竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
「はあ?!」
「ちょ!?」
アレクサンドラとテオドリックの声が重なった。
ただの推理として聞き流すには、あまりにも異端的にすぎた。
「なんてこと言うんだ。誰かに聞かれでもしたら、ニューゲート監獄送りになるよ!?」
恩寵の帳。竜敦《ロンドン》を覆う聖なる霧。
赤き竜の加護そのものとして語られ、竜敦国教会の正統性を支えるものだ。
それを狙い、壊す。
その発想自体が、すでに異端思想そのものだった。
「恩寵の帳は赤き竜の加護の具象化であり、竜敦国教会の正統性の象徴だろう?破壊できれば、確かに教会の権威を深く傷つけるには最も効果的だろうが……」
アレクサンドラは周囲を見回し、声を潜めて言った。
近くを通り過ぎる聖職者たちの足音が、いつもより大きく聞こえる。
ここは審問局の控室ではない。
竜敦国教会大聖堂。
しかも今日は、高位の竜裔と聖職者たちが集う公会議の日だった。
「テオドリックの言う通り、普通はこんな考えを持つだけで監獄送りだろうがな。だからこそ、その可能性を俺達は考える必要があるんだろうが」
ヴィクターは大聖堂の奥へ目を向けた。
そこでは今まさに、赤き竜の加護を前提とした議論が交わされているはずだった。
その信仰を守るための審問官が、信仰の根幹を疑う。
矛盾している。だが、異端者の狙いを読むには、異端者の思考をなぞるしかない。
「審問官の名の元に、これ以上異端者共の好きにさせる訳にはいかねえだろ」
ヴィクターの声には、どこか強い決意が宿っているようだった。
「……ジャック一派の真の目的は、単なる竜裔暗殺ではなく、赤き竜信仰の根幹を揺るがすことかもしれないと? 恩寵の帳を消し去り、教会の神話を崩壊させる……。そんなことが可能なのか?いや、勿論可能であってはいけないはずだが」
アレクサンドラは、そもそもそんなことができるのか、と根本的な疑問を口にする。
「……」
ヴィクターはしばらく黙っていた。
いつものように面倒くさがっているのではない。
言葉にすれば、それが自分の中で形を持ってしまう。
それを吐き出すことを、どこかで拒んでいるようだった。
「……ずっと気になっていた事がある」
ヴィクターの脳裏に、あの瞬間が蘇る。
ウォルターの胸を貫いていたダモクレスの剣。
抜かれた傷口から溢れた、光とも灰ともつかない微細な粒子。
血も、肉も、骨も、身にまとっていたものでさえ残さず、竜敦の霧へ溶けていった男の姿。
あの粒子は、ただ消えたのではない。
ウォルターは、文字通りに、"霧"に溶けたのだ。
「ウォルターの体が消える際にあふれ出した粒子が……俺の目には、竜敦の霧とよく似ているように見えた。竜敦を覆う霧……"恩寵の帳"とだ。そんな事があるか?」
「!? ええっと、それは……どういうことだ?」
テオドリックは言葉を失っていた。
アレクサンドラも同じだった。
だが、彼女の場合、沈黙は長く続かなかった。
恐怖よりも先に、別の感情が湧き上がってきたからだ。
つまり、苛立ちである。
「……ヴィクター」
アレクサンドラは、ヴィクターの胸元を指で突いた。
「ずっと言いたかったことがあるんだが、お前は何故ものをはっきり言わない……というか、言葉を飲み込むというか、物言いが迂遠というか、やり口が回りくどいというか、とにかくまどろっこしいんだ? 気になっていたことがあるなら胸の内に秘めるな、声に出せ。多分そろそろわかってきてると思うが、私は察するとか気を配るとか苦手だからな。あと百歩譲って私は慣れてるからいいとしても、テオ先輩もいるんだぞ。言いたいことがあるならはっきり言え。あとシャツのボタンを開けっぱなすな、閉めろ。それから人にものを頼むときはきちんとお願いしろ。目上の人には態度を……」
「ちょ、ちょっと! 今そんなことで揉めている場合じゃないよ」
