一歩前に出た。
ハロルドの言葉を受け取り、それを新人にも理解できるような粒度に砕いてから渡す。彼はそういう役回りを、苦もなく引き受ける男だった。
「予審では、当該事件が、審問局が所掌するに値するものか判断したね」
テオドリックは明るい声音で話し始めた。
「本審では、実際に審問局案件となった事件を本格的に調査し、その真相を暴くことが求められる……わかったかな?」
「はい、テオ先輩」
「ようやくか。これだから組織ってやつは……」
もうひとりの新人審問官ヴィクター・エヴァンズは、今日初めて口を開いたと思うと、そのまま溜息を吐いた。
「……よろしい」
新人審問官二人の様子を見て、ハロルドが鷹揚に告げる。
「本審の捜査を行うにあたり、まずは捜査方針を固めることとする。まず我々は何から着手すべきか……テリオン、エヴァンズ、答えられるか?」
「ええと、何でしょう……。状況の確認と整理?」
アレクサンドラは真剣に考えた。
真剣に考えた結果、今まさに行われていることを答えた。
「アレクサンドラ、間違ってないけどそれは今してるやつだね」
「じゃあわかりません」
「諦めないで!」
その横で、ヴィクターは面倒くさそうに腕を組んでいた。だが、その態度とは裏腹に、目はハロルドの手にある報告書の一点を捉えている。
「まずは"メアリ殺害事件"の捜査からだろ。メアリを殺害した竜裔が誰か分からなきゃ、ジャックが誰を殺したかも分からん」
「然り」
ハロルドはそこで、ようやく報告書を閉じた。紙束の音が、判決のように響く。
「この事件には、二つの死がある」
壁に飾られた赤き竜は、何も語らない。
ただ翼を広げ、死者たちの名が読み上げられるのを見下ろしていた。
「すなわち、メアリ・ウォレンの死。そして、メアリ・ウォレンを殺した者の死」
ハロルドは
「まずは、メアリ・ウォレンの死の真相を明らかにする必要がある。そうすれば自ずと、第二の事件の被害者が明らかになるだろう」
メアリ・ウォレン。
昨日の一件の被害者。
報告書の上ではただの名前だが、その向こうには、昨日まで確かに生きていた一人の女性がいる。
彼女を殺した者を知るためには、まず彼女が何者だったのかを知らなければならない。
「おお、ヴィクター、よく理解しているね!」
「流石ヴィクター。じゃ、そういう訳だから頼むよ」
テオドリックの称賛に対して、ヴィクターは、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
アレクサンドラは、ちゃっかりヴィクターに頭脳労働を押し付けようとしていた。
「では、卿らにはメアリ・ウォレン殺害事件の捜査を命じる。そのためには、メアリ・ウォレンの素性を調べること。そして、事件当日から姿を消した竜裔を調べることだ」
「拝命しました!」
「私は明後日より始まる年度初めの公会議に向けて支度をせねばならない。……卿《けい》らの働きに期待する」
ハロルドの命令に、テオドリックは敬礼とともに返答を行った。
それから、アレクサンドラとヴィクターの方に振り返り、
「竜裔の捜索については、ひとまず僕のほうから各所に手配してみよう。昨日以降、消息が途絶えた竜裔がいないか問い合わせてみることにするよ」
と、これからの手筈を示した。
「メアリがどのような人物だったかの調査は、君たち二人に任せられるかな?」
「……了解した」
「はい、テオ先輩。あまり期待せずにお願いします!」
「期待してるよ?」
「だってさ、ヴィクター」
「今のはお前に言ってただろ」
「二人ともにね?」
「チッ……」
舌打ちをするヴィクターに、アレクサンドラはそっぽを向いて肩をすくめた。
「大丈夫かなあ……」
テオドリックは苦笑した。
二人の仲を心配したのではない。初任務を終えたばかりの二人に、被害者の人生を掘り返させることを懸念していた。
これから彼らが向き合うのは、不可解な事件現場だけではなく、死者が送った生身の人生と、愛する者を失った人々の悲哀に他ならないからだ。
それが本審という手続きなのだと、彼はよく知っていた。