竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
歴史上、数多くの人物が幽閉され、裁かれ、時に処刑されてきた場所でもある。
ただ現在は、一般に解放され、竜敦の観光名所のひとつになっていた。
もっとも、今日の二人にとって、ここは観光地ではない。
ホワイトチャペルの事件現場を見下ろす高所。
すなわち、ヘンリー・ジキルを撃ち抜いたかもしれない場所だった。
「さて、竜敦塔にやってきたわけだけど」
テオドリックの声はいつも通り軽かった。
だが、アレクサンドラの視線は、すでに塔の上部へ向いている。
あそこからなら、本当にホワイトチャペルまで狙えるのか。
霧の濃い竜敦で、標的を見分けることができたのか。
それを確かめるために、二人はここへ来たのだ。
「アレクサンドラ、ちょっと昇ってみようか」
「はい、テオ先輩」
塔の入り口、階段付近に、人影があった。
いや、人影というより、黒い鳥の群れの中心に誰かが立っている、と言った方が正しい。
濡れた石畳の上で、カラスたちは羽を揺らし、時折、喉の奥で低く鳴いた。
餌を与えられているのか。
それとも、その人物に付き従っているのか。
遠目には判じがたかった。
竜敦塔のカラスは、竜敦を見守る守護者として大切にされているという。
彼らが塔を去る時、竜敦もまた滅びる――そんな古い言い伝えさえあった。
そのため塔には、カラスの世話を専門に任される者がいる。
餌を与え、羽や爪の具合を確かめ、数を保ち、彼らが塔を離れぬよう見守る役目。
それが、レイヴンマスターと呼ばれる職だった。
「えぇ……すごい集られてる」
「いずれにせよ、塔を昇るにはあそこを通らないといけないよね」
テオドリックは一歩進んで、その人物に声をかけた。
アレクサンドラは半歩だけ遅れてついていく。
理由はない。
ただ、カラスの群れの中心にいるその人物へ、無防備に近づきたくなかった。
「すみません、ちょっとよろしいですか。そこから、上に行きたいのですが」
「────ああ、これは失礼。お邪魔してしまいましたか」
「……」
アレクサンドラは、いかにも胡散臭いものを見る目をしていた。
その人物は、長身で、黒いフロックコートをぴしりと着込んでいる。
黒髪の襟足は長く、目元にはフレームの細い眼鏡が光っていた。
全身を白と黒のモノトーンで整えた姿は、喪に服しているようにも、客を迎える執事のようにも見える。
ただ、その周囲に群がるカラスのせいで、どうにも生者を迎える者には見えなかった。
アレクサンドラにはむしろ、死者を塔の奥へ案内する地獄の門番のように思えた。
「ええと……通っても?」
「ええ。それはもちろん」
その人物は、カラスを追い払うでもなく、足で退けるでもなく、ただ手袋をはめた指を小さく動かした。
それだけで、黒い羽の群れが左右に割れる。
まるで、彼らが人語を解するかのようだった。
「というより、私も上に行くところでした。よければご一緒しても?」
男性のものとも女性のものとも判じがたい、滑らかな声だった。
耳障りではない。
むしろ丁寧で、よく通る。
だからこそ、アレクサンドラは少しだけ身構えた。
礼儀正しすぎる相手というものは、時に無礼な相手より厄介だ。
アレクサンドラは、どうするんですか、という顔でテオドリックを伺う。
「実は僕たち、任務中の審問官でして。ここには捜査のために立ち寄ったのです。すみませんが、ここは……」
テオドリックは、柔らかい口調のまま、しかし一応は相手を遠ざけようとした。
捜査中である以上、素性の知れない人物を同行させるわけにはいかない。
「────ほう、捜査ですか。それはまた、どうして?」
「いやぁ……色々ありまして」
「色々……本当に色々」
テオドリックの言葉を契機に、アレクサンドラの脳裏にここ数日の出来事が順に浮かんだ。
血に濡れた路地。
消えた警邏隊長。
地下牢で笑う囚人。
たしかに、一言で済ませるなら「色々」としか言いようがなかった。
「そうですか、よくわかりませんが、さぞ大変だったことでしょう。それで、提案なのですが、よければ案内しましょうか? 実は私、ここの"レイヴンマスター"を仰せつかっておりまして、塔には詳しいのですよ」
自らをレイヴンマスターであると紹介した人物は、足元に寄ってきた一羽の頭を、手袋越しにそっと撫でた。
「へぇ、そうなんですか。あ、そうだ。お名前を聞いても?私はアレクサンドラと申します」
「これはこれはどうもご丁寧に。私は、セバスチャンと言います」
そして、セバスチャンは続ける。
「レイヴンマスターの傍ら、さる方の執事を務めております。以後、お見知りおきを」
「……テオ先輩……」
アレクサンドラは、助けを求めるような目でテオドリックを見る。
さる方。
その一言を、アレクサンドラは聞き逃さなかった。
誰の、と尋ねるべきか。
だが、尋ねたところで、この人が素直に答えるとも思えなかった。
「ま、まあ、ここに詳しいというのなら案内してもらおうじゃないか」
テオドリックは一瞬だけ考え込んだ。
相手は怪しい。
それは間違いない。
だが、怪しいからといって遠ざければ、塔について知る機会も失う。
なにより、相手から近づいてきた以上、ここで無理に追い払うより、目の届く場所に置いておく方がいい。
「先輩がそういうなら……」
アレクサンドラは渋々それを受け入れた。
◇ ◇ ◇
「さ、ここがホワイト・タワー、竜敦塔の中心となる主塔です。どうです? 街の全景がよく見えるでしょう」
「そうですね! いやー絶景だ」
塔を昇るあいだ、セバスチャンは竜敦塔の来歴を淀みなく語った。
かつて誰が幽閉され、どの門から処刑場へ連れていかれ、どの窓から街が見えたのか。
それらを語る口ぶりは、まるで観光案内人のようだ。
テオドリックは、それを楽しそうに聞いていた。
途中で何度か質問を挟み、そのたびにセバスチャンは過不足なく答える。
答えが返ってくるたび、テオドリックの警戒心は少しずつ薄れていったらしい。
アレクサンドラは、天然男先輩め……というじっとりした目でテオドリックを見ていた。
「ん? どうしたんだい、アレクサンドラ。いやー、セバスチャンとは何だか初めて会った気がしなくてね」
「……左様で」
「……」
セバスチャンの肩が、ほんのわずかに落ちた。
表情は相変わらず整っている。
だが、眼鏡の奥の目だけが、どこか遠くを見ていた。
「ああ……今すごくヴィクターに会いたい。こんなことを思うのは初めてだ」
ヴィクターなら、今のセバスチャンを見て、遠慮なく「胡散臭え」と言っただろう。
そして、テオドリックが妙に懐いていることにも、心底嫌そうな顔をしただろう。
今に限っては、その顔が見たかった。
「さて、そんなことより調べ物だろ? アレクサンドラ、君の所見を聞かせてくれ」
彼女は頷くと、手すりに近づいて、ホワイトチャペルの方角を見定めた。
ここからなら、確かに街を見下ろせる。
問題は、狙撃が可能かどうかだった。