竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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竜の裔

 時計塔(ビッグ・ベン)

 

 竜敦(ロンドン)の刻を告げる巨大な塔は、大聖堂のすぐそばにありながら、普段は一般の者が近づくことを許されない場所だった。

 

 鐘楼へ至る高所区域には、常に近衛騎士が置かれている。

 なぜそこまで厳重に守られているのか、アレクサンドラはつい先ほどまで深く考えたこともなかった。

 

 だが今、その答えに近づきつつある。

 そして、だからこそ、この静けさは異様だった。

 

「……静かすぎる」

「おかしい。普段ならもっと人が……」

「……」

 

 ヴィクターは無言のまま周囲を見回している。

 

「急ぎましょう、先輩!」

 

 時計塔の頂上付近の鐘楼までは、三百三十四段の狭い螺旋階段を登らなければならない。

 

 三人はその苦労を想像しながらも、上へと向かうことを選んだ。

 

 

 足を踏み出したそのときだった。

 

 螺旋階段の柱の影から、細い刃が走る。

 

「二人とも、伏せて!」

 

 テオドリックの声に、アレクサンドラとヴィクターは反射的に身を低くした。

 頭上を、銀の切っ先がかすめていく。

 

「そう簡単に行かせるとお思いですか?」

「そりゃあ、素直に通させてくれるわけもないか……」

 

 三人が階段へ意識を向けた一瞬を狙い、竜敦塔で出会った"レイヴンマスター"───セバスチャンが背後の柱陰から刃を走らせたのだ。

 

 黒いフロックコートの裾が、かすかに揺れている。

 その背後では、数羽のカラスが、塔内部の手すりや窓枠に止まり、じっとこちらを見下ろしていた。

 

 ここで足を止めれば、彼らの企みを阻止することが叶わないかもしれない。

 だが、無理に突破しようとすれば、背後から刃を受ける。

 

 テオドリックは一瞬で判断した。

 

「二人とも先に行って! ここは僕一人で十分だ」

「……ヘマするなよ」

 

 ヴィクターは、脇を走り抜けつつ言った。

 

「お願いします、テオ先輩!そのいけすかないカラス野郎をぶちのめしておいてください!」

 

 アレクサンドラも、ヴィクターを追い越しながら振り返って声をかける。

 その間、セバスチャンはじっと待っていた。

 

「……さて、と。随分素直に二人を行かせてくれたね。僕なんてすぐに倒せて追えると?」

「いえ、そうではありませんが……貴方には思うところもありますので」

 

 セバスチャンの視線は、アレクサンドラでもヴィクターでもなく、まっすぐテオドリックへ向けられていた。

 昨日竜敦塔で見せた慇懃な笑みとは違う。

 そこには、奇妙な親しみと、薄い嫌悪のようなものが混じっていた。

 

「?……まあいいさ。君を倒してから、詳しく聞かせてもらうよ!」

 

 竜敦塔でアレクサンドラを殺そうとした相手だ。加減をする理由はない。

 

 テオドリックは腰の剣へ手を伸ばした。

 

 銀地に赤い逆十字の肩掛けマントが、風に揺れる。

 

 テオドリックは既に、異端を裁く審問官としての表情をしていた。

 

「……我が審問にもとづき、敵を赤き竜に仇なす者と裁定」

 

 テオドリックは、目の前の真っ黒な相手を睨みつける。

 

「敵を討たんがため、我、審問官テオドリックの名のもとに────」

 

 その様子に何かを感じ取ったのか、カラスたちが一斉に羽を震わせる。

 

「────ダモクレス、抜剣!」

 

 鞘から抜かれた刀身が、暗い塔の中で白く光った。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 テオドリックの声を背に、アレクサンドラとヴィクターは螺旋階段を駆け上がる。

 

 鐘楼へ続く螺旋階段は狭かった。

 

 二人が並んで進むことはできない。先頭をアレクサンドラが行き、その後にヴィクターが続いた。

 

 息が切れる。

 足が重い。

 それでも立ち止まるわけにはいかない。

 

 石段を踏むたび、下方から金属音が反響してくる。

 

 テオドリックが戦っている。

 ならば、自分たちは先へ進まなければならない。

 

 

 

 三百段超の階段を上り、アレクサンドラとヴィクターは鐘楼の間の手前に辿り着いた。

 

 道中は、無人だった。

 

 本来なら、そこには近衛騎士がいるはずだった。

 時計塔の高所区域を守るため、常に数名が配置されている。

 だが、石床には倒れた兵も、争った跡も、血溜まりさえもない。

 

 ただ、白い霧だけが、開いた窓から静かに流れ込んでいた。

 

「ここまで無人とはな……」

「静かすぎるどころの騒ぎじゃない!警備はどうなってるんだ警備は!」

 

 

「────彼らなら消えたよ」

 

 

 数段上にある開けた鐘楼の間、巨大な鐘の影から声がした。

 

 聞き覚えのある声だった。

 だが、三日前にホワイトチャペルで聞いた女性巡査の声ではない。

 作られた柔らかさが抜け落ちた、低く澄んだ声。

 

 ジェーン・リードの声ではない。

 その下に隠されていた別の誰かの声だった。

 

「やあ、遅かったじゃないか」

 

 鐘の影から現れたのは、小柄な青年だった。

 

 制帽も巡査服もない。

 変装のための紅も、作り物の笑みもない。

 

 ただ、その顔立ちの奥に、ジェーン・リードと名乗っていた頃の面影だけが薄く残っている。

 

 アレクサンドラは、その違和感に一瞬だけ息を呑んだ。

 知っているようで、知らない相手だと感じた。

 

 目の前にいるのは、三日前に言葉を交わした巡査ではなかった。

 

