竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
──2日前──
A.D.1888、霧の都・
ここは、赤き竜の加護とされる灰色の分厚い霧に覆われ、ガス燈が常に灯る都市。
ホワイトチャペル教区警邏隊のジェーン・リード巡査は、警邏隊での
霧は低く垂れこめ、街路の先を白く塗り潰している。退勤後だから、カンテラは持っていない。等間隔に立てられたガス燈だけが頼りだった。
「?」
そのうち、ジェーンは、行く先に佇む一人の人間を認めた。
その輪郭はうすぼんやりとしていたが、ジェーンが歩みを進めるにつれ、だんだんと人相がはっきりしてくる。
その人物は、長身で、黒いフロックコートをぴしりと着込んでいる。黒髪の襟足は長く、目元にフレームの細い眼鏡が光っていた。全身を白と黒のモノトーンで装っている姿は、喪に服しているようにも見えた。
その人物は、ジェーンの方をじっと見つめていた。切れ長の目元が涼やかであった。
「こんばんは、良い夜ですね」
ジェーンは、ぼうっと佇むその相手を不審に思いながらも、明るく声をかけた。警邏隊としての癖のようだった。
「……お待ちしておりました」
黒いフロックコートを身にまとった人物は、ジェーンの挨拶に返答することもなく、淡々とそう言った。
男性とも女性とも取れる、そんな声だった。
「待っていた……? 私を、ですか?」
「はい、間違いありません。貴方を、お待ちしておりました」
「えっと、人違いではありませんか? それとも、デートへのお誘い、とか?」
ジェーンは、
「……。
その人物は、たわいもない会話ですら許さないというように、目を細めて冷たく返した。
そして、ゆっくりとジェーンの方へと足を踏み出す。
「い、いやっ、来ないで」
その時ばかりは
黒いフロックコートの人物は、ただ無言で、一歩一歩ジェーンに近づいていく。
「……良い子だ」
「ヒッ……」
黒いフロックコートの人物は、ジェーンの顔に、その手を延ばした。
だが、黒いフロックコートの人物の手は、そのまま、彼女の頭上へ伸びる。
手袋に包まれた指先が、警邏隊の制帽のつばにかかった。
次の瞬間、制帽が持ち上げられる。
黒いフロックコートの人物は、ジェーンの顔を覗き込んで言う。
「若、おふざけはお止めください」
「……わかったよ、セバス」
その声は、アレクサンドラたちが現場で聞いたものよりも、幾分か低かった。
甲高く整えられていた声音から、作り物の柔らかさが抜け落ちている。
「……それで、状況は本当にあの通りなのか?」
「はい、カラスに運ばせた手紙の内容に相違ありません。ヘンリー様は、もう……」
セバスチャンはそこで言葉を切った。
最後まで言う必要はなかった。
ジェーンは、しばらく何も言わなかった。
霧の向こうで、ガス燈の火だけがぼんやり揺れている。
「……そうか」
「申し訳ありません。あれ以上ヘンリー様の尊厳が貶められるのは忍びなく」
「……いや、セバスはよくやってくれた」
「それで若、この後はいかがいたしましょうか」
「いずれにせよ、警邏隊での『仕事』は終わりだ。ウォルター隊長も別教区での捜査協力を終えて現場に戻ってきてしまったし、潜入はここまでにしよう」
ジェーンの声には、敬意とも警戒ともつかない響きが混じっていた。
ウォルター・ロングウィトン。
あの男は警邏隊の制服や制帽の奥にある違和感を見逃さないだろう、と。そう判断しているようだった。
「彼は人物眼のある男だ。直接相対してしまえば、俺が女性のフリをしていたことにもすぐ気づくだろう。ここらが潮時だよ」
ジェーン・リードと名乗っていた巡査は、制帽を完全に脱ぎ捨てた。
霧を含んだ夜風が、押し込めていた髪をわずかに揺らす。
小柄な体躯。
細く整った輪郭。
そこに立っていたのは、もはやホワイトチャペル教区の女性巡査ではなかった。
ジェーンと名乗っていた青年は、親指で唇を拭う。
変装のために塗られていた紅が、親指の腹に乱暴に擦りつけられた。
「左様でしたか。ええ、もちろんかしこまりましたとも」
「……ところで、"
「いえ、"身元不明の女"を名乗る潜入者など、ウィットに富んでいて、大変よろしいかと」
「ありがとう」
青年はくつくつと笑った。
「しかし若、狙いすぎなのはむしろ姓の方では?」
「ほう」
「
「ああ、その通りだ」
青年は悪巧みをする子どものように、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「さて、俺たちも次の準備をしなければ。このまま、立ち止まるわけにはいかないからな」
「お供します……地獄の底まで」
青年は霧の奥を見た。
その先にある、まだ誰にも知られていない計画を見据えるように。
────その夜を境にして、
後に残ったのは、ただひとつの名だけである。
審問局の名付けたコード。
すなわち、"ジャック"と。