竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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被害者メアリの肖像1

 イーストエンド、ホワイトチャペル教区。

 

 竜敦(ロンドン)の中心部から少し東へ外れただけで、街の色は目に見えて変わる。

 

 大聖堂の白い石壁も、審問局の磨き上げられた床も、ここにはない。あるのは煤けた煉瓦の壁と、泥を含んだ石畳と、朝から開いた露店の呼び声だった。

 

 霧はここでも変わらず街を覆っている。その白さは聖堂の窓硝子越しに見るものと同じだった。

 

 その雑踏の中を、二人の新人審問官が歩いている。

 アレクサンドラは人波を避けながら律儀に進み、ヴィクターは気怠げに肩を落として、その隣をだらだらと歩いていた。

 

「事前にざっと調べさせたが、メアリ・ウォレンは"子どもの父親"を周囲に明かすことは無かったそうだ」

 

 ヴィクターが、金で雇った使いに走らせて仕入れた情報を披露する。

 昨日遺体で発見されたメアリ・ウォレンは、臨月の妊婦だった。しかし、その胎内にいる赤子の父はわかっていなかった。そこにメアリ殺しの犯人とその動機に繋がるヒントがあるかもしれない、と、ヴィクターは考えていた。

 

「おかげで周囲は噂話には事欠かなかったらしい」

 

 ヴィクターは歩みを進め、視線のみで周囲を見回した。

 通りの端では、洗濯籠を抱えた女たちが声を潜めて笑っていた。

 魚屋の男は客の耳元に何事かを囁き、囁かれた客は眉を上げてこちらを見る。

 

 暇そうで何よりだ、とヴィクターはぼやいた。

 

「ふぅん。訳ありってことかな。人様の事情をあれこれと詮索するのは趣味じゃないんだが。ま、仕事だからね」

「そもそもメアリは若くして両親を失い天涯孤独の身になり、ホワイトチャペル教区の孤児院にて住み込みで働いていたらしいが……」

 

 ヴィクターの視線が、ふと横へ流れた。

 通りの向こう、果物を並べた露店の脇で、二人の女がこちらを見ながら何事かを囁いている。

 

 次の瞬間、彼は何事もなかったかのように顎で露店を示した。

 

「……アレクサンドラ。あそこのマーケットでリンゴ買って来い。腹減った」

 

 ヴィクターは、コインを弾くようにしてアレクサンドラに投げた。

 

「自分で行けこの我儘もやし。全く……すみません、リンゴを一ついただけますか」

 

 アレクサンドラは文句を言いつつも素直に従った。

 

 アレクサンドラの背中が露店の人垣に紛れたのを確認してから、ヴィクターはようやく顔を上げた。

 それまで眠たげに伏せられていた目が、通りを一巡する。

 

 果物売りの老婆。樽の上に腰掛けた少年。教会の塀際で立ち話をする女たち。店先の掃除をする男。

 誰がこちらを見ているか。誰がメアリの名に反応するか。聞いていないふりをして聞いているのは、誰か。

 

 ヴィクターはそれらを、ほんの数息のあいだに拾い上げた。

 

 だが、アレクサンドラが露店の老婆に代金を渡すのが見えた途端、ヴィクターの目から鋭さは消えた。

 肩は落ち、背は丸まり、口元にはいつもの気怠げな不満だけが戻る。

 まるで最初から、ただ腹を空かせてぼうっとしていただけだったかのように。

 

「ほらよ。さっさと食え」

 

 アレクサンドラは、リンゴを投げ渡した。

 

「ン」

 

 ヴィクターは危なげなく受け取り、しゃくしゃく食べながら再び歩き始めた。

 その小気味よい音は、今から口にする話の陰惨さに不釣り合いなほど明るかった。

 

「で、さっきの続きだが」

 

 ヴィクターはリンゴを頬張りながら言った。

 

「メアリが子どもの父親について決して明かすことがなかったのも、孤児院の経営悪化を理由に身売りを強いられていたのではないかというのが紳士淑女サマ方の結論らしい」

 

 ヴィクターはリンゴをもう一口齧った。

 甘い果汁を嚥下してから、薄く笑う。

 

「どこでも人サマの事をある事ない事好き勝手言うのが好きな人間てのは一定数いるらしいな。挙句その彼女が亡くなったっていうもんだから尾ひれは更につくばかり。全く泣けるぜ」

「それはそれは……。全く、噂話以外に娯楽の無い輩というのはどこにでもいるものだな」

 

 アレクサンドラは、冷えた声音ですっと目を細めた。

 死者は反論できない。だからこそ、生きている者は好き勝手に語る。

 その非対称性を、彼女は好まなかった。

 

「あくまで噂は噂だと言いたいところだが……仕事だからね。頭に入れておこうか」

 

 アレクサンドラは不本意そうにそう言った。

 

 噂は真実ではない。

 けれど、噂が生まれる場所には、必ずそれを必要とした誰かがいる。

 二人は、白く濁った通りの奥へと歩き出した。

 メアリ・ウォレンの肖像は、まだ霧の向こう側にあった。

 

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