「……わかった。直す。善処する。だがその前に一言言わせろ。……後にしてくれ」
ヴィクターは大きな溜息を吐いた。
「言ったな?言質取ったからな?」
「二言はない。……良いから話を進めるぞ、時間が惜しい」
ヴィクターは続けて言う。
「話を戻すが。とにかくあの"恩寵の帳"は、竜裔が死ぬ際の残滓が集まったもんなんじゃないかと俺は思ってる」
恩寵の帳は、赤き竜の加護。
竜敦を外敵や、荒廃した外の世界から守る聖なる霧。
そう教えられてきたものだ。
それがもし、竜裔の死の残滓でできているのだとすれば。
竜敦の人々は、聖なる加護ではなく、死者の欠片の中で暮らしていることになる。
"
教会の聖句は、文字通りの意味だったのだ。
「それは……恩寵の帳は、竜裔の、言い方はおかしいが遺体で出来ていると?」
アレクサンドラは反射的にヴィクターの袖を掴んだ。
そのまま強引に引き寄せ、耳元へ口を寄せる。
この話を、大聖堂の真ん中で続けるわけにはいかなかった。
「ウォルター殿の最期を間近で見たお前が言うならそうなのかもしれないが……聞かれたらまずいどころの騒ぎじゃないぞ。まさか、この霧の一部がヘンリーやウォルター殿だったものだとでも?」
言ってから、アレクサンドラは自分の言葉に顔をしかめた。
あまりにも冒涜的だった。
だが、ヴィクターの推理に否定しきれない重みを感じたのも事実だった。
「寄るな、鬱陶しい。あくまで推測の話だ。だが、相手がそう考えているかもしれない以上、こちらも考えない訳にはいかねえだろ」
「……もしお前が収監されたら、たまに顔を見に行ってやるよ」
「いらねえ事考えてないでお前も考えろ。手遅れになりたくなきゃな」
「ちょっと、何ふたりでこそこそしてるんだい?」
「くだらねえ話だ。先進めるぞ」
「言いたいことは色々あるが……恩寵の帳の正体がお前の考えている通りだと仮定するぞ。私は実際にはその場を見ていないが……ウォルター殿の体が消える際の話を鑑みるに、一人の竜裔だけでは到底十分とは言えないはず。それはどう考えるんだ?」
「荒唐無稽な考えかもしれないが……どこかにそれを可能にする、集積・拡散装置のようなものがあるんじゃないかと考えてる」
一人の竜裔が霧へ変わるだけでは、竜敦全体を覆う帳にはならない。
ならば、何かがそれを集め、何かがそれを広げている。
そう考えなければ、あの白い霧の量には説明がつかないのではないか。アレクサンドラの疑問に、ヴィクターはそのように返した。
「どこか高所から、継続的に竜敦の霧を供給することができそうで、それを不自然に感じさせない……そんな場所にな」
「高所って言っても、狙撃できるポイントはあらかた確認したし、見張りもつけさせているけど……」
テオドリックには、二人が小声で何を話していたのかまでは聞こえていないらしい。
ただ、最後の言葉だけは拾ったようだった。
「継続的に竜敦の霧を供給することができて、それを不自然に感じさせない高所……」
アレクサンドラは、窓の外へ目を向けた。
霧の向こうで、鐘の音が鳴る。
先ほどから何度も聞いていた音。
公会議の警戒の中で、誰も意識していなかった音。
竜敦の時を告げる塔。
竜敦の空へ向かって伸びる、高い尖塔。
「時計塔……とか?」
「時計塔? いや、あそこの高所エリアは、ふだん厳重な警備が……ってまさか!?」
何度目だろうか、テオドリックの顔から再び血の気が引いた。
普段なら、時計塔の上部は厳重に守られている。
だが今日は違う。
公会議のために、警備の多くは大聖堂周辺へ回されている。
「……向かうべき場所が決まったな」
「時計塔はすぐそこだ……行くよ、二人とも!」
「はい、先輩!走るぞヴィクター!」
「仕方ねえな……」
ヴィクターはそう言いながらも、誰よりも早く身を翻していた。
大聖堂の回廊に、三人分の足音が響く。
祈りと儀礼の場を背に、彼らは霧の向こうの時計塔へ走り出した。