竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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霧に残された名前

 黒い羽音が遠ざかっていく。

 

 塔の周囲を旋回していたカラスたちは、しばらく三人の頭上を覆うように飛んでいたが、やがて一羽、また一羽と城壁の影へ戻っていった。

 

 残されたのは、荒い息をつく三人と、霧に満ちた竜敦(ロンドン)の街だけだった。

 

「はあ、はあ……カラスを追い払ったぞ……! いったいなんだったんだ? なんか僕にだけ攻撃の質が違ったよね!?」

 

 塔で出会った怪しげな人物──セバスチャンに刃で襲われたアレクサンドラに対し、なぜかテオドリックはカラスに足止めされていた。

 

「……にしてもヴィクター。君、てっきり運動嫌いの貧弱男だとばかり思ってたがやるじゃないか。もやしは返上だな」

「うるせえ。実際、こんな怠いことそう何度もしたかねえよ。お前も避けるなり応戦するなりしろ……胸糞悪い思いすんのはもう御免なんだよ」

 

 ヴィクターの視線は、アレクサンドラの喉元に一瞬だけ落ちた。

 先ほどセバスチャンの刃が向かっていた場所だ。

 

 そして、すぐに逸らされる。

 

「……そうか。改めて、君のおかげで助かったよ。ありがとう、ヴィクター」

「……フン」

 

 ヴィクターは顔を背けた。

 だが、いつものような舌打ちは返ってこなかった。

 

「……さて。あの男についてはともかく、少し状況を整理する必要があるかな。謹慎中のヴィクターも偶然、たまたま、思いがけず、合流したからね」

 

 誰に聞かれているわけでもないが、アレクサンドラは再三そのことを強調した。

 

「……とはいえ、私が気づいたということは君もとっくに思い至っているだろう? 必要ないかな」

「お互いここに辿り着いてる時点で概ねそうだろうな。だが、さっきの男の素性を全て知ってる訳でもねえし、そのあたりも含めてお前が説明してみせろ」

 

 いつものように面倒事を押しつけているようにも見えたが、アレクサンドラには分かった。

 これは、彼なりの確認である、と。

 自分がどこまで辿り着いているかを、言葉にしてみせろという促しだった。

 

「ヘンリー殺害事件について、これまでの状況の整理と……ついでに、犯人ジャックの正体もな」

「ああ、そうそう。それだよ」

 

 アレクサンドラが口を開く前に、まずテオドリックが、地下牢の囚人──シャーロック・ホームズと名乗る男の助言から導いた仮説を口にした。

 

 ひとつに見えていたものを、ふたつに分ける。

 すなわち、ヘンリーを殺した者と、本を置いた者とのふたつに。

 

「僕たちの整理では、そもそもジャックは一人ではなかったのではないかと思っていたんだ」

 

 アレクサンドラはテオドリックの言葉を引き継ぎ、ヴィクターに説明した。

 

「ジャックが一人ではないとすれば、ヘンリー殺しを行った第一のジャックと現場に『主の御代に』を置いた第二のジャックの二人がいるのではないかと考えられる。そして、第一のジャックは消えたのではなく、そもそも現場にいなかったのではないか?とも」

「そうだな。それで?」

「では、現場にいない状態でどうやってヘンリーを殺害したのか。ここで考えられる可能性の一つが狙撃だ。さらに、弾丸が貫通せず竜裔の体内に残った場合、現場に証拠は一切残らないだろう」

 

 次に、彼女は場所の問題へ移った。

 ヘンリーを殺した者が現場にいなかったなら、その殺意はどこから届いたのか。

 

「事件現場の位置から推測される狙撃スポットがここ、竜敦(ロンドン)塔。ここからなら事件現場も巡回中の警邏隊員の位置も把握可能だ。実力者なら狙撃も不可能ではないだろう」

「ここからホワイトチャペル教区の事件現場まで、ちょうど1マイルといったところだね」

 

 テオドリックがその距離について補足する。

 

「難しいけど、決して不可能ではない距離だ」

「加えて俺が道中聞いた話じゃ、事件のあった時刻付近で竜敦塔にいたカラスが一斉に飛び立ったらしい。その時刻に何かあったのは間違いねえだろうな」

「何か大きな音でもしたのかな? 例えば、発砲音とか」

 

 テオドリックは疑問を口にする。

 だがそれはあくまで話題を中心に持っていくための呼び水だ。

 

「かもな。とは言え大量のカラスが飛び立つのは遠くからでも見えるが、発砲音は近くじゃねえと聞こえねえだろう。近くにいたとしてもカラスの鳴き声やら飛び立つ音やらでかき消えるだろうし、実際発砲音を聞いた奴はいなかった。真相は霧の中、あるいはカラスの中って訳だ」

「はい、二人とも補足どうも。次に問題になってくるのが、狙撃に成功したとしても竜裔を殺すことはできないだろうということ。ダモクレスの剣ででもなければ、竜裔を殺害するのは難しいはず。そして、そのダモクレスの剣は厳重に管理されていて、盗難・紛失の例は無い」

 

 ダモクレスの剣が外部に流失したことはない。ただし────

 

「だけど、欠けて破片になったことはある。もしそれを手に入れた者がいて、弾丸に加工することができれば、狙撃で竜裔を殺すことも可能かもしれない」

「まさか……!」

 

 テオドリックの顔から血の気が引いた。

 審問官の証として佩くはずの剣。

 その欠片が、竜裔を遠くから撃ち抜く弾丸になっていたかもしれない。

 

「……つくづく、迷惑をかけてくれる」

 

 テオドリックは、かつて迂闊にダモクレスの剣で鍔迫り合いをした審問官に思いを馳せた。

 

「これで、ヘンリー殺しの方法は見えてきたと言っていいだろう。残るは、『主の御代に』を現場に置いて、その場から消えたもうひとりのジャックの正体だ。気になるのはやはり、どうやって現場から消えたかということ」

 

 アレクサンドラが、残された最後の謎を挙げる。

 

「何度考えてみても、あの状況から普通の人間が誰にも姿を見られずに立ち去ることができたとは私には思えない。だから発想を変えて、こう考えてみるのはどうだろう。ジャックは現場から立ち去っていない」

 

 だから、アレクサンドラがしてみせたのは、発想の転換だった。

 

 第一のジャックは、現場にいなかった。

 そして第二のジャックは、そもそも現場から出ていなかった。

 そう考えれば、二つの「消失」はどちらも合理的な説明がつけられる。

 

「そう考えてみれば、怪しい人間にも心当たりが出てくるはず。事件当時、被害者の二人を除いてあの現場から立ち去っていないのは一人だけだ」

「そ、それは一体……?」

 

 テオドリックの疑問に対する返答としてその名を口にする前に、アレクサンドラは一度だけ息を吸った。

 

 それは、できれば外れていてほしい推理だった。

 

 昨日まで共に現場にいた者を、疑うことになるから。

 ウォルターが率いていた警邏隊の一員を、犯人として名指すことになるから。

 

 

「第一発見者であり、警邏隊の巡査であるジェーン・リード。彼女ではないかと」

 

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