竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
研究室の空気は、先ほどまでとは明らかに変わっていた。
机上に並ぶ薬瓶は、もはや単なる研究資料ではない。
そのどれか一つが、竜裔を獣に堕とし、人を殺させたかもしれない薬だった。
「ファリガ、この研究室にある薬品すべてを押収するぞ」
ウォルターは、テオドリックに硬い声を投げかけた。
「お前は、一刻も早くここを封鎖し、ここに出入りのあった人物をすべて洗え。他に持ち出されていたら最悪だ」
「あ、ああ! わかった!」
一刻も早く押収しなければならない。
だが、どれが何なのかも分からないまま、乱暴に運ぶわけにもいかない。
研究室に並ぶ薬瓶は、いまやすべて爆薬にも等しかった。
「チッ、薬が多くて何が何だか……おい、そこの、お前なんて言ったか。インテリ白もやしだっけか」
ウォルターは、ヴィクターを指さした。
ヴィクターは返事をしなかった。
聞こえていないのではない。
聞く価値がないと判断した声を、耳が勝手に通過させているだけだった。
「大体あってます! おいもやし、呼ばれてるぞ」
アレクサンドラは、マントの裾を思い切り引っ張った。
「あ?チッ、何だよ一体……」
ヴィクターは、頭をガシガシと掻きながらウォルターの元へ向かう。
「お前、博識のようだな。ここの薬品の取り扱いわかるか? 危険物は選り分けて、厳重に梱包したうえで運搬しなきゃならん」
ヴィクターは、うんざりするほど長い溜息を吐きながら、ざっと薬品類を見回した。
「ここにあるのは消毒薬、そっちが生薬系、あれは恐らく解熱か鎮痛に使う混合薬だ。あとは知らん。せいぜい高温多湿に注意しながら一つ一つ別々に梱包して、鑑識に出すまで暗所にでも保管しとけ」
「よし、ならお前は俺に付き合え。ちょっとトランク貰ってくるから、そこで分別していてくれ!」
「あ、ウォルター隊長! ……よし、僕たちも僕たちにできることをしよう。アレクサンドラ、こっちは君が来てくれるかい?」
「はい、テオ先輩!」
「ここ医薬局は、
「勿論。私はあのインテリ白もやしと違って、そういうのが役目ですからね」
「よし、離れるなよ! ヴィクター、君も任せた!」
「面倒臭すぎる……」
ヴィクターは、死ぬほどうんざりした顔をした。
「待たせた! よし、これに詰めていこう。クソッ、それにしても数が多い……」
「ウォルター隊長、うちの部下をよろしくね」
「ああ。せいぜいこき使ってやる。お前も早く行け」
「了解! 行くよ、アレクサンドラ!」
「はい!」
「怠い……面倒臭え……」
態度は最悪で足癖も悪いが、ヴィクターの手元は淀みない。
◇ ◇ ◇
医薬局を出る頃には、通りには人混みが戻り始めていた。
仕事帰りの職人、買い物籠を抱えた女、物売りの声。それらが、まばらに行き交う。
「結局、すげえ量になっちまったな……」
ウォルターの両手には、薬品の詰まったトランク二つが握られていた。
「わりぃな、お前にもひとつ持たせちまって。まあインテリ白もやしには良い運動になるだろ」
ヴィクターは不満そうだったが、トランクを手放そうとはしなかった。
その中に本当に“退化薬”が混じっているかどうかは分からない。
分からないからこそ、落とすわけにはいかなかった。
薬瓶は一つ一つ厳重に梱包され、片手持ちのトランクケースに詰め込まれている。
「はあ……何で俺が……」
ヴィクターは、ぶつくさと文句を言う。彼は、片手持ちのトランクを一個、両手で抱えるようにして持ち運んでいた。
「まあ、そう文句を言うな。俺としては助かったぜ、お前がいてくれてな」
「フン……」
ヴィクターは鼻を鳴らした。
「────!」
咄嗟の出来事だった。
行き交う人ごみの影から、一人の少年が飛び出してきた。
少年は前を向いていないように見えた。
足元を見て、ただ我武者羅に走っているように見えた。
だが、その軌道はまっすぐヴィクターへ向かっていた。
このままいけば、数秒後には少年とヴィクターは激突してしまうだろう。
ヴィクターの目と、少年の目が合った。
それで、ヴィクターは気付いた。
少年の目は、大切な人を喪った者の目だった。
この世のすべてを恨み、それでもどこへ怒りをぶつければいいのか分からない者の目。
かつて母と生き別れた時、鏡の中にいた自分と同じ目をしていた。
「あああああああ!!!!!!!」
少年は、言葉にならない呻きのようなものを上げて、こちらに手を伸ばしていた。
ヴィクターは反射的にトランクを抱え直した。
中身は危険薬物かもしれない。
少年に触れさせるわけにも、地面に落として割るわけにもいかない。
だから、彼はトランクを頭上へ掲げた。
少年の手から、少しでも遠ざけるために。
────それが過ちだと気づいたのは、その直後だった。
その判断は、間違っていなかったはずだった。
少なくとも、相手の狙いがトランクであるならば。
だが、少年が欲していたのは薬ではなかった。
少年の狙いが、ヴィクターの腰に佩いた一振りの剣であることに気付けるはずもないのだから。
ヴィクターがトランクを頭上に掲げたことにより、ヴィクターの腰帯はむしろがら空きになってしまった。
少年の手が、ヴィクターの腰へ伸びた。
ダモクレスの剣。
審問官であることの証として佩かされた一振り。
ヴィクター自身が、これまで身分証以上の意味を与えてこなかったもの。
その柄を、少年の小さな手が掴んだ。
小柄な身体が、ヴィクターの足元をすり抜ける。
次の瞬間、剣は鞘から無理やり引き抜かれていた。
銀白の刀身が、ガス燈の光に反射して、眩しく輝いた。
ダモクレスの剣は、抜くとこんな色をしていたのか。
ヴィクターは、場違いな感想を抱きながら、自らの死を覚悟した。
「メアリ姉さんを! 返せ───!!!」
少年は、自らに出せる最大の声量を上げながら、ダモクレスの剣でヴィクターの胸を貫くように突進した。
その叫びだけで、ヴィクターは悟った。
家出したという孤児院の子ども。
メアリを慕っていた子どもたちの中でも、おそらく誰より深く彼女を失った少年。
彼にとってメアリは、ただの孤児院職員ではなかったのだ。
「……そうか、」
時間が、引き延ばされたように感じられた。
ヴィクターは、少年の怒りを見ていた。
その怒りを、どこかで受け入れてもいた。
かつて母を喪い、自らの無力を呪った幼い自分が、瞼の裏でこちらを睨んでいる。
あの頃の自分が、ようやく罰を受ける場所を見つけたような気がした。
ヴィクターは目を閉じた。
その瞬間、横から重い足音が踏み込んだ。
ヴィクターの前に、大きな影が立ちはだかる。
剣がヴィクターを貫くことはなかった。
「──────ッグ」
銀白の切っ先は、ウォルター・ロングウィトンの胸を貫いていた。