竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
竜敦国教会、医薬局。
そこは、審問局とも警邏隊詰所とも違う空気を持っていた。
磨き上げられた床。白く塗られた壁。建物に入ったときから既に感じられる、鼻の奥に残る消毒薬と薬草の匂い。
その医薬局の入口で、テオドリックは係員と何やら書類を交わしていた。
審問官といえど、医薬局の奥へ無断で入れるわけではないらしい。
「やあ、君たち。待っていたよ……おや、ウォルター隊長も来ていたのかい?」
テオドリックが近づいてくる三人に気付き、声をかける。
「ああ。こいつらを呼びだしたってことは、何か掴んだんだろ? 俺にも聞かせろ。詰所の隊員が伝令役を務めた働きの分は返してもらうぜ」
「いや、警邏隊の詰め所はそういう連絡網のためにもあるんだけど……まあ、いいか。隊長も事件の関係者だし。知恵を絞る頭は多い方がいい」
そのまま、役職者であるテオドリックとウォルターは、受付の前で手続きと情報の取り扱いについて話し込む。
その間、ヴィクターは壁に背を預け、目に見えて退屈していた。
「……暇だ。何かしろアレクサンドラ」
話しているテオドリックとウォルターを横目に、ヴィクターはアレクサンドラに無茶ぶりをした。
「やだね。お前がやれ」
「お前が何か面白い事してくれたら考えてやるよ。そこにあるピアノで何か弾くとかな」
ヴィクターはロビーに置いてあるピアノを顎で示した。
待合いの隅には、古びたアップライトピアノが置かれていた。入院患者たちの慰問に使われるものだろうか。今は鍵盤蓋が開いたまま、誰にも弾かれず沈黙している。
「ええー……。じゃあ一応やるけど。後から文句言うなよ」
アレクサンドラは渋々椅子に腰を下ろした。
最初の数音はおぼつかなかったが、指は意外にも譜面を覚えていた。
ただし、音は強い。鍵盤を正面から叩き伏せるような音だった。
「……意外と弾けたな。昔取った杵柄ってやつだろうか」
「打鍵が強すぎる。もっと優しく弾いてやるんだな」
ヴィクターは、ぺしぺし、と彼女を椅子からどくようにはたき、代わりに椅子に座った。
そしてヴィクターは溜息まじりに、鍵盤に指を置いた。
次の瞬間、医薬局の白い待合いに、ゆるやかな音が流れた。
サティ作曲『ジムノペディ』第一番。
それは、世間に発表されたばかりの、知る人ぞ知る曲だった。どこか祈りにも似て、けれどずっと孤独な旋律だった。
アレクサンドラの音は鍵盤を押し切るようなものだったが、ヴィクターの音は鍵盤の上にそっと置かれるように聞こえた。
もし待合いに人がいれば、思わず振り返ってしまうほどの腕前である。
演奏が終わってから、アレクサンドラは軽く拍手を送った。
「いつもながら見事な腕前だね。音楽の先生になぜその実力を授業では発揮しないのかと嘆かれていたのを思い出す」
アレクサンドラは懐かしそうに目を細めた。
「私は特別音楽好きではないが、君のピアノの音はよく聴きに行っていたな。懐かしいよ」
「フン、こういうのは好きな時に好きなように弾くから良いんだろうが。誰かに押し付けられてやるならやらん方が良い」
「そういうものか。だからかな、君の音色は素直に美しいと思うよ。……ピアノの音色だけはな」
「言ってろ」
音色の余韻が白い壁に吸い込まれていく。
その静けさを、ウォルターの呆れた声が容赦なく破った。
「おい、何遊んでやがる。かーっ、こんなときに楽器演奏ですか、これだからエリートさんは」
「さ、入構手続きは済んだから、歩きながら話そう。行くよ」
「へいへい」
「はい、テオ先輩」
入構手続きを終えた一行は、医薬局の奥へと進んだ。
廊下の両脇には、磨り硝子の扉が規則正しく並んでいる。
その向こうからは、薬瓶の触れ合う音や、低い声で交わされる医師たち、化学者たちの会話が漏れていた。
テオドリックは歩調を緩めず、用件を切り出す。
「とりあえず、聖堂に出仕している竜裔の中で、昨日から来ていない者はいないか確認してもらったんだけど……医薬局に所属する竜裔が、ひとり昨日から消息がつかめないみたいでね」
その言葉に、廊下の白さがわずかに冷えた気がした。
昨日から消息がつかめない竜裔。
それは、第一の事件の犯人であり、第二の事件の被害者である可能性を意味している。
「その人は、医薬局の若く優秀な化学者ということだ」
「化学者ねえ……あの手の奴は研究の為なら突拍子もない事をするイメージがあるが、何か発見をしていてもたってもいられず、て訳でも無いんだろうな」
ヴィクターは急に足を止めた。
何かに気づいた顔だった。
それも、事件の真相ではなく、事件から逃げるための言い訳に気づいた顔だった。
「……俺は今偉大な発見をした。これはいてもたってもいられねえ。家に戻って考えをまとめさせてもらう」
ヴィクターはキリっとした顔で踵を返した。
その逃走は、踵を返して一歩目を踏み出したところで終わった。
アレクサンドラが、彼のマントの裾を容赦なく掴んだからである。
「その化学者が被害者兼加害者かもしれないということですか」
アレクサンドラは、ヴィクターのマントの裾を引っ掴みながら、疑問を口にした。
「チッ、この、離せ怪力女……!」
「はっ、女の腕一つ振り払えない軟弱男が」
アレクサンドラは鼻で笑った。
「たしかに、有力な容疑者ではあるな……が、安易に目の前の情報に飛びつくと痛い目を見るかもしれん。気をつけろよ」
ウォルターの声には、さっきまでの茶化すような響きがなかった。
いくつもの事件で、早合点がどれほど捜査を歪めるかを見てきた者の声だった。
「そうだね。ま、そのために僕たちが調べているんだ。そのうち明らかになるだろう」
「で、その化学者の名前は?」
「詳しくはこれを見てくれ、ここにまとめられているから」
テオドリックはプロファイリングシートを差し出した。
その書類は、審問局の局長執務室で見た報告書よりもずっと薄い。紙面には、丸眼鏡をかけて白衣を身に纏った、優しげな表情をした青年の写真が貼付されている。
ウォルターは、そこに記された名を独り言ちた。
「ふむ……"ヘンリー・ジキル"か。知らん名だな」
白い廊下の向こうで、薬瓶の触れ合う音がかすかに鳴った。