竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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囚人の男

 新門(ニューゲート)監獄。

 竜敦(ロンドン)中心部に存在する、歴史的に悪名高い監獄である。

 

 赤煉瓦の壁は煤で黒く汚れていた。

 内部に入ると、鉄格子の向こうから、鎖の擦れる音と、誰かの低い咳が聞こえる。

 

 罪を赦す祈りのために造られた大聖堂とは違う。

 ここは、赦されざる者を閉じ込めるための堅牢な要塞だった。

 

 

「さて、ここだよ」

「おお、監獄。私初めて来ました」

 

 テオドリックとアレクサンドラは、連れ立って監獄を訪れていた。

 

「ここはニューゲート監獄。凶悪な犯罪者が収監されている」

「なるほど凶悪犯。犯罪者のことは同じ犯罪者に聞くってことですか?蛇の道は蛇ってやつですね」

「ああ、そういうことだ。実はこの地下にね、とりわけ凶悪な犯罪者が収監されているんだ。といっても、その人は政治思想犯だから、誰かを手にかけたとかそういうわけじゃないらしいんだけど……ないよね?」

 

 政治思想犯。

 その言葉は、暴力よりも厄介なものを含んでいた。

 人の身体ではなく、秩序そのものに反旗を翻した者。

 だからこそ、彼は地下にいる。

 

「知りませんて」

「僕ちょっと怖くなってきた。こんなところに収監されるなんて、一体何をやらかしたんだろうね……食べられたりしないよね?」

 

 テオドリックの軽口は、いつもより少し上ずっていた。

 

「頭からこう、ばりばりと? 美味しく頂いてもらえると良いですね」

「ひえ」

 

 テオドリックは怯えたように、小刻みに震えていた。

 

「……ここだ。この奥に、第2649684号囚がいる。よし、アレクサンドラ、僕の後ろに下がっていてくれ……すうーっ、はあーっ」

 

 鉄扉の前に立つと、空気が一段冷えた。

 扉の向こうからは、何の音もしない。

 

 叫び声も、鎖の音も、咳もない。

 ただ、誰かがこちらを待っているような、不気味な沈黙があった。

 

「よし……開けるよ……いやちょっと待って、心の準備が」

「はーい、開けますよー」

「ああ!!」

 

 アレクサンドラは、傍らの看守に目配せした。

 もたつくテオドリックを待っていられないとばかりに、鉄扉の鍵が回される。

 

 

「────────ふむ」

 

 独房の奥にいた男は、奇妙な姿をしていた。

 

 口元は革製の拘束具で覆われ、首には太い革輪、白い囚人服の上からは幾重もの拘束帯が胸を横切っている。

 それほどまでに厳重に縛られているというのに、男は少しも哀れには見えなかった。

 むしろ、鉄格子の向こうにいるはずのこちらの方が、青い眼に値踏みされているように思えた。

 そして、彼の口枷の奥に覗く歯は、笑っているようにも見えた。

 

 

「この私にお客人とは、珍しいものだ。それに、何やら愉快な様子……よろしい。話を聞かせてくれ。無聊の慰みにはなるだろう」

「あなたが2649684号ですね?私は新人審問官のアレクサンドラ。どうぞよろしく」

 

 テオドリックが息を呑むより早く、アレクサンドラは一歩前へ出た。

 監獄の空気にも、囚人の視線にも、さして怯えた様子はない。

 

 

「ほらテオ先輩、話を聞いてくれるそうですよ」

「お、おう……すごい胆力」

 

 テオドリックは、アレクサンドラの胆力に感心しつつも、まだ独房の奥の男に恐れをなしているようだった。

 

「失礼するよ。少し、君の知恵を借りたい。いいかな?」

「私に知恵を借りたいと来たか……良いだろう。そういうのは大好物だ」

 

 

 囚人の男は、口元の拘束具の奥で、くつくつと笑った。

 

 

「……というわけで、今は手詰まりになっていてね。囚人の手も借りたいと、そんな状況なんだ。アレクサンドラ、補足はある?」

「特には」

 

 テオドリックは、これまでの経緯をかいつまんで説明した。

 

「……ふむ」

 

 囚人の男は、テオドリックの説明を聞いて、何やら考えている様子だった。

 

「私が思うに、君たちは、ある錯誤に陥っているようだ」

「と、言いますと?」

「まあそう急かないでもらおう。私は人に飢えていてね。ゆっくり話そうじゃないか」

「(やっぱ"人に飢えてる"んだ……!)」

 

 その声音に空腹の色はなかった。が、テオドリックは言葉通りに受け取って怯えた様子を見せた。

 

 文字通りの空腹というのではないが、男には、人間というものを観察し、解体し、理解することへの飢えが確かにあった。

 

 

「さて、そもそも君たちは予審において、どのように事件を究明した?」

「ど、どのように?」

「えーっと。……ヴィクターが頑張りました」

「そちらの彼、ではなさそうだね」

「はい! 食べても美味しくないです!」

「そのようだ」

「ほっ……」

 

 男は少し考えてから、言い換えた。

 

「では質問を変えよう。君たちが最初に事件のことを知ったとき、それが不可解な状況に思えた。そうだね?」

「それはもう。まるで推理小説のようだと思いましたよ」

「フ、そうだろう。だがそれを、君たちは"不可解"、すなわち解きようのない状況から、"可解"、すなわち解ける形を持った状況へ落とし込んだはずだ。一体どうやって……?」

「どうやってって……犯人が竜裔で、事件現場で死亡しているという可能性をヴィ……あいつが指摘したからですが」

 

 アレクサンドラのその返答を聞いて、テオドリックは、はっとしたように声を上げた。

 

「そうか。君の言いたいことがわかったぞ」

 

 テオドリックは、顎に手を当てて、男の謎かけに応じた。

 

「あの事件は、一見すると不可解だったが、実のところメアリ殺しとヘンリー殺しという、二つの事件が連鎖して起きていた。不可解だったのは、その二つの事件を一つの事件として見ていたからだ」

 

 テオドリックは顎から手を放し、そのまま人差し指を前方に突き付けた。

 

「つまり僕たちは捜査の過程において、不可解な状況を二つに分割して考えることで謎を解いた……というわけだね」

「ああ、そういう……。回りくどい言い方するなぁ。では、今私たちは二つに切り分けて考えるべき事柄を一緒くたにしてしまっているということですか?」

「その通り。初歩的なことだよ」

「ふむふむ。……もう一声お願いします」

「後は君たち自身で考えたまえ。次に来るときは、差し入れのひとつでも持ってくることを期待しよう」

 

 男は、これ以上何も語るまいと黙している。

 

「まあたしかに、長居するのは良くないね、色々と。とはいえ助かったよ。何か取っ掛かりがつかめただけでも収穫だ。行こうか、アレクサンドラ」

「はい、テオ先輩。失礼しますね、2649684号さん。機会があれば差し入れ持ってきますよ。クッキーでいいですか」

 

 アレクサンドラは、ひらひらと気安く手を振った。

 

「食べられるのかな……それにしても、囚人番号では呼びづらい。一応、君の名前を聞いておいてもいいかな?」

「もちろん」

 

 男はほんの少しだけ笑った。

 鉄格子の影が、その頬を斜めに切っている。

 

「────私はシャーロック・ホームズ」

 

 そして、こう続けた。

 

「今はただの、囚人だがね」

「ではシャーロック、どうもありがとう。機会があればまたお会いしましょう」

 

 

 鉄格子の向こうで、シャーロック・ホームズは、ほんの少しだけ愉快そうに目を細めた。

 

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