竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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霧に包まれた、証

 一瞬、通りの喧騒が遠のいた。

 

 ガス燈の下で、銀白の刀身だけが妙に明るく見えた。

 その切っ先は、ウォルター・ロングウィトンの胸を貫いている。

 

「あ、ああ……」

 

 少年は、自らの行いを怖れて、握っていた剣の柄を震えながら手放す。

 

「……大丈夫だ。心配ない」

 

 ウォルターは少年とヴィクターを安心させるように、言った。

 

「俺は竜裔だぞ? このくらいの傷、いつもならすぐ……ゴホッ……なん、だと……?」

 

 ウォルターは、驚きを隠せないまま、肺に溜まった血で(むせ)返った。

 

「ああ、そういうことかよ……こいつは、ちょっとまずった、な。いつもの癖で、自己治癒頼みにして、体で受け止めるんじゃなかったぜ。ま、いいか……ファリガの奴に、よろしくされちまったし、な」

「あんた馬鹿か!? 何で俺を庇った……!俺だって曲がりなりにも竜裔の……! おいッ、しっかりしろ!良いか、そこで大人しくしてろ、今人を呼んでくるから……だから、生きることを最後まで諦めるんじゃねえ!!」

 

 ヴィクターの声には、これまで聞いたことのない焦りが滲んでいた。

 

「くそ、血が……ッ」

「ち、ちがう、ぼく、は……」

 

 少年は、首を左右に振りながら、ゆっくりと後ずさる。

 

「──おい、坊主」

 

 自分が傷つけた相手から声をかけられたことに驚き、少年の体は大きく跳ねた。

 

 少年は、親に悪事を叱られることを覚悟した子どものように、目をつむって、続くであろうウォルターの言葉を待った。

 

「……坊主、お前、メアリ嬢の?」

 

 だが、続いた言葉は少年の想像したものとは違っていた。

 

 少年は、無言で頷く。

 

「そうか……そりゃあ、悪かったな。お前の姉さんを守れなくて」

 

 言葉の途中で、ウォルターの喉が嫌な音を立てた。

 それでも、彼は笑みを崩さない。

 少年に、自分が刺した相手の苦悶を見せまいとしているようだった。

 

「喋るな、大人しくしてろって言ってんだろうが……!」

 

 ヴィクターは唸るように言った。

 

「う、ぅあ……」

 

 少年の目から、涙が零れる。昨日からずっとせき止めていたものが、決壊したようだった。

 

「すまなかった、本当に」

 

 ウォルターは、胸に切っ先を生やしたまま、片膝を立てて少年に目線を合わせた。

 

 少年はまだ震えていた。

 このまま放っておけば、自分が人を刺したという事実に押し潰される。ウォルターはそれを良しとしなかった。

 

「だが、それにしても……お前、すげえじゃねえか」

「……?」

 

 少年は、ウォルターが何を言いたいのかわからず、目に涙を浮かべながら困惑した表情をしている。

 

「あいつ、パブリック・スクールを首席で卒業したエリート様らしいぜ? そんな相手から、剣を奪って攻撃を仕掛けるなんて、良いセンスだ。ま、インテリ白もやし相手にはちょっと簡単すぎたか?」

 

 ウォルターは、ヴィクターを後ろ手に指差し、笑って言った。

 

「うるせえよ……両手塞がってた奴が言うな馬鹿野郎が……」

「俺もスクールの出だが、竜裔にしてはとんだ落ちこぼれでな。エリート様は、ッグ、癪に障んだよ」

 

 胸を押さえて苦しみを隠せない様子ながらも、ウォルターは喋るのをやめない。

 ヴィクターは何かを言いかけて、だが言わぬまま口を閉じる。

 

「だからな、お前のさっきの動きは、スカッとしたぜ、坊主」

 

 ウォルターは、笑顔だった。

 

「ごめ、ごめんなさい、ぼく、あの、ちが、ちがくて、そんな、つも、り、じゃ」

「わかってる。お前は姉さんを取り返そうとしたんだよな」

 

 少年は嗚咽を漏らしながらも、言葉にならない言葉をなんとか紡ごうとする。

 

「だがな、憎しみに囚われて、真実を見失うなよ」

 

 ウォルターは少年の頭に手を伸ばし、無造作に撫でた。

 

「答えを出すというのは、簡単じゃない。目の前にあるそれらしきものに飛びつく前に、一度立ち止まって考えるんだ。いいか?」

 

 ウォルターの顔は、目は、真剣だった。

 

「ただでさえ、竜敦(ロンドン)は霧が濃い。少しでも気を抜くと、真実を覆い隠しちまう」

 

 その言葉には、警邏隊長としての重みが宿っていた。

 言葉だけ聞けば、警邏隊の部下に訓示を行っているようにも思えただろう。

 

「どうだ、警邏隊に入らないか? 坊主、お前のように腕が立つやつは大歓迎だぞ?」

 

 ウォルターは、昨夜、アレクサンドラにそうしたのと同じように、少年に語り掛けた。

 

 それは本気の勧誘というより、少年の未来に一本の道を置いてやるための言葉だった。

 

 お前は終わっていない。

 お前には、まだ誰かを守る側に回る道がある。

 そう言っているようだった。

 

 悔やむように、あるいは込みあがるものを抑え込むように、ヴィクターは一度きつく目を瞑る。

 それ以降、目を離すまいと、静かにウォルターを見やった。

 

 少年はどのように返せばいいかわからず困惑していたものの、勢いに押されて、つい、頷いた。

 

