竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
不在
翌日、審問局。
だが、テオドリック班に与えられた控室には、昨日までとは違う空席があった。
その空席は、アレクサンドラとテオドリックに、昨日から失われたものを否応なく思い出させた。
謹慎処分となったヴィクター・エヴァンズ。
そして、同僚ではないものの、同じ事件を追う仲間だと感じ始めていた警邏隊長、ウォルター・ロングウィトン。
また、当のヴィクターからも失われたものが存在した。
銀地に赤い逆十字の肩掛けマント。
そして、ウォルターが返したダモクレスの剣。
そのどちらも、いまヴィクターの元にはない。
謹慎とは、つまりそういうことだった。
「ヴィクター、大丈夫だろうか。……アレクサンドラ、ヴィクターの様子は見に行ったのかい? 知ってるんだろう、彼の自宅」
「知ってはいますけどね。行ったことはありませんし行こうとも思いませんよ」
「心配じゃないのか? 相棒のこと」
「相棒ねぇ……全く気にならないとは言いませんが。私に心配されたところで癪なだけでしょう、あれも」
言葉だけ聞けば薄情だった。
だが、アレクサンドラの眉間には、昨日から消えない皺が残っている。
「そうなのかもね。まだ君たちと一緒に仕事をするようになって三日目だけど、なんとなくわかるよ」
テオドリックは、部屋の重い空気を吹き飛ばそうと、あえて明るい声色を装った。
「さて、僕たちまで腐っていても仕方ない。切り替えていこう! アレクサンドラ、現場の捜査に出られるのは僕たちだけだ。ヴィクターの謹慎が解けるまで、事件の捜査を少しでも進めておかないと」
「そうですね。全く、あいつの頭脳だけは役に立つだろうと期待してたのに、当てが外れましたよ。仕方がないので、私もせいぜい無い頭を絞るとしましょうか」
「ああ、そうしてくれると助かるよ……ウォルターのためにも、ね」
「……」
その名が出た瞬間、控室の空気が再び沈んだ。
昨日まで当然のように事件現場にいた男は、もうどこにもいない。
◇ ◇ ◇
一方、謹慎を命じられたヴィクター・エヴァンズは、自家の屋敷にいた。
エヴァンズ家の屋敷。
その中でも次期当主にあてがわれたひときわ豪奢な一室で、ヴィクターは大きな寝台に横たわり、ぼんやりと天井を見上げていた。
「何もしないでごろごろできるってのは幸せな事だよなあ。全く、最高な一日だぜ今日は」
そう言う彼の声も表情も言葉に反して全く明るいものではなかったが、この部屋ではそれを指摘できる者は一人もいない。
瞼を閉じれば昨日の事が鮮明に思い出される。
普段なら目を瞑ったほんの数分後には意識を落とせる彼が一睡もできなかったのは、母と生き別れ毎日泣いて過ごしていた幼少期以来の事だった。
二度、三度と寝返りをうつ。衣擦れだけが聞こえる部屋。
謹慎とは、何もするなという命令だ。
だが、何もしないでいるには、昨日の音があまりに耳に残りすぎていた。
ウォルターの声。
少年の泣き声。
"最期の奇跡"によって、剣が、ぱちん、と鞘に戻った金属音。
ヴィクターは乱暴に髪をかきむしった。
次期当主の部屋が本当に無人になったのは、それからものの一分にも満たなかった。
◇ ◇ ◇
「よし。それじゃあまずは、再び事件の整理だ」
「次に捜査すべきはヘンリー・ジキル殺害事件。犯人は不明ですが、テオ先輩がせっかくジャックというコードネームをつけたので今後はそう呼びましょう」
「そう! よく覚えていてくれたね」
「で、そのジャックは一昨日の事件現場でヘンリーを何らかの手段で殺害。彼が消滅したあとの現場に『主の御代に』なる本を残して、巡回中の警邏隊に気取られることなく姿を消した。……といったところでしたね」
「ああ、その通りだ」
テオドリックは頷き、机上の紙に簡単な線を引いた。
「ヘンリーを殺し、何らかのメッセージを意味する本を置いて、気づかれずに立ち去る……僕たちは、そんな芸当をしてみせたジャックの正体を暴かなくてはならない」
しかし、そこで彼の手は止まった。
「だが、一昨日の予審で検討した通り、当時の現場から気づかれずに立ち去るのは不可能に思える。ヘンリーの場合は、竜裔であったために死亡して"霧隠れ"を起こしたと考えたが……今回はそういうわけではないだろうし、もしそうなら堂々巡りになってしまう。しかし、一体どこから考えたらいいか……」
「うーん、早くもお手上げですね!」
アレクサンドラは、努めて明るく言ったつもりだった。
だが、その声は控室の壁に当たって、思ったより乾いた音で返ってきた。
「お手上げかあ。アレクサンドラ、何かない? 何か、この状況を打破するきっかけになるような……」
「そう言われましてもね……。退化薬とやらを投与していたとはいえ、竜裔を殺害できたのだから平民ではないのでは?というくらいですよ」
「そうだよね……うーん、だめだ、何も思いつかない」
一通り考えた後、これ以上はどうしようもないと半ばあきらめたテオドリックが、急にアレクサンドラに問いかけてきた。
「さて、ここでアレクサンドラに質問です。こういうとき、審問官はどうすればいいでしょう?」
「何ですか藪から棒に。うーん。……果報を寝て待つ?」
「ぶっぶー」
「じゃあ分かりません!」
「こういうときにはね……知恵者の頭を借りるんだよ」
テオドリックは、にやりと笑った。
「なるほど人任せ」
「コネクションも実力のうちだよ、きみぃ」
「なるほど、流石テオ先輩!……で、具体的にはどこの誰の頭を借りるつもりです?」
「ふふふ、ついてきたまえ! ……あ、他の人には内緒だよ?」
「はぁい。私得意ですよ、そういうの」
「だと思った」
テオドリックは笑みを浮かべた。
いつもの柔らかな笑みの中に、少しだけ違うものを感じる。
これから会いに行く相手が、ただの協力者ではないことだけは、アレクサンドラにも分かった。