竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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早く会いたい

 研究室には、薬品の匂いと紙の擦れる音だけが残っていた。

 

 "退化薬"。

 その名が口にされた後、誰もすぐには次の言葉を継げなかった。

 

「それは……すごいな」

 

 ヴィクターの説明を聞いたテオドリックが、思わずといった調子で漏らした。

 

「だが、この研究室には薬品が大量に並んでいる。どれが"退化薬"なのかはてんでわからんな」

 

 ウォルターはひとつの薬瓶を手に取り、眺めながら言った。

 

 机上には薬瓶がいくつも並んでいる。

 そのどれかが、竜裔を人間へ戻すはずだった薬かもしれない。

 あるいは、竜裔を人間以下のものへ堕とした毒かもしれない。

 

「その日記には、他に何か書かれていないのか? 何かヒントになるようなことは」

「そうだね、どれどれ……」

 

 テオドリックは日記を手に取り、慎重に(ページ)をめくった。

 実験記録。投与量。反応時間。失敗例。

 几帳面な文字列の合間に、時おり私的な記述が挟まっている。

 その一節を見つけた時、彼の指が止まった。

 

「……これは!」

「何かあったか!?」

「ここを見てくれ。こう書かれている」

 

 そしてテオドリックはその一節を読み上げた。

 

「『彼女のお腹の中には、僕と彼女との愛の結晶が今も眠っている。メアリ、早く会いたいね。待ちきれないよ』、とね」

 

 研究室に沈黙が落ちた。

 その一文だけを見れば、幸福な未来を待ちきれない男の言葉に見えた。

 だが、彼らはその未来がすでに血の中で失われたことを知っている。

 

「……途中からそんな予感はしていましたが」

 

 舌打ちが響く。

 ヴィクターのものだった。

 

 それが日記の主へ向けられたものなのか、事件そのものへ向けられたものなのか、あるいは、ここまで辿り着いてしまった自分たちへ向けられたものなのかは分からない。

 

「……繋がった、な」

「未だ謎だらけではありますが、最期の奇跡とやらが起きた理由は納得がいきましたね」

「そうだね。メアリ殺害の犯人がヘンリーだとして、"最期の奇跡"がヘンリーの発動させたものだとすれば、辻褄は合う」

 

 竜裔は死の間際、祈りを霧へ宿す。

 

 "最期の奇跡"。

 もしあの場で命を落とした竜裔がヘンリーだったなら。もし彼の最後の願いが、腹の中の子だけでも救いたいというものだったなら。

 昨日の不可解な奇跡には、一応の説明がつく。

 

「だが、ならどうしてメアリを殺したんだ? テメエの子どもだけ助かればそれでいいってか?」

 

 ウォルターの声が低くなる。

 机上の小切手や日記の文字が、どれだけ美しい未来を語っていようと、彼が見たのは血に濡れた現場だった。

 

 メアリ・ウォレンは命を落とした。

 その事実だけは、どんな理由でも薄まらない。

 

「……うーん。下衆な推論ならいくらでもできますが、まだ何とも……」

 

 アレクサンドラがふと横を見ると、ヴィクターはいつも以上に不機嫌そうな顔をしていた。

 

「……どうしたヴィクター、いつにも増して不景気な顔だな。まあ、確かに胸糞の悪い話だが」

「……」

 

 ヴィクターは日記から目を逸らしていた。

 それは珍しいことだった。

 面倒な資料でも、退屈な報告書でも、彼は読むべきものなら読む。

 

 だが、その一文だけは、目に入れておくこと自体が不快であるかのようだった。

 

「別に、面倒な事件だと思っただけだ。だがまあ、ようやく見えてきた。薬の効果も、何故今回の事件が起こったのかも」

「と、言うと?」

 

 テオドリックがヴィクターに尋ねる。

 

「恐らくだが、ヘンリーは開発に失敗した、あるいは不完全な退化薬を自らに投与したんだろう」

 

 ヴィクターは黒板へ視線を戻した。

 進化。退化。竜裔。人間。獣。

 断片的だった言葉が、彼の中で一つの線に並んでいく。

 

「アレクサンドラ。検分記録の結果はどうだったか言ってみろ」

 

 同じことを何度も言うのが面倒なのか。

 それとも、彼女自身に答えへ辿り着かせるつもりなのか。

 ヴィクターはアレクサンドラへ視線だけを投げつけた。

 

「は?……被害者のメアリ・ウォレンは臨月の妊婦で、全身、特に腹部を鋭利な刃物で刺された状態で死亡。周囲では他の人物は目撃されておらず、遺体のすぐそばには異端思想の記された一冊の本。これでいい?」

 

