竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
「ようこそ、審問局へ」
ハロルドの言葉を聞きながら、ヴィクターは目線だけで部屋を見回した。
地図。書類。封蝋。赤き竜の絵画。
そして最後に、机の向こうのハロルドへ視線を戻す。その際、背筋をほんの僅かばかり伸ばすあたり、最低限の礼節は弁えているようだった。
一方のアレクサンドラは、ほとんど反射的に一礼していた。緊張と畏怖と、少しばかりの感嘆が顔に出ている。
「(威厳があって強そうな御仁だ)」
そんな素朴な感想を、アレクサンドラは表情の奥へ押し込めた。
「テオドリック・ファリガ、ただいま、新任審問官二名をお連れしました。ほら、二人とも」
テオドリックは新人二人に、着任の挨拶を促した。
「お初にお目にかかります、アレクサンドラ・テリオンと申します……よろしくお願いいたします」
言い終えてから、アレクサンドラはちらりとテオドリックを見た。これで合っているだろうか、そんな確認の視線だった。
「……お初にお目にかかる、猊下。ヴィクター・エヴァンズ、これより審問官が一人として尽力する事を誓う」
ヴィクターは言葉と共に恭しく一礼をしてみせる。その言動は、不思議なほど堂に入っていた。
「ちょ、ヴィクター……敬語……。いやまあ、そういう奴か君は……」
直後、アレクサンドラはヴィクターの言葉遣いを、声を潜めながら咎めた。テオドリックは何も言わず、にこにこと笑みを浮かべている。
「知っての通り、ハロルド・オルフェイシュトだ」
新任審問官二名の自己紹介を聞き、ハロルドは短く返した。
「道中、テオドリックに余計なことを吹き込まれなかったか?」
「……いいえ、特には」
ヴィクターはそこで言葉を切り、面倒くさそうにアレクサンドラを見た。あとは任せた、ということらしい。
アレクサンドラは彼を軽く睨んだ。初対面の枢機卿を相手に、なぜ自分がこの場を取り繕わなければならないのか。
「テオせんぱ……テオドリック先輩からはお優しい方だと伺っております」
「そうか」
アレクサンドラはハロルドに向き直ってそう言った。ハロルドはその返答を気にもしていない様子で、本題を切り出した。
「さて、新たに着任した審問官には、私から訓示を行うことになっている。
問いかけというより、確認のための疑問符だった。答えられなければ、その時点で任官に値しない。そう感じさせる声色をしていた。
「
気怠げな声に反して、ヴィクターの答えは過不足なかった。だが、"反体制派の摘発"よりも支配層たる"
ハロルドの視線が、ほんのわずかにヴィクターを測る。
「その通りだ。よく理解しているようだな」
相変わらずテオドリックは何も言わず、にこにこと笑みを浮かべているだけだった。
「通常、
ハロルドは一度言葉を区切り、それからゆっくりとこう言った。
「我々、審問局の職分だ」
その言葉が落ちた瞬間、ハロルドの執務机に積まれた書類の束が、やけに重く見えた。
「我々が扱う事件の中には、竜裔が関わる案件も多い。それゆえ、我々審問局を煙たがる輩も後を絶たない……嘆かわしいことにな」
アレクサンドラは、わずかに頬を引きつらせた。着任早々どうやら想像以上に厄介な職場へ来てしまったらしい、と嘆くような顔だった。
一方、ヴィクターはほとんど表情を変えなかった。ただ、視線だけが部屋の地図からハロルドへ戻る。
「……そりゃ竜裔にとってはさぞ、面白くないでしょう」
その声には、同情よりも皮肉が勝っていた。
自分にとっては、どこにいても権力者は似たようなものだ。そう言外に滲ませるような調子だった。
「そこで、
ハロルドは机上の細長い箱を開いた。
箱は黒革張りで、角には鈍色の金具が打たれている。ハロルドが蓋を持ち上げると、金具が小さく鳴った。
蓋が開いた瞬間、黒い布の上に収められた二振りの剣が、姿を表した。
儀礼用にしては無骨で、実戦用にしては美しさを感じさせた。
鞘は真紅。鍔にかけて、金の装飾によって斜め交差状に封がされており、意図的に抜こうとしない限り剣を抜けないよう細工されている。
アレクサンドラは、思わず息を呑んだ。