「ハ、そうかそうか。じゃあ、いつか会えるかもな」

 

 ウォルターの顔は喜色に満ちている。

 

 ウォルターは言葉を切り、喉の奥にせり上がってきた血を飲み下した。

 

 それでも笑う。少年の前では、まだ倒れないと決めているようだった。

 

「そら、もう行け。お前は行動力があるからな、これからはお前が他の子を守ってやるんだぞ? 困ったら、警邏隊の詰め所まで来い。俺の名前を出せば悪いようにはされんだろう」

 

 そして、再び、少年に告げた。

 

「……お前の姉さんのことは、俺たちが至らず、辛い思いをさせた。本当に───すまなかった」

 

 少年は、泣きながら頷き、そして走り去った。

 

 ヴィクターは止めなかった。

 止めるべきだと、頭では分かっていた。

 だが、ウォルターが少年に与えようとしているものが、罰ではなく猶予なのだと分かってしまった。

 

 走り去った少年を目で追った後、ヴィクターは静かにウォルターの近くに歩み寄る。

 

「……待たせたな。あの子は行ったか?」

「行った。もう背中も見えねえよ」

「そうか……それはよかった。正直、もう目が見えなくてな。あの子の前で、かっこつけたままでいられてよかったわ……ゴハッ」

 

 ウォルターは、こらえていた分、肺に溜まっていた血を吐き出した。

 

 ヴィクターは息を呑んだ。

 あれほど真っ直ぐ少年を見ているように見えた目は、もう何も映していなかったのだ。

 

 吐き出される血で服が汚れるのも厭わず、ヴィクターは咄嗟にその身体を支える。

 

「ヴィクター、あのときのお前の判断は、間違っちゃいねえ。こいつは事故だ。少なくとも俺ならそう報告する」

 

 ウォルターの発言は、他にこの場に見ている者がいたことを想定して、言質を残そうとしているように思えた。

 

 ウォルターは決してヴィクターのことを責めようとはしなかった。もちろん、あの少年のことも。

 

「……あんたはそれで良いのか。……いや、良いからあの少年を行かせたんだもんな」

 

 ヴィクターには、ウォルターのその言葉が、自分を救うためのものだと分かった。だからこそ、救われない。

 

「……あんた、他に言いたい事とか無いのか。やり残した事でも良い」

 

 ヴィクターは思わず、そう口走った。

 

「言え。せめて悔いは残すな。半端者だが俺だって竜裔だ、何だってやってやる」

 

「ハ、そんなの、めちゃくちゃあるに決まってんじゃねぇか……だが、今はとりあえず……」

 

 ウォルターは震える手を、自らの胸元へ伸ばした。

 ヴィクターが止めるより早く、その手が柄を掴む。

 

「グ────」

 

 自らの胸に刺さったダモクレスの剣を抜き、ウォルターは、剣の柄をヴィクターに向けた。

 

 剣が抜かれた傷から、さらさらとした、粒度の小さい灰のような、塵のようなものが溢れては溢れ、風に舞う。

 

 ウォルターの体はいま、竜敦の霧に溶けようとしていた。

 

「───次は手放すなよ? これは、お前が、真実を追う者である、証なんだからな」

「……ああ。二度と放さん」

「返すぜ。これはお前のもんだ。受け取れ、ヴィクター」

 

 ウォルターの体から溢れた粒が、ダモクレスの剣を包んだ。

 剣についた血も、同様に小さな粒になり、空気に希釈されていく。

 

「……今すぐでなくてもいい。そのときが来たら、お前の手に、その剣が収まっていることを祈る。ファリガの奴に、よろしくな」

「ああ。わかった……でも、ああ、面倒だな。きっとテオドリックにどやされる。そん時にあんたが居てくれたら、こんなに良い事は無えのになあ……」

「────────」

 

 ヴィクターの言葉に、ウォルターは何かを返答したのだろうか。だが、もうその声は音になっていなかった。

 

 ウォルターの体から流出した粒は、竜敦に満ちる霧のようにまとまっていく。

 

 白い靄が、ダモクレスの剣を包んだ。

 剣はふわりと浮かび上がり、ヴィクターの腰帯に紐づけられた鞘のもとへ戻っていく。

 

 ぱちん、と小さな金属音が響いた。

 剣は、まっすぐに鞘へ収まっていた。

 

 

 "霧隠れ"。

 

 竜裔の命が尽きるとき、血も、肉も、骨も、身に着けていたものさえ、残ることはない。

 

 そして、ウォルターは、霧のように消えた。

 

「っは、は、お待たせ……これで、手続きは終わったよ……って、あれ、ウォルター隊長は?」

 

 審問局で手続きを終えて、テオドリックとアレクサンドラが走って戻ってきたときには、そこにはもう、ヴィクターしか残されていなかった。

 

「……ヴィクター? どうした、おまえ。そんな、今にも倒れそうな姿で立ち尽くして。……何かあったのか?」

 

 アレクサンドラは、困ったような表情でヴィクターを見つめる。

 

「……うるせえ。そこのトランク持ってくの手伝え」

 

 

 そこに血溜まりはなかった。

 倒れた身体もない。

 

 ただ、トランクが三つと、鞘に収まったダモクレスの剣と、今にも倒れそうな顔をしたヴィクターだけがあった。

 

 

「三つもひとりで持って帰んのなんざ、怠くて仕方がないんだよ……」

 

 

 ヴィクターの腰で、霧に包まれて戻った証だけが、何もなかったかのように静かに揺れていた。

 

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