「……消えただと? てめえ……撃ったな?」

 

 ヴィクターの目が、石床を走った。

 

 弾痕はない。血痕もない。

 ここには本来いたはずの者たちの痕跡がまるで存在しなかった。

 

 消えた───その言葉の意味を、ヴィクターは瞬時に理解した。

 

「……全く、近衛騎士だからと竜裔ばかり採用しなければよかったものを」

「お待たせしてしまったのかな?それはどうも申し訳ない。待ち合わせ場所を聞いていなかったのでね、これでも走ってきたんだよ」

 

 アレクサンドラの発言に、青年は悪びれもせず肩をすくめた。

 

「そうか、お疲れのようなら少し休むといい。そうだな……世間話でもしようか」

 

 青年の声は、いたって軽かった。

 

「アレクサンドラ、そしてヴィクター。三日ぶりだ」

「ハッ。三日ぶりねえ……。ウォルターが心配してたぜ、サボりかってな」

「無断欠勤は感心しないけど……この男から言われるのは不本意だろうよ。そう思わないか、お嬢さん?」

「それはすまないことをしたと思っている……それに、彼が亡くなったことも。彼は、これからの時代に必要な男だったよ」

 

 その言葉に、ヴィクターの眉がわずかに動いた。

 

 ウォルターの価値を、この男も認めている。

 そのことが、ヴィクターには余計に腹立たしく感じられた。

 

「これからの時代ねぇ……。……お前の方から話をしようって言ってきたんだ、これからの時代ってのも含めて色々喋ってもらおうか。ジェーン・リードってのも偽名なんだろ」

「ああ、そういえば。名乗ってもいなかったね」

 

 青年は、楽しそうに目を細めた。

 

「とはいえ、改めて名乗るほどの者でもない」

 

 自分の本当の名を明かすつもりはない。

 青年の言葉には、そう告げるような含みがあった。

 

「だから、俺のことは"ジャック"と呼んでくれ。せっかく君たちがつけてくれた名だ」

 

 青年は、ジャックと名乗った。

 

「正確には名付け親はテオドリックだけだがな」

「本人に気に入ってもらえたならテオ先輩も本望だろう、きっと」

「……それで?これからの時代って事は、お前には目指すべき未来があるみたいだが……一体何考えてる?」

 

 ジャックは鐘楼の外へ目を向けた。

 白い霧の向こうで、大聖堂の尖塔がぼやけて見える。

 

「……"三冊目"の時代。俺は、それを作りたい」

「……また迂遠な物言いを。ヴィクターにシャーロックにお前、これで三人目だ。どいつもこいつも、言いたいことがあるならはっきり言って欲しいな」

「三冊目ってのは何だ。『主の御代に』はシリーズものだってか?」

「察しが良いね。その通りだ」

「ドンピシャかよ。じゃあ何か、次のタイトルは『竜公の御代に』だとでも?」

 

 ヴィクターは、自分の考えを言った。

 

「……流石だな。実のところ、『主の御代に』は上巻だったと考えていてね。その下巻が、『竜公の御代に』ということだ」

「上巻と、その下巻……」

 

 ヴィクターは考え込んだ。

 

「? 上下なら完結してるじゃないか。じゃあ三冊目ってなんだ。続編か? おいヴィクター。考え込むな、何か思いついたことがあるなら声に出せ。さっき改善するって言っただろう」

「考えをまとめる時間くらいよこせ」

 

 ヴィクターは眉をひそめた。

 

 三冊目。

 上巻と下巻。

『主の御代に』と『竜公の御代に』。

 

 彼の中で引っかかったのは、題名そのものではなかった。

 

 言葉だ。

 古典語から現代共通語へ訳された、教会の言葉。

 

「……面倒だが説明してやる。とは言えこれから言う話はお前どころか、古典語の単位を落とした学生であっても知っている常識中の常識だがな」

「落としとらんわ」

「お前が単位落としたとは言ってねえよ話聞け」

 

 ヴィクターは軽く咳ばらいをして、こう結論づけた。

 

「『竜公の御代に』は、国教会紀年法による暦の名前にもなっている聖句を現代共通語訳したものだ」

 

 ジャックと名乗った青年は、満足げに頷いて、アレクサンドラに対して奇妙な質問を投げかけた。

 

「そう───アレクサンドラ、今は何年だ?」

「なんで私に……? 1888年だろ」

「その通り、1888年だ」

 

 アレクサンドラは、当たり前のことを、当たり前のように答えた。

 

「だが正しくは、"竜公暦"1888年。あるいは、A.D.1888」

 

 暦。

 誰もが毎日使う、もっとも当たり前の言葉。だからこそ時の支配者たちは、そこに自らの名を重ねてきた。

 

「A.D.というのは、古い聖句を省略した表記だ。わかるだろう? ヴィクター」

「……Anno(アノ・) Draculi(ドラクリ)。すなわち国教会紀年法による暦は、偉大なる赤き竜の真名を冠してる」

 

 竜敦でも当然、暦には支配者の名を与えている。

 それが、Anno(アノ・) Draculi(ドラクリ)。そしてそれを略したものが、"A.D."という表記だった。

 

「そもそも"竜裔"というのも、古典語で"竜公の子"を意味する言葉を現代共通語訳したものだ。……だから言っただろ、誰でも知ってる常識中の常識だってな」

「古典語で"竜公の子"を意味する言葉……Dracula(ドラキュラ)のことか。確かに常識だな。それがどうしたと言うんだ?」

 

 アレクサンドラは、再び、当たり前のことを、当たり前のように答えた。

 

 

 竜の(すえ)、すなわち、竜裔(ドラキュラ)と。

 




ようやくここまで辿り着くことができました。
もう少しだけ、お付き合いください。
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