竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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小チャールズの「進化論仮説」

「で、ここがそのヘンリー何某の研究室、というわけか」

「ああ。審問官権限で立ち入らせてもらった」

 

 医薬局の奥、磨り硝子の扉の先に、その研究室はあった。

 

 室内には、まだ人がいた気配が濃く残っている。

 書きかけの走り書き。開いたままの専門書。試薬瓶の並んだ棚。火を落としたばかりのランプ。

 

「では、さっそく家探しと行こう!」

「……そりゃ、悪事を働きたいやつにとって審問官権限は欲しいわな」

 

 ウォルターは、審問官という役職が煙たがられながらも、成り手を希望する者が後を絶たない理由を思い出し、嘆息した。

 

 単に押し入り強盗をするなどという小悪党のことを言っているのではない。審問局は、その気になればあらゆる情報を収集できる。それを利用して政治的に立ち回れば、強大な権力を築き上げることも不可能ではないだろうと、そう直感したのだ。

 

 審問官権限は、正しく使えば異端を暴く剣になる。だが、使う者を誤れば、他人の秘密を抉じ開ける鍵にもなる。

 

「さすがは化学者サマの部屋だな。見たことねえ薬品やら実験器具やらがわんさかだ。これは何に使うものやら……」

 

 ヴィクターは、棚に並んだ器具の一つを無遠慮に手に取った。

 ガラス管、金属の留め具、小さな羽根車のような部品。

 

 乱暴に扱っているように見えて、その指先は意外なほど慎重だった。

 当然、壊す気はない。ただ、見ているだけでは気が済まないのだ。

 

「壊すなよー。テオ先輩に叱られても知らないからな」

「俺が?冗談だろ。……ははあ、これはつまり攪拌に使うんだな」

 

 仕組みが分かった瞬間、ヴィクターの表情からほんの少し不機嫌が消えた。

 目の前の物がどう動き、何のために作られているのか。

 それを理解すること自体は、彼にとって嫌いな作業ではないらしい。

 

「さて……ほらよ。一緒になって置いてあった論文だ。お前の好きそうな内容が書いてあったから読んでみたらどうだ?」

 

 ヴィクターは、散乱してあった抜き刷りの論文を指で指し示した。

 机の端には、抜き刷りの論文がいくつも重ねられていた。

 その中の一枚だけ、紙の端が何度も折られ、余白に細かな書き込みがある。

 

「どうやらそれは"進化論"に関するものらしい」

 

 ヴィクターは、論文のタイトルを視界に入れながら、アレクサンドラに伝えた。

 

「おい、無駄に現場を荒らすなよ」

「へいへい」

 

 ウォルターに釘を刺されるも、ヴィクターはどこ吹く風という様子だった。

 

「進化論ねぇ。いったいどんな内容なのか、軽くで良いから教えてくれるかい?これ以上無駄に現場を荒らすわけにいかないからね」

 

 アレクサンドラは、ヴィクターに質問を投げかけた。

 

「あ? 面倒臭えな……あいつ、余計な事言いやがって」

 

 ヴィクターは論文の冒頭に目を走らせた。

 すぐに眉間へ皺が寄る。内容が難しいからではない。それを口に出して説明しなければならないことが、心底面倒なのだ。

 

「……要するに、"長命かつ高い自己治癒能力を持つ竜裔は、偉大なる赤き竜の血を引くという神話的な説明だけで片づけるのでなく、人間が『進化』した種族であると考えるべきではないか"って異端思想すれすれの仮説が論じられてんだよ」

 

 進化。

 その語は、近年になって一部の学者たちの間で囁かれるようになった、新しい世界の見方だった。

 

 だが、竜敦国教会の教えにおいて、竜裔とは偉大なる赤き竜の血を受けた者たちである。

 それを自然の働きによって生じた種と見ることは、信仰の根に刃を入れるにも等しい。

 

「へぇ……それは確かに面白そうだ。あ、テオ先輩には黙っといてくれ」

「ん? 呼んだかい?」

 

 アレクサンドラが小声でそう言った、その背後から、やけに穏やかな声が返ってきた。

 

「ふむ、ヴィクターの手元にある論文は……ああ、小チャールズの進化論仮説か」

 

 テオドリックは懐かしそうに目を細めた。

 

「ちょうど20年前くらいに発表された論文でね、当時は国教会の教えに背くとして学界からは危険視されていたそうだよ」

 

 その論文の著者は、既に名を馳せていた同名の偉大な神学者と区別するため、当時の学生たちから"小チャールズ"などと呼ばれていたようだ。

 

「今では落ち着いていて、おおっぴらにはしていないけど影で進化論を信じている学者も少なくないという噂だ」

 

 テオドリックの声は、危険思想を語るものにしては妙に懐かしげだった。

 彼にとってそれは、焚書や処罰の対象というより、若い学徒たちがこっそり回し読みした刺激的な読み物だったのだろう。

 

「へぇー。流石テオ先輩、博学ですね」

「ちょうどね、僕がスクールに通っていた頃に流行っていたんだ。ほら、あの年頃って、そういうの好きでしょ?」

「テオ先輩っておいくつでしたっけ?」

「おおっとそれは禁句だぞ!」

「何言ってんだ、隠すほどのことでもないだろ」

 

 ウォルターが横から発言した。

 

「今こいつが言ってた通りだ。俺たちはちょうど20年前くらいにスクールに通っていたから、ま、あとは計算してくれ」

「あ! バラしたな!」

「仲良いですねぇ……」

 

 アレクサンドラは、テオドリックとウォルター、二人のやり取りを半ば呆れ、半ば興味深く眺めた。

 審問局と警邏隊という、ときに衝突する部局に所属する者同士の犬猿の仲というより、古い悪友同士のような気安さがそこにはあった。

 

 事件の渦中にいることを忘れそうになるほど、そのやり取りは自然なものに思えた。

 

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