竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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アレクサンドラ・テリオン

 アレクサンドラ・テリオンは修練場にいた。

 

 石造りの壁に囲まれた室内には、朝の冷気がまだ薄く残っていた。

 高い窓から差し込む光は霧に濾され、白く曇っている。壁際には模造剣や訓練用の盾が整然と並び、床には幾度も踏み込まれた跡が薄く刻まれていた。

 

「ふっ……!」

 

 模造剣を素振りし、舞うように型の稽古を行う。

 踏み込みは軽く、切っ先は迷わない。

 袈裟、逆袈裟、突き、払い。ひとつひとつの動作は実戦のためのものだが、連なれば舞のようにも見えた。

 

 低い位置でひとつ結びにされたアッシュブロンドの髪が、型の動きに合わせて、宙を跳ねる。

 

 先月卒業したばかりのパブリックスクール時代から続く、毎朝の習慣だった。

 

 元々は近衛騎士団か警邏隊への入団を希望していたが、ある先輩に誘われ、今日から"審問局"に"審問官"として入局することとなった。

 近衛騎士団や警邏隊の制服に袖を通す自分を、想像しなかったわけではない。むしろ、つい先月まではそれが当然の未来だと思っていた。

 だが、未来というものは、時々こちらの都合を聞かずに横から手を伸ばしてくる。

 

 急に決まったことだから、"審問官"というのがどういったことをする仕事なのかはあまりわかっていない。だが、敬愛する先輩もいるし、公職だからしばらくは座学の研修が続くだろうから、何とかなるだろうと考えていた。

 アレクサンドラは楽観主義だった。

 

 この修練場も、審問局で保有しているらしい。

 アレクサンドラは剣舞を続けながら、周囲にちらりと目を向けたが、自分以外の利用者はいなかった。

 朝稽古ができるところはないかと先輩に尋ねたところ教えてくれた場所だが、修練場を独占できるというだけでも、審問局を進路としたことは間違っていないように思えた。

 

 近衛騎士団ではこうはいくまい。

 むさ苦しい連中が、朝からひしめき合っているはずだ。それに、きっと()()()()()()()()ことだろう。

 

「やあ、朝から精が出るね」

「テオ先輩!」

 

 アレクサンドラがそんなことを考えていると、入り口の方から声がかかった。

 癖のある栗毛をしている彼は、優しい表情をしている。

 

 彼は、テオドリック・ファリガ。

 アレクサンドラを審問局審問官としてスカウトした、張本人だった。

 

「そろそろ良い時間だから、声をかけに来てね。汗をかいただろうから、シャワーでも浴びてきなよ」

「ありがとうございます、テオ先輩」

「それじゃ、僕は先に行っているから。局長室の前で合流しよう」

 

 テオドリックは、修練場に備え付けられているシャワー室を指さして、そのまま修練場を後にした。

 

 

 

 自らの汗をタオルで軽く拭き、床に垂れた水滴にも軽く雑巾がけをする。

 稽古に使った模造剣を片付けた後、アレクサンドラはシャワー室に向かった。

 

「はあ~生き返った」

 

 個室のシャワーで汗を流したアレクサンドラは、体と髪を拭いて、着替えを手に取った。スラックスを履き、肌着の上に、白いシャツを纏う。それからターコイズブルーのスカーフタイを締めた。

 

 パブリックスクールに在学していた先月までは、セージグリーンのタイを毎日締めていた。所属する寮ごとに色が決められているものだ。

 アレクサンドラは、早くも懐かしく思いながらも、頭の中には、一人の人物を思い浮かべていた。

 

 その人物は、銀髪を襟足まで無造作に伸ばしていて、いつも眠そうな目をしていた。胸元にはセージグリーンのタイがあるべきなのに、面倒だからと、ポケットにくしゃっと突っ込んでいた。

 授業はサボりの常習犯だが、成績は常に学年トップ。最終的にスクールを首席で卒業していった。

 

 アレクサンドラは、学生時代その不良優等生の"お()り"をさせられていた。周囲から煙たがられている彼に、アレクサンドラは気にせず話しかけられたから、同輩や教師からこれ幸いと押し付けられたのだ。

 

「(そのせいで何度大変な目に遭ったことか……)」

 

 幸いにしてその人物は、法務局への入局が決まっていた。竜裔(きぞく)の家柄だし、エリート街道を驀進していくはずだ。

 

 同じく公職に就いていれば、いずれ会うこともあるかもしれないが、今すぐではないだろう。再会するときには性格が丸くなっているといいなと、アレクサンドラは遠い目をした。

 

 

 そのようなことを考えながら白シャツの上から紺色のベストを着たアレクサンドラは、最後に着る衣装を手に取った。

 

 それは肩掛けマントだ。

 銀地に赤の逆十字の意匠があしらわれている。

 審問官の制式装備だった。

 

 アレクサンドラは右肩にマントを掛け、シャワー室の鏡を見ながら、短い革のベルトについた留め具をマントに通し、固定した。

 

 鏡に映ったアレクサンドラは、審問官の出で立ちになっていた。

 

 

 稽古着や濡れたタオルを袋に入れ、自身に与えられたロッカーに押し込むと、アレクサンドラは足早に審問局長の執務室へと向かった。

 

 そろそろ定刻だ。

 

 局長執務室に近づいたアレクサンドラは、遠めに二人の人物が扉の前で待っていることに気付いた。

 

 一人は、先ほど見たばかりの栗毛。テオドリックだろう。

 そして、もう一人。

 見覚えのありすぎる銀髪が、扉の前で気だるげに揺れていた。

 

「げ」

 

 アレクサンドラは、思わず苦い顔をした。

 

 もう一人の人物は、銀髪を襟足まで無造作に伸ばしている。着任初日だというのに、既に退屈そうな様子で、あくびをしていた。

 

 彼はその肩に、いま自分が着けている審問官制式のマントを着用していた。

 

 一瞬で全てを理解したアレクサンドラは、長い溜息をついた。

 

「……なんで君がここにいるんだ、ヴィクター」

 

 銀髪の彼の名は、ヴィクター・エヴァンズ。

 アレクサンドラがスクールでは"お()り"をさせられ、法務局に入局したはずの、腐れ縁だった。

 

 ヴィクターはアレクサンドラの方にちらりと目を向けると、もう一度あくびをした。

 

「こいつむかつくな」

 

 アレクサンドラは悪態をつきながらも、自然と口には笑みが浮かんでいた。

 

「テオ先輩、お待たせしました」

 

 アレクサンドラは先任のテオドリックに向き直り、そう言った。

 

 

 今日は、二人の新人審問官が、審問局に着任する日であった。その日、二人が最初に命じられる任務が、霧の都の歴史を揺るがす異端事件になるとは、この時のアレクサンドラはまだ知るよしもないことなのであった。

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