竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
テオドリックとウォルターの旧友めいたやり取りをよそに、ヴィクターはすでに別の世界へ沈んでいた。
机上に積まれた論文。書き込みだらけの専門書。走り書きのメモ。
彼はそれらを片端から開き、興味深げに目を走らせている。
誰かと雑談するより、死んだかもしれない化学者の思考を辿る方が、今の彼にはよほど興味深いらしい。
「ヴィクター、何か面白いものでも見つけたかい?わかった事があるなら教えてほしいんだけど」
ちょうど面白い所なのだろう、ヴィクターはアレクサンドラには目もくれない。
椅子代わりに腰掛けた机の縁で、彼は論文から目を離さないまま、傍らに置かれた小切手を指先で叩いた。
見ろ、という意味らしい。
小切手には、ホワイトチャペル教区の孤児院へ全財産を寄付する旨が記されていた。
金額の欄に並ぶ数字は、アレクサンドラの想像よりもずっと大きい。
それは、単なる慈善というには切迫していた。
「全財産を寄付?身辺整理でもしてたのか?」
「さあな。置いてある論文やら本の傾向を見るに、そんなタマじゃないようにも思えるが」
研究室に残されたものは、どれも前へ進むための準備に見えた。
読みかけの本。途中まで解かれた式。余白に書き散らされた仮説。
そこに、終わりを選ぶ人間の思考は表れていない。
「全財産とはこれまた妙だな……資金洗浄、などと考えるのは早計か?」
「小切手はまだもう一つあるだろ。そっちも見てみろ」
怪訝そうに考え込むウォルターに対して、ヴィクターは会話に答えながらも、意識の半分はすでに別の場所にあった。
黒板に白い線が走る。
数式、略号、化学式らしき記号。
彼はヘンリーの思考の跡を、勝手に追いかけ、勝手に続きを計算しているようだった。
もう一枚の小切手には、装飾品店の名が記されていた。
品目は、指輪。しかも、揃いのものが二本。
その文字を見た瞬間、アレクサンドラの脳裏に、昨夜の遺体の情報がよぎる。
着飾っていたメアリ。子の父親を明かさなかったメアリ。
そして、昨日付けで購入された二本の指輪。
「指輪……?揃いでとなると、エンゲージリングが思い浮かぶけど……」
一枚目は、死ぬつもりだった者の支払いにも見える。
だが、二枚目の小切手の、指輪二本という文字は、どうしても死よりも先の未来を向いているように思えた。
「指輪か……だけど、現物はパッと見る限りこの部屋には無さそうだ」
「現場で死亡したのがジキル氏で、その時彼が所持していたのなら消失していることになる……んですよね?」
「その可能性もあるが、孤児院への寄付の小切手も指輪二本を購入した小切手も、どうやら昨日付けで支払いが行われていたみたいだからな。指輪に関しちゃ後日受け取るつもりだった、ってのもあり得る」
「そうだな。その両方とも可能性としてはあり得る」
テオドリック、アレクサンドラ、ヴィクター、ウォルターの順で、四人はそれぞれ、目の前の小切手から考えられる可能性を口にした。
「昨日付けって、めちゃくちゃ最近だな」
「昨日になって、指輪を二本買い、全財産を孤児院に寄付した、か。何か心境の変化でもあったのかな?」
「もし本当にジキル氏が亡くなっているとしたら、死の直前にですよね。謎だなぁ」
アレクサンドラとテオドリックは揃った動きで首を傾げる。
「調べてりゃ自ずと分かる話だ、それにまだ調べてない箇所もあるだろ……例えば、こことかな」
ヴィクターは、鍵のかかった机の引き出しを指し示した。
机の一番下の引き出しだけが、固く閉ざされていた。
取っ手には小さな鍵穴があり、何度か開け閉めされた跡がある。
ヴィクターは普通に開けられないのが面倒らしく、暗にアレクサンドラに調べろと言っているようである。
「なるほど。……テオ先輩ってピッキングとかできます?もしくは破壊して良いですか?」
アレクサンドラは、テオドリックをチラッと見た。
「ええ!?」
水を向けられたテオドリックは、大きな声を上げて驚いてみせた。
「ピッキング? そんな盗人のような鍵開けなんて……」
しかしその後テオドリックは一息溜めて、にやりと笑って言った。
「……できちゃうんだなあ、これが」
テオドリックは胸元から細い金具を取り出した。
なぜそんな物を当然のように持っているのか、誰も訊かないことにした。
「流石先輩!有能!そういうとこ大好きです!」
「気を付けろよ、こいつスクール時代は結構なヤンチャ野郎だったからな、色んな意味で」
「今もそこそこヤンチャなような……」
「さあて、君たちがそんな話をしているうち……ほら、この通り。引き出しの中身は……これは、日記かな?」
引き出しの中にあったのは、一冊の革表紙の日記だった。
几帳面な筆跡で日々の実験記録が綴られている。
ただ、その
インクの濃淡が乱れ、文字がわずかに跳ねている。
書いた者の高揚が、紙面にそのまま残っているようだった。
「ふむふむ……『ついに"退化薬"が完成した! これで彼女と同じ時を過ごすことができる!』、とあるね」
「"退化薬"、というのは?」
アレクサンドラが聞き慣れない単語に引っかかり、尋ねる。
「さっきの論文読んでりゃ分かる話だろ。竜裔を人間が"進化"した種族であるとするなら、"退化"は竜裔から人間へと逆戻りする、って事だ」
アレクサンドラは、ようやくヘンリーの研究の輪郭を理解した。
竜裔を、赤き竜の血を引く存在ではなく、進化した人間と見る。
ならば、その進化を逆向きに辿れば、人間へ戻れるはずだ。
それが、ヘンリー・ジキルの仮説だった。
「事実だとしたらとんでもない代物じゃないか?人為的に竜裔を人間に変えられるなんて……いくらでも悪用できるんじゃ」
アレクサンドラの声には、先ほどまでの軽さがなかった。
彼女は学説の正否ではなく、それが街に持ち出された時のことを考えている。
「かもな。いよいよ面倒臭え事になってきてうんざりだ」
机上には、孤児院への寄付を示す小切手。
揃いの指輪を買った記録。
そして、竜裔を人間へ戻すという日記の一文。
メアリ・ウォレンの死は、ただの痴情のもつれや噂話では済まなくなっていた。
ヘンリー・ジキルは、愛のために神聖不可侵の領域へ手を伸ばしたのか。
それとも、何か別のものに触れてしまったのか。
ヴィクターは、長ったらしい溜息を吐いた。