 鋭利な刃物による切創。

 報告書にはそう記されていた。

 だが、切り裂くという行為は、必ずしも刃物だけのものではない。

 爪。牙。あるいは、それに類する何か。

 人の手ではなく、獣の衝動によって刻まれた傷。

 

「メアリの遺体にあったその切創。ナイフか何かで刺されたと考えるのが普通だが……"凶暴な獣"に襲われた傷のようにも見えた筈だ」

 

 正確な答えが返ってくるのがさも当然であるかのように、ヴィクターはそのまま続ける。

 

「つまりヘンリーは、開発に失敗した、あるいは不完全な退化薬を自らに投与して"凶暴な獣"のようになり、理性を失った。そうだとすりゃあの遺体の状態にも説明が付く」

「はあ? ……そんなことあるのか?もしそうだとしたらよりやばい代物じゃないか」

「人間に"退化"して竜裔としての権威を失うか、獣となりヒトとしての尊厳を失うか……何にせよもしこんなモノが世に出回った時にゃ大混乱は避けられねえだろうな……全く、恨むぜヘンリー。こんなもん作りやがって」

「進化論、間違ってたのかな……」

 

 テオドリックは、ちょっと残念そうだった。

 

「いいや、あながち間違いじゃなかったかもな。俺たち竜裔も平民も、大元は獣から進化した……のかもしれない」

 

 テオドリックの呟きは、冗談とも本気ともつかなかったが、それを聞いたウォルターは笑わなかった。

 

「俺たちは理性を獲得して、文明を得てここまで進歩したんだ。だというのに、それを逆行させるやつがあるか」

 

「実際の所はどうあれ、少なくともヘンリーはメアリと恋仲にあると思っていた」

 

 ヴィクターは日記を指で叩いた。

 

「彼女を愛するあまり自らの長すぎる時を悲観し、竜裔ではなく同じ人間として彼女と歩む事を切望していたヘンリーは、長い研究の末に退化薬を発明したかに思えた」

 

 ヴィクターの視線は、机上の薬瓶を捉えていた。

 

「が、結果は見ての通り。人間どころか理性のない獣にまで成り下がったヘンリーは、考えうるかぎり、最悪の方向に『欲望』を暴走させた」

 

 そして、その根拠をぴしゃりと叩きつけた。

 

「その証拠が、遺体の特に腹部に集中していた切創だ」

 

 その言葉を受けて、テオドリックが日記へ視線を戻した。

 ウォルターもまた、腕を組んだまま低く唸る。

 

「ヘンリーの抱いていた欲望、か……」

「何か、ヒントになるようなものはないのか? 先ほどの日記とか」

「そうだね……そうなると、やはりここが重要だろう。『彼女のお腹の中には、僕と彼女との愛の結晶が今も眠っている。メアリ、早く会いたいね。待ちきれないよ』」

「なあ、これなんだが。なんで、『メアリ、早く会いたいね。待ちきれないよ』なんだ?」

 

 ウォルターが何に引っ掛かっているのかわからないようで、テオドリックは首を傾げる。

 

「普通なら、『メアリ、早く会いたいよ。待ちきれない』みたいにならないか?」

 

 そこまで聞いて、アレクサンドラも、ようやくその違和感に気づいた。

 

 早く会いたいよ、ではない。

 早く会いたいね。

 それは、メアリに向けた言葉ではない。

 メアリと共に、誰かを待つ言葉だった。

 

「メアリとの愛の結晶、我が子との対面を一刻も早く果たす事。これがヘンリーにとっての『欲望』だった訳だ」

 

 テオドリック達の話を聞いてか、ヴィクターはそのまま自らの推理を続け、言い終えた。

 

「腹部に切創が集中していたのは、腹から子を無理矢理に取り出そうとしたからだ、と?確かに最悪だな。胸の悪くなる話だ」

 

 アレクサンドラの声に、研究室の誰も、すぐには言葉を返さなかった。

 小切手、指輪、日記、退化薬。そのすべてが、最悪の形で一つにつながってしまった。

 

 テオドリックは絶句し、ウォルターは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 

「と、いうことは……昨日のメアリ殺害事件の犯人とその動機は……」

 

 アレクサンドラは一度言葉を区切ってから、続けた。

 

「退化薬を自身に投与したヘンリー・ジキル。動機は、メアリの腹の中にいた我が子に会うため……。そういうことになりますね」

「なんということだ……」

 

 テオドリックが片手で頭を抱える。

 

 

 

 

 ───アは、やっと会えるね……待ちきれないよ───

 

 

 

 獣に堕ちたヘンリーの、理性を失くした喜悦の声が、霧の向こうから聞こえたような気がした。

 

 甘いはずの言葉が、今はただ、おぞましい祈りのように思えた。

 

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