「この剣は、
ハロルドは続けて、
「平民は知るまいが、国教会に関わる者であれば、これを佩く卿らを審問官だと判断するだろう」
と言った。
テオドリックはそこで、自分の腰に佩いた剣の鞘を軽く叩いてみせた。左肩のマントが肘によって持ち上げられ、左腰に佩いた剣が覗いた。その剣は、ハロルドの前で箱に収められているものと同じだった。
「さあ、手に取れ」
ハロルドが
「……」
ヴィクターは無言で剣を手に取った。
まず重さを確かめるように、ほんのわずか手首を動かす。一瞥した後、ヴィクターはそのまま無言で腰に佩く。
アレクサンドラは、箱の中から両手で剣を持ち上げた。
「拝領いたします」
実際に手に取ってみると、見た目よりも重く感じられた。しげしげと眺めてから、彼女は一度だけ深く息を吸い、それを腰に佩いた。
「これで、卿らは紛うことなき審問官だ。……だが、ダモクレスの剣の扱いには重々注意したまえ。許可なく剣を抜くことは禁じられている」
ハロルドの声は、先ほどまでと変わらず静かだったが、その言葉には楔を打ち込むような強い響きがあった。
「以前、むやみに抜いて打ち合い、刀身を欠けさせた者がいてね。彼は懲戒処分を食らったよ」
テオドリックは世間話のように言った。
ハロルドの眉がわずかに動いた。
「審問官は、異端事件の捜査のためであればどんなに高い身分にある
ハロルドは溜息をついて言った。
「幸いにしてこれまでダモクレスの剣が盗難・紛失の憂き目にあったことはないが、代々受け継がれてきた聖具でもある。決して粗略に扱うことのないよう胸に刻めよ」
「……仰せのままに」
「はい。重々注意いたします」
アレクサンドラは、腰に佩いたばかりの剣へ自然と手を添えた。
「よろしい」
「二人とも、サマになっているね」
テオドリックの気楽な声に、アレクサンドラはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
任官の儀礼は終わった。これでひとまず、最初の難関は越えたのだと────そう思った、その時だった。
「失礼します!」
扉が勢いよく開いた。
制服を着た男は入室の一歩手前で帽子を押さえ、息を切らしながらも深く頭を下げた。
「伝令! ホワイトチャペル教区より緊急報告!」
男は、警邏隊の伝令だった。
「女性が一名、袋小路で発見されました。外傷多数。犯人は不明──いえ、現場から消失したとのことです」
「消失?」
アレクサンドラは意味を測りかねて瞬きをする。
ヴィクターは、初めて伝令の顔をまっすぐ見た。
「はい。巡回中の巡査二名が悲鳴を聞いて駆けつけましたが、犯人らしき人物は誰も」
「ふむ、ちょうどいい」
その言葉に、アレクサンドラは一瞬だけ目を見開いた。人が死んでいるかもしれない報告を前にして、そう言うのか。
だが、ハロルドの表情は動かない。彼にとってこれは、悲劇である以前に、審問局が判断すべき事案なのだ。
「卿らに初の任務を与えよう」
ハロルドは表情を動かさないまま、そう言った。
「現場を巡察し、通報のあった事件が"異端事件"たりうるか、調査せよ。テオドリック、卿が二人を率いて現場に向かえ」
「は!」
テオドリックが敬礼し、気勢を上げて短く返事をした。
「えっ急だな……じゃない、承知しました」
「……はあ。さっさと行くぞ、アレクサンドラ。それでは失礼する」
アレクサンドラは、まだ事態についていけていない様子だったが、すぐに腰に佩いたばかりの剣の重みを意識した。
ヴィクターはすでに扉の方を見ている。面倒くさそうな横顔の奥に、わずかな鋭さが混じっていた。
「うん。珍しくやる気だね、ヴィクター」
ヴィクターは、アレクサンドラの問いかけに答えなかった。ただ、扉へ向かう足取りは先ほどまでよりわずかに速い。
テオドリックは二人の背中を見て、小さく笑った。その笑みには、先ほどまでの軽さだけではないものが混じっていた。
アレクサンドラは最後にもう一度だけ、部屋の奥の赤き竜を振り返って見た。
竜は変わらず、霧のような白い渦の上からこちらを睥睨している。
三人は、審問局を出た。
霧の都の
テオドリック班の最初の任務が始まった。