竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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被害者メアリの肖像2

 ホワイトチャペル教区、警邏隊詰所。

 

 審問局の執務室とは違い、そこは雑然としていた。

 泥のついた長靴。壁に掛けられた外套。飲みかけの茶。乱雑に積まれた巡回記録。

 

 奥では誰かが巡回予定を読み上げ、別の机では羽根ペンが紙を引っ掻いている。

 ときおり、外から戻った巡査の靴音が石床を叩いた。扉が開くたびに、外の霧と街路の匂いが入り込んでくる。

 

 その中心で、赤髪の警邏隊長ウォルター・ロングウィトンはその筋肉質な身体を椅子に預けていた。

 

「よお、お二人さん。昨日ぶりだな」

 

 ウォルターの口調は気安い。

 昨日初めて会った時の、こちらの力量を測るような硬さは薄れている。

 ほんの一日とはいえ、同じ事件の現場に立った相手として扱われている。

 アレクサンドラには、そんなふうに感じられた。

 

 ウォルターの執務机を見ると、聞き込みの記録が乱雑に広げられている。どうやら彼もまた一晩を無駄にはしていなかったらしい。

 

「無事に調査は進んでいるか? わかったことがあれば聞かせてくれ」

 

 ウォルターの問いに、ヴィクターは当然のように半歩下がった。

 そして、これまでの報告を要約するという面倒事を、何のためらいもなく隣の同僚へ押しつける。

 アレクサンドラはその気配を察して、じろりと横目で睨んだ。

 

「わかったことと言いますか、これが調べてきた結果ですが……」

 

 アレクサンドラは指を折りながら、内容を順に挙げていく。

 

「被害者は天涯孤独の身で、孤児院で住み込みで働いていたこと。子どもの父親については決して明かさなかったらしいこと。あとは、孤児院の経営悪化を理由に身売りを強いられていたのではないか、という噂があることですね」

 

 そこまで言って、彼女はヴィクターを見た。

 

「そうだったよな、ヴィクター?」

「そんなとこだ。あんたの方でも分かった事があるのなら共有してもらいたい」

「そうだな。概ね、こちらで聞き込みを行ったことと一致している」

 

 ウォルターはそこで、少しだけ声を落とした。

 それまでの気安い調子が、わずかに影を帯びる。

 

「あとは、そうだな……メアリは孤児院の子どもたちからも慕われていたようで、子どもたちの悲しみ具合は酷かったぜ」

 

「……」

「……そうですか。痛ましいことですね」

 

 アレクサンドラの言葉は硬かった。

 

「それで一人、ショックで家出したまままだ帰ってきてない子どももいるそうだ……早く解決して安心させてやらなきゃな」

 

 ウォルターの太い指が、机上の聞き込み記録を軽く叩いた。

 そこには、子どもの名らしきものが走り書きされている。

 だが、今の彼らに追える手掛かりはまだ少ない。

 

「……帰ってきてないと言やあ、うちの女性巡査で一人昨日からいないやつがいるんだよな。ただのサボりならいいんだが……いやよかねえが、後で確認させておくか」

 

 ウォルターはふと思い出したように眉を寄せた。

 だが、それは事件の核心というより、隊長としての雑務を一つ思い出した時の顔だった。

 

「悪ぃな、あんまし役に立つ情報はなかったか。……ただ、ちょっと気になることもあるんだよな」

「? 気になることとは?」

「いやな、聞き込みでわかったメアリの人物像を踏まえると、昨日遺体で見つかった姿には違和感が……」

「違和感とは?被害者の状態についてはある程度聞いていますが……」

「自分でもはっきりとはわからないんだが、何か引っかかるんだよな。いや、遺体外傷のことじゃねえ、もっとこう、全体的な……」

 

 ウォルターは腕を組んだまま、うまく言葉を探しているようだった。

 現場を知る者だけが抱く、形になる前の違和感。

 その曖昧な引っかかりを、ヴィクターはしばらく黙って聞いていた。

 

「……調査で得られた結果から想像するに、普段のメアリは清貧な暮らしぶりだったんだろう」

 

 ヴィクターは面倒くさそうに目を伏せたまま言った。

 

「だが事件当夜、メアリの遺体は"着飾っていた"そうだな。あんたが言ってる違和感てのはそれか?」

「おお、それだ!」

 

 ウォルターは膝を打ったような声を上げた。

 

「たしかに、住民から聞いたメアリの格好と、昨日発見された遺体の服装とには乖離がある。まあ、単にそういう気分の日だったのかもしれないが」

 

 ウォルターは一拍置いた。

 その先を口にするのは、彼自身も気が進まないようだった。

 

「それが自発的なものか、"客"の要望かはさておきな……」

「……」

「……なるほど」

 

 "客"。

 その言葉に、アレクサンドラの表情がわずかに曇った。

 死者の尊厳を守りたいと思うほど、捜査は死者の尊厳を剥ぎ取る方向へ進んでいく。

 その矛盾を、彼女は感じていた。

 

 

 ──その時、詰所の扉が勢いよく開いた。

 

 

 外の霧を背負った巡査が一人、帽子を押さえながら駆け込んでくる。

 

「隊長、失礼します! 聖堂より電信が入りました!」

「ん? 用件はなんだ」

「審問局より、審問官二人に医薬局まで来るよう伝えてほしいとのことです」

「それはちょうどいいな。目の前にいるし、探しに行く手間が省けたぞ……というか自然に足に使おうとしたな」

 

 ウォルターは苦笑した。

 

「……だ、そうだ。おおかた何か新しい情報が入ったんだろう」

「チッ、面倒臭え……電信でそのまま言や良いだろ」

 

「まあ、わざわざ呼ばれてるからには何か理由があるんだろうさ。ではウォルター殿、失礼します」

「ああ、ちょっと待て。俺も着いていく」

「おや。医薬局に何かご用事でも?」

「ああ……お前らの捜査に同行する、という用がな。言ったろ、俺にはこの事件を捜査する義務と権利がある」

 

 ウォルターは椅子の背に掛けていた外套を取った。

 その動作に迷いはない。すでに決めていたことを、たまたま今になって口にしただけのようだった。

 

「何でも良いからさっさと行くぞ。……時間の無駄だ」

「そうだな。では行きましょうか」

「おい、俺はちょっと出てくる! ここは任せたぞ」

「は! 無事のお帰りをお待ちしております」

 

 ウォルターは部下に短く指示を飛ばし、外套を肩に掛けた。

 

 気怠げに先を急ぐヴィクター。

 その背を追いながら礼を尽くすアレクサンドラ。

 そして、二人の後ろから大股で続く警邏隊長のウォルター。

 

 

 三人が詰所を出ると、ホワイトチャペルの霧が再び彼らを包み込んだ。